中国経済新論:実事求是

人民元切り上げの政治経済学

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

中国の外貨準備の急増に象徴されているように、人民元は切り上げ圧力にさらされている。緩やかな「元高」は中国自身にとってメリットが大きく、国際社会の要望に応えることもできるが、これを実現するためには、国内外の政治面でのハードルを乗り越えなければならない。

中国では、WTO加盟をきっかけに、海外からの直接投資が拡大し、また、新たに国際貿易に参入できるようになった民営企業の輸出の増大に支えられて、資本収支と経常収支はともに大幅な黒字を計上している。これを反映して、中国の2002年末の外貨準備は前年に比べ、GDPの6%に当たる742億ドルもの増加がみられ、年末には2864億ドルに達している。これは、日本に次いで世界第二位、中国の輸入のほぼ一年分にも相当する高水準である。

中国は公式には管理変動制を採用していることになってはいるが、97年のアジア金融危機以降、人民元がドルに対して一貫して安定しており、事実上ドルにペッグされている。現在のように人民元が割安の水準に設定されると、ドルの供給がその需要を上回ることになり、当局が市中に余っているドルを吸い上げる結果、外貨準備が増えるのである。仮に中国が変動制を採用し、当局による市場への介入が一切行われていなければ、外貨準備が増えない代わりに為替レートがすでに上昇していたはずである。

無理して人民元を現在の水準に止めようとすれば、対外収支の不均衡と外貨準備が一層拡大し、中国経済に色々な弊害をもたらすだろう。まず、外貨準備の急増が貨幣供給のコントロールを困難にし、不動産市場のバブルに拍車をかけることになる。また、中国はすでに日本を抜いて米国の最大の赤字相手国となっており、貿易不均衡の一層の拡大は通商摩擦を招きかねない。そもそも、中国の外貨準備の大半は米国債に投資しており、その収益率が国内に投資すると比べてずっと低いことを考えると、国民の貯蓄が必ずしも有効に運用されていないことになる。こうした歪みを是正するためにも、人民元の切り上げが欠かせない。

為替レートの調整に加え、為替制度自身も改革を迫られている。まず、円ドルレートの乱高下や、多くのアジア通貨が管理変動制に移行したことを背景に、ドルペッグの下での人民元の対ドル安定は、他の貿易相手国の通貨に対する大きな変動をもたらし、中国の貿易や経済全体の不安定要因になっている。また、資本の流動性が高まる中、通貨供給量と金利のコントロールが益々難しくなり、金融政策の独立性を保つためにも、現行の事実上の固定レートを放棄しなければならない。

ドルペッグからの離脱は、対外収支を含めた経済のファンダメンタルズが良好で、為替レートに若干の上昇圧力がかかっている時に行われるのが望ましいが、こうした前提条件は整いつつある。その際、大幅な切り上げよりも、変動幅を少しずつ拡大する形で毎年数%の上昇を容認するのが現実的であろう。ただ、今のところ、政府の新しい指導部が指名される全国人民代表大会の開催(3月)を前に、政策のイニシアチブが採りにくいこともあって、人民元の切り上げと新しい為替制度への移行に関して当局は慎重な姿勢を崩していない。

その一方で、日本をはじめとする主要工業国が、世界的デフレの解消と対中貿易不均衡の是正を理由に、人民元の切り上げを求めている。確かに、以上分析してきたように、人民元が上昇する余地は十分あるが、中国の新しい指導部にとって、外圧に屈する形での切り上げは是が非でも避けたいシナリオであろう。この意味で、黒田東彦財務官と河合正弘副財務官が連名で昨年12月2日付の英フィナンシャルタイムスに発表した「世界はリフレーション政策に転ずるべき時」と題する論文をはじめ、最近相次いで日本の金融当局者によって言及された元高待望論は、人民元の切り上げを遅らせることはあっても、早めることはないであろう。彼らが期待しているプラザ合意後の円高に匹敵する「元高」に至っては、非現実であると言わざるを得ない。

このように、人民元の切り上げは、中国自身にとっても望ましく、それによって国際社会の期待に応じることもできるにもかかわらず、関係国の間で信頼関係ができていないため、それが実施される展望はまったく開かれていないというジレンマが生じている。中国の経済力はGDPや貿易規模から見て、すでにイギリスに匹敵するレベルに達しており、現在の元の切り上げを求める声に象徴されるように、主要工業国の産業調整やデフレ、貿易不均衡などの問題を議論するときに、もはやその存在を無視できなくなっている。従って、中国を蚊帳の外においた現在の国際経済政策の協調は限界に来つつあり、今後は同国のG7への早期参加を視野に入れるなど、お互いの信頼関係を高めることのできる体制を整えていくべきではないだろうか。

2003年2月7日掲載

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