中国経済新論:経世済民

経済学を知らないエコノミスト・経済を知らない経済学者
― 罪が重いのはどちら ―

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

私は研究生活の中において、常に経済学者とエコノミストの間の相互不信に悩まされている。経済学者は分析の厳密性にこだわるあまりに現実の世界から遊離しがちであるが、エコノミストも逆に経済理論よりも直感に頼る傾向が強く短絡的議論に陥りやすい。その結果、両者は同じ経済現象を研究の対象としながら、共通する分析の枠組み(土俵)を持たず、互いの議論が平行線のままで終わる場合が多い。少しでも両者の掛け橋になるよう、心掛けてきたが、まだ学者の先生方が求めるレベルには達していないようである。例えば、ベストセラーにもなった『経済学を知らないエコノミストたち』(野口旭著、日本評論社)の中で、私もその一人として、ご指名を頂いている。批判は謙虚に受け止めているが、バランスを取るためにも、あえてエコノミスト側に立って「経済を知らない経済学者」に反論したい。

経済学は社会科学であると標榜する以上、理論と実証を兼ねなければならない。教科書にもちゃんと書かれていることだが、経済学は仮説から出発し、データをもってこれを検証した上で、両者の間にズレがあれば仮説をさらに修正するプロセスを繰り返すという科学的方法論を建前としている。しかし、実際には、経済学者が忠実にこれに従うことはほとんどなく、実証分析が常に「省略」されている。その結果、経済学は象牙の塔でしか通用しない空理空論になってしまったのである。

実証研究どころか、経済学者は現実の経済の動きについてさえ、殆ど興味を示さないのである。経済学者は経済学には詳しいが、現実の経済に関しては素人である。例えば、日本のGDPはどのぐらいあるのかと聞くと、経済学部の学生に限らず、先生でさえもほとんど即答できないだけでなく、どのような資料を調べればいいのかさえ分からないだろう。また、「現在の円ドルレートは?」と聞かれても、自分がアメリカに留学した頃のレートしか言えない先生もいるくらいである。

研究だけでなく、大学における経済学の教育も、学生にとってほとんど役に立っていない。この状況は日本における英語教育と類似している。英語の先生は文法には詳しいが、英会話になると大体下手である。したがって、その教え子も英会話ができるはずがない。経済学の先生は理論には精通していても、その中で現実の経済問題について語れる人は稀である。その弟子もまた、経済音痴のまま経済学部を卒業するのである。大学院に至っては、あくまでも世間知らずの学者の再生産という意味しか持たない。

理論はもちろん重要だが、実証と応用を軽視すべきではない。アインシュタインのように、演繹法だけを頼りに相対性原理という画期的理論を構築した天才もいるが、大半の科学者は地道に実験を重ねて科学と技術の進歩に寄与している。中でも、エジソンのように科学を道具に応用問題に取り組む技術者が欠かせない。実際、自然科学の場合、大学でも理学部と工学部という分業体制になっており、定員は前者より後者の方がずっと多い。これに対して、経済学では、いつまで経っても理論一辺倒という状況のままである。

本来、経済学とは、現実の世界に立脚した経世済民の学問である。しかし、いつの間にか、経済学者はこの原点を忘れてしまったのである。「経済学を知らない」エコノミストが本当に大勢いるなら、ひょっとしたら、彼らが不勉強だからではなく、経済学が役に立たないからであろう。これに対して、経済学者が「経済を知らない」ことは、怠慢に他ならないのである。

2004年1月22日掲載

2004年1月22日掲載