中国経済新論:経世済民

楽観派と悲観派

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

中国の未来に関して、近年、日本の世論は楽観論と悲観論の間で大きく揺れてきた。97-98年にアジア各国が金融危機に見舞われ、世の中は中国の未来に関して悲観論一色となった。当時、人民元の切り下げは避けられず、これをきっかけに中国も他のアジア諸国と同様、危機に陥るであろうという見方が主流であった。しかし、2001年頃、世界経済の低迷が深まる中で、中国経済が高成長を続け、一人勝ちの様子を呈したことを受けて、マスコミの中国に対する論調は180度変わり、中国経済の躍進に関する報道は毎日のように新聞の紙面を賑わした。中国は情報革命の波に乗り、非常に短期間に日本を追い越すだろうという楽観論が支配的になり、中国脅威論が猛威を振るっていた。この流れは、2003年前半のSARSの蔓延を経ても変っていない。

これに対して、私はアジア通貨危機の早い段階から、人民元の切り下げの可能性を否定し、アジア通貨危機は中国にとって「塞翁が馬」に当たり、中国の台頭を象徴する出来事であると予言した。当時としては、超楽観派の見解に属していたに違いないが、振り返って見ると、その通りの展開になってきた。その後、中国の未来について楽観論一色に変わると、私は中国の実力を過大評価してはならず、その弱点とリスクも忘れてはならないと訴えた。マスコミの論調に代表される世論を基準とすれば、私は2001年を境に、楽観派から慎重派に変心したように見えるかもしれないが、実際には、私は一貫して慎重的楽観という観点を堅持している。すなわち、中国は色々な問題を抱えながらも、一歩一歩前進し、8%程度の成長率は当面続くであろうという見方である。ただし、世の中の行き過ぎを牽制するために、私は、慎重論が主流だった頃はあえて楽観の面を強調し、逆に楽観論が支配的になった頃には、慎重論を展開したのである。その結果、実際に振れているのは世の中の論調なのに、私が振れているように見えるのである。

確かに節操がなく常に世論に合わせて発言する評論家も一部にはいるが、本当の専門家は、自分の見解を簡単に変えることはない。実際、中国の未来についても、学界では、政治・国際関係論というアプローチをとる悲観派と、経済発展というアプローチをとる楽観派に分かれている。前者は「文化大革命」や「天安門事件」といった記憶を脳裏に焼きつけており、共産党が崩壊するともに中国経済も崩壊するというハードランディングシナリオを想定している。また、国際関係は国益の衝突というゼロ・サム・ゲームと見なし、中国と対立するスタンスを採っている。これに対して、後者は、台湾と韓国の経験に注目し、共産党が崩壊しても、民主主義への移行が順調に達成できると考え、また、日中間の経済交流をウィン・ウィン・ゲームであると見なしている。

それでも、世論が楽観論と悲観論の間で大きく揺れてしまうのは、そのときそのときの「空気」に合わせて、マスコミに登場させられる専門家が違ってくることを反映しているからである。このように、専門家は世論形成に貢献しているというよりも、単にそれに利用されているのかもしれない。皆さんがお読みになっているこの「中国経済新論」の狙いは、まさに、マスコミのこのような不合理な方針に左右されずに、私の主張を、直接的かつ継続的に読者に届けることにある。

2003年7月8日掲載

2003年7月8日掲載