中国経済新論:世界の中の中国

経済飛躍期の為替切り上げ圧力
― 日本とドイツの経験と教訓 ―

何帆
中国社会科学院世界経済・政治研究所

張斌
中国社会科学院世界経済・政治研究所

一国の為替レートがその国の経済発展に伴って調整することは不可避である。日本とドイツの経験が示したように、変動相場制、資本移動の自由化、独立した金融政策という組み合わせは大国経済の必然的な選択である。

経済大国は高度成長期に常に内外からの通貨切り上げ圧力に直面する。この問題をいかに解決するかは、その国のマクロ経済の安定性と持続的な成長と経済の飛躍を順調に実現することにとって重要な意味をもつ。

日本のインフレとバブル経済

60年代から90年代の日本の輸出入の動きを見ると、2つの時期に分けることができる。60年代までは貿易均衡の時期で、70年代以降は貿易黒字の時期である。

戦後の再建期、日本の国内投資需要は旺盛であり、資本財輸入が大幅に増えた。日本政府は資本財輸入を確保するため、外為管理を実施する一方、輸出による外貨獲得を奨励していた。この時期の日本の貿易収支は基本的にほぼ均衡状態が保たれ、開放的・バランスのとれた経済成長を成功裏に実現することができた。

70年代以降、貿易財部門の労働生産性が急速に上昇し、貿易均衡から持続的な貿易黒字への転換期を迎えた。黒字転換へ至るまでには、輸入代替能力の向上のほか、輸出競争力の向上という要因も働いた。

しかし、持続的な経常黒字は、円高に対する内部的・外部的圧力をもたらした。日本とドイツの急速な経済成長とは対照的に、米国は巨額な貿易赤字と資本流出の中、ブレトンウッズ体制下の固定為替制度を維持できなくなった。米国は、ドルの切り下げについてドイツ、フランス、日本などと協議したが、ドルの切り下げは拒否された。

60年代末から70年代初頭にかけて、日本における主流的な見方は、日本経済はまだ脆弱であるため、円高は経済発展を妨げるという内容であった。円の過小評価に対する欧米の非難に対し、日本政府は、ほかの政策の実施で外圧を和らげることができると信じていた。

日本政府は、ニクソンショックの前に、国際収支黒字の削減で円高圧力を緩和するため「8項目対策」を発表した。その内容は、輸入規制の緩和、途上国に対する優遇関税の導入、関税引き下げ、対内外資本投資の促進、非関税障壁の削減、対外経済援助の強化、輸出税の促進効果の見直し、「秩序のある市場」の導入である。

このほか、大蔵省と日本銀行は、民間銀行に対し、より多くのドル資産を保有するように勧めた。これは、通貨当局のドル資産を減少させることを通じて、マネーサプライの伸び率およびインフレのリスクを低下させる狙いである。

しかし残念ながら、「8項目対策」は、円高期待を解消することができず、民間銀行も大事に至れば、市場原理に基づいて行動する。ニクソンの発言後、ドル安期待が渦巻く中、銀行は自分自身の利益を守るため、手持ちのドル資産を大量に売却せざるを得なかった。

1971年8月、ニクソン大統領は、ドルと金の交換中止に加え、一方的にすべての輸入品に対し10%の輸入関税の徴収を発表した。これは、ほかの通貨がドルに対し10%上昇することを意味する。市場では即座に強いドル安期待が生じ、ドルの大量売りが起こった。

当初、日本銀行は、対1ドル360円のレートをあきらめたくなかった。しかし、このレートを維持する最大の難点は、外為市場における供給過剰になったドル資産――貿易黒字、流入したドル資産、国内金融機関の売却したドル――をすべて吸収しなければならないことである。当時、日本の資本規制はまだ厳しかったが、ニクソン発言後の僅か2週間の間に、日本の外貨準備はドル買いのため50%も増え、ベースマネーは新たに1.5兆円増加した(当時のベースマネーの規模は24兆元)。日本は、制御不能となった通貨供給とインフレという深刻なリスクに見舞われることとなった。

円が市場に大量に流入することで、過剰流動性という局面をもたらし、もはやインフレは不可避となった。実際、1~2年のタイムラグを経て、日本は深刻なインフレに陥った。70年代半ば、日本のインフレ率は、ピーク時に25%近い水準にまで上昇した。

80年代に円は再び上昇圧力にさらされた。今回、日本政府は、金利政策を駆使して円高圧力の軽減を図ったが、これが80年代末期のバブル経済の一因となるとは予想されていなかった。

日本の貯蓄率は非常に高い。高い貯蓄率は、非常に高い投資率を支える。85年のプラザ合意以降、円は大幅に上昇したため、日本の貿易財部門は以前のように輸出で利益を稼ぐことができなくなった。それでは、資本はどこに流れたのだろうか。

日本国内の金融市場は短期間にこのような過剰資本に合理的な運用手段を提供することができなかった。このため、大量の資本が不動産・株式市場に流れ、バブル経済が作り出された。

日本銀行は、円高圧力を緩和し、円高による日本経済へのマイナス影響を軽減するため大幅な利下げを実施した。しかし残念ながら、拡張的な金融政策は円高進行を阻むことができなかっただけでなく、洪水のように不動産・株式市場に流れた資本をさらに刺激し、バブル経済を深刻化させた。

独立した金融政策を選択したドイツ

60年代から90年代にかけてのドイツ経済と日本経済は、非常に似通っているところがある。両国とも、戦後の世界経済において最も突出した国であり、長い間貿易黒字を続けていた。60年から90年の30年間、ドイツの貿易収支はほぼ一貫して黒字を保っていただけでなく、65年以降の黒字規模は拡大し続けていた。日本との違いは、ドイツの貿易相手は欧州諸国が中心であるのに対し、日本の貿易黒字は米国に集中している点である。

継続的な貿易黒字のため、マルクは上昇の一途を辿っていた。60~90年の間、マルクの対米ドル名目レートは、4.17から1.49へと、1.79倍も上昇した。貿易で加重平均した名目実効レートは1.43倍上昇した。名目レートにしても、名目実効レートにしても、この期間にマルクの上昇幅は円を上回っていた。

ブレトンウッズ体制の崩壊前、マルクはドルに固定されていたが、米国経済よりもドイツ経済の方が堅調であった。固定相場は国と国の間の経済力の変化を反映させることができない。ドルとの固定相場を維持するため、ドイツの通貨当局は市場から供給過剰になったドルを買わざるを得なかった。通貨当局のドル資産の増加は国内の物価安定を脅かした。ニクソンショック以降、国内インフレを嫌ったドイツ通貨当局は4対1の対ドル固定相場を放棄し、これによりマルクが上昇した。

しかし、マルクが上昇した後も、ドイツの貿易黒字は減少しなかった。当時の貿易黒字はマルク高と相まって膨む傾向にあり、そして継続的な貿易黒字はマルクの一層の上昇をさそった。80年から85年の間、マルクは一時下落したが、これは石油危機の影響を受けたものであり、石油危機後、マルクは以前のような上昇の勢いに戻った。

ドイツ通貨当局の姿勢は非常に鮮明であった。国内に重点をおいて特に物価と生産の安定を重視した。マルクレートの重要性は相対的に低く置かれた。国際金融の理論によると、独立した金融政策、資本移動の自由化と固定相場制という三つの政策を同時に採用することはできないが、ドイツ通貨当局はそのうちの独立した金融政策と資本移動の自由化を選択し、マルクの変動相場制を容認した。

ドイツが日本よりも恵まれていたのは、欧州地域内の通貨共同フロート・メカニズムを通じて、欧州のほかの国がマルクの上昇圧力をある程度分担し、ドイツマルクは投機資本による打撃が比較的小さかったことである。

欧州連合の加盟国は72年に、各国の為替変動幅を上下2.25%以内に収める協定を締結した。79年に欧州通貨制度が創設された後も、共同フロート・メカニズムが継承されている。欧州通貨制度の創設により、マルクを標的にしていた投機資本が欧州通貨制度の中のほかの弱い通貨にシフトした。米国からの圧力にしても、ドイツ経済の主要指標の変化にしても、マルクがドルに対して高くなると期待される場合、投機資本は直接にマルクを攻撃するのではなく、マルクに比べ弱いリラやボンド、あるいはほかの欧州通貨に集中することになった。

投機資本の攻撃により、フィンランド・マルク、イギリス・ボンドはマルク・ペッグから離脱したが、現在も欧州通貨制度は存続している。共同フロート・メカニズムは、域内の貿易・投資にとって有利であり、マルク・ペッグは物価を安定させることができる。また、欧州通貨の共同フロート・メカニズムがなければ、これら国の通貨が投機資本の攻撃を受けない保証もない。いずれにせよ、共同フロート・メカニズムにより、各国通貨は対米ドルでの安定性を強めた。

金融政策を為替レートに従属させてはならない

以上のような日本とドイツの60~90年代の為替変動の歴史を回顧、比較すると、次のような教訓が得られる。

一国の経済が飛躍する時期においては、おのずと内外からの通貨切り上げ圧力に見舞われ、為替レートは必然的にこのような趨勢に沿って調整する。通貨切り上げは、対外収支の均衡化のほか、国内における経済資源の配分構造(貿易財部門から非貿易財部門への移転)の再調整の必要性をも反映している。

為替調整の最良な方法は緩やかかつ漸進的に調整することである。ファンダメンタルズの調整は通常緩やかで漸進的であるため、これに合わせて為替調整も緩やかで漸進的であるべきである。このような調整はファンダメンタルズの変化に適応し、最も効率的である。また、漸進的な調整は、貿易財部門と非貿易財部門における経済資源の再配分を促進することができる。日本の経験からも分かるように、突如かつ大幅な為替調整を行った場合、国内投資はすぐに新たな投資先を見つけることができなくなる。資本が大量に資本市場に流入すれば、バブル経済を誘発する可能性が高い。

変動相場制、資本移動の自由化、独立した金融政策は、大国経済の必然的な選択である。資本移動の自由化、独立した金融政策、固定相場制の三者の中から、ドイツと日本は相次いで資本移動の自由化、独立した金融政策を選択して、固定相場制を放棄した。

一国が世界経済の重要な新勢力として台頭する時、その国の為替も相応の調整がなされなければならない。資本移動の自由化により、問題の所在と解決方法を早期に発見することができ、合理的かつバランスのとれた為替レートの形成が促進される。これは漸進的な為替調整の必要条件である。一般的に、資本移動の自由化が実施された後の投機資本による通貨攻撃を誇張する必要はない。ドイツは日本よりも早く資本移動の自由化を実施し、マルクも投機的な攻撃を絶えず受けていたが、国内の物価と生産の安定を脅かすまでにはいかなかった。

一方、中国は政策目標の選択において、国内金融政策の自主性の維持を強調し、金融政策を為替政策に従属させることは絶対にできるものではない。

日本は金融政策で為替レートを守ろうとしたが、結局、守りきれず、かえって国内のインフレとバブル経済を誘発した。ドイツの経験が示したように、通貨当局が国内の物価と生産の安定を維持する姿勢が鮮明であれば、為替の変動と資本移動の自由化は国内経済を破壊するまでには及ばない。

一国の経済飛躍期において、ほかの大国からの指図を防ぐために、対外的に金融政策の自主性を守る姿勢を明確に示すと同時に、国際協調の強化を通じて外圧を緩和しなければならない。特に、地域通貨協力は、地域内の大国が投機資本からの攻撃を緩和するほか、通貨高による貿易財部門へのマイナス影響を軽減することができる。ユーロ圏の共同フロート・メカニズムを通じて、ドイツは投機資本を域内の弱い通貨に誘導すると同時に、域内におけるマルクの上昇を抑制し、域内の貿易と投資の安定を保つことができた。

2004年7月28日掲載

出所

「経済崛起時期的匯率昇値圧力」『南方周末』2004年6月24日
※和訳の掲載にあたり著者の許可を頂いている。

2004年7月28日掲載