中国経済新論:世界の中の中国

東アジア経済における「雁行モデル」の行方

何帆
中国社会科学院世界経済・政治研究所

1971年、河南省生まれ。1993年海南大学経済学院を卒業。1996年、2000年に中国社会科学院大学院より国際経済学修士と博士学位を取得。 1998年から2000年までの間、ハーバード大学経済学部に客座研究員として留学。現在、中国社会科学院世界経済・政治研究所において、当研究所が発行 している専門誌「世界経済」の編集を務める。国際金融、国際政治経済学及び制度変遷理論などの領域において、研究活動を展開している。

「雁行モデル」の「アジアの奇跡」に対する貢献

20世紀60年代から90年代初期にかけて、東アジア経済には、一つの完成された分業体制が形成された。いわゆる「雁行モデル」である。「雁行モデル」において、日本は技術提供国と投資出資国の役割を果した。日本の産業構造は絶えず高度化を図り、その中で、成熟期あるいは大量生産期を向えた産業をコスト優位性が持つアジア四小龍(香港、韓国、台湾、シンガポール)に移転させた。これら諸国と地域の産業が高度化されると、その産業は更に廉価労働力を持つ東南アジア地域及び中国の沿海地域に移転させられた。このように、次々に展開される地域分業モデルによって、東アジア諸国が相次いで離陸し、まるで空を飛ぶ雁陣に似ているため、それゆえ「雁行モデル」と呼ばれるようになった。

最初に「雁行モデル」を主張したのは、数人の日本人学者である。東アジア地域経済協力において、日本というリーダーが最も重要な役割を果していることは、彼達の共通の認識である。しかし、こうした学者達が、アメリカという要素を見逃した事実を指摘しなければならない。事実として、雁陣の製品の多くは、最終的にアメリカに輸出されたのである。仮にアメリカという巨大な市場の導きがなかったら、「雁行モデル」は成立しなかっただろう。アメリカが東アジアに市場を提供したことにはそれなりの訳がある。まずアメリカは「ドル」という独自な国際通貨の地位を生かし、ドルの回流(日本はアメリカに対して、大量の貿易赤字を計上しているが、しかしその殆どがアメリカに対する投資に使われた)によって、その貿易赤字を埋める狙いがあった。一方、アメリカが東アジアに気前よく輸出市場を提供したことには冷戦の背景も見逃してはいけない。日本、アジア四小龍、そしてフィリピン等の東南アジア諸国のいずれも冷戦の最前線に位置し、アメリカは共産主義陣営を阻止するために、これらの諸国をもり立てたのである。これによって、東アジアの経済の離陸はあくまでも特殊な歴史背景の中における一種の「要請された発展」にすぎない。つまり、パーティーに参加したがる者が大勢いるが、実際にパーティーの招待状を手に入れたのはそのわずかである。

経済学の角度から見ると、「雁行モデル」にはいくつかの必要条件がある。
(1)雁陣でのあらゆる構成国の輸出には充分な市場が存在すること。(2)雁陣において、後発国は絶えず先進国から資本と技術の支持を受けられること。(3)雁陣におけるすべての構成国の発展速度は相対的に均衡であること。言い換えれば、リーダーの速度は遅すぎてはいけないし、逆にその後を追う「雁群」の追い上げ速度も速すぎるわけにはいかない。

「雁行モデル」の解体

20世紀90年代以降、「雁行モデル」の必要条件が維持できなくなった。東アジア経済は、雁陣のない氷河期に突入した。「雁行モデル」の解体をもたらす以下のいくつかの要因が考えられる。

(1)日本経済の衰退

20世紀90年代以降、バブル経済の崩壊に伴い、日本経済は長期的な衰退状態に突入した。90年代全体の年平均経済成長率はわずか1%しかなく、21世紀に入ってから、日本経済はさらにマイナス成長に陥った。90年代、日本はアメリカとの競争に敗れた。コンピュータ、電信及びインターネットといった新しい分野において、60、70年代の鉄鋼と家電製品、80年代の自動車と半導体のように再び世界を支配する地位を獲得することができなかった。日本経済の衰退により、東アジア地域からの対日輸出は減少し、日本と東アジア諸国の間には大量の貿易黒字が計上された。仮に日本がこうした貿易黒字を東アジアに投資し、東アジア諸国はその他の先進諸国から充分な市場を確保できるという条件が同時に満たされれば、東アジア諸国の経済成長は依然保たされたはずである。しかし、残念なことに、1997年の金融危機以降、日本が不良債権と円安に対処するために、東南アジアから大規模に海外投資を撤退した。そのため、日本は「雁行モデル」における資本と技術の提供国としての役割を完全に放棄し、雁群のリーダーはもはやいなくなったのである。

(2)アメリカにおける20世紀90年代のニュー・エコノミーと21世紀以降の経済衰退

90年代のアメリカでは、IT産業が大いにもてはやされ、ベンチャー・キャピタルないしナスダックなどの金融革新はさらにニュー・エコノミーの波を巻き起こした。コンピュータとインターネットという新興分野において、アメリカはアジア四小龍、中国大陸との間には、新しい分業局面が形成された。先進諸国からの産業移転に頼らず、発展途上国での模倣や先進諸国との間での革新競争は、この新しい分業局面の特徴である。発展途上国での模倣は先進諸国に新しい製品に対するR&Dへの動機付けを与え、両者の間にはR&Dをめぐる競争が引き起こされた。これは、従来の産業移転のパターンが崩れ去ったことを意味している。しかし、ニュー・エコノミーの発展過程において、経済の過熱化、過度な投資といった問題によって、2000年第四半期以降のアメリカ経済の各指標は、急激に悪化傾向に転じた。2001年9月11日におけるテロ事件の発生をきっかけに、アメリカ経済は深刻な不況に向かった。シンガポール、韓国といったアメリカのニュー・エコノミーの後を追う東アジア諸国も大きな打撃を受けた。自分の将来に対して、東アジア諸国はますます当惑している。

(3)中国の台頭

中国の対外開放に伴い、従来の雁群には、13億人口を抱え、経済の高成長を続ける発展途上国が加えられたことをきっかけに、従来の陣形が崩れた。機械設備と電力設備を中心とした輸出構造の高度化、特にパソコン、電信及び周辺機器の輸出は大幅な伸びは、中国の輸出拡大を導いた。2001年前半、モニターと携帯電話は、オモチャや靴といった伝統的な製品を抜いて、中国の輸出の上位を占めるようになった。中国国内の家電メーカは激しい競争の中で、製品の品質の上昇とコストの削減によって、東南アジアにおいて組み立てを行っていた日本の家電メーカの市場シェアを奪い取っただけではなく、1998年以降大量の輸出まで実現した。中国の台頭は、東アジア諸国に強大な競争圧力をもたらし、こうした新しい変化は従来の雁行モデルに大きな衝撃を与えた。

岐路でさまよう東アジア経済

「雁行モデル」を失った東アジア経済は、まさしく重要な転換点に差し掛かっている。最近の動きから見ると、「雁行モデル」解体後の政策対応には二つの傾向が見られる。

(1)協力から後退し、経済成長を保護主義に頼る動き

このような政策を公然と発表した国はない。しかし保護主義に回帰する動きがすでに存在している。2001年12月以降の急激な円安には、日本政府がそれを利用し、日本の輸出、さらに日本経済を刺激する狙いが読み取れる。これをきっかけに、韓国、台湾及びタイの為替と株式市場が急落した。もし日本政府がこのまま独断専行していけば、東アジア地域における通貨切り下げ競争に発展するリスクが高まっていくだろう。第一次世界戦争以降、ヨーロッパの国々の間にはこのような「通貨戦争」が勃発し、それが30年代世界規模の経済大恐慌を引き起こしたのである。

(2)両国間協力と地域協力の動き

80年末以来、東アジア地域での経済協力に対する要望が次第に高まった。1989年にAPECが誕生し、1997年東アジア金融危機以降、地域通貨協力に関する論議も盛んに展開されるようになった。日本とシンガポールとの自由貿易協定、ASEAN+中国FTAのような次地域的な自由貿易協議は、最近の地域経済協力における新しい焦点である。EU、NAFTAは、排他的な地域貿易集団を形成するのを目的としていることとは違って、東アジア地域における経済協力は、グローバル化を間接的に推進するためである。WTOのウルグアイ・ラウンドでの交渉が長引き、人々の多国間の貿易体系に対する懸念がAPEC誕生の背景にあった。APECはまさしくアメリカと東アジア各国が、側面から貿易自由化を推進しようとする試みである。東アジア地域は経済発展水準の格差が極めて大きく、伝統的にもアメリカ市場に依存し、自由貿易圏を形成する条件を揃えていない。APECでは、いわゆる「開かれた地域主義」が提唱されているが、その可能性に対する説明が欠けていることから、色々な矛盾な面も露呈している。APEC内部の両国間自由貿易協議が盛んになった原因は、東アジア金融危機以降のAPEC発展の挫折、1999年WTO交渉の失敗、さらにAPECに対するアメリカの冷淡な態度によるものである。APECから両国間貿易協定へと後退したことから、東アジア経済が求心力を失い、バラバラになった局面が窺われる。

台頭する大国の地域化政策

「雁行モデル」解体以降、アジア各国はいかに地域の資源を再配置し、新しい分業モデルを構築できるのかという新たな問題に直面している。国際分業における独自な地位を生かし、中国は近いうちに世界で最も重要な製造業の生産中心になり、グローバル化の進展に直接かつ全面的に突入することは、われわれの基本判断である。これは中国がより一層従来の「雁行モデル」から脱退することを意味する。この判断の政策的な意味は、WTO加盟実現後、中国は脱地域化戦略ではなく、グローバル化戦略をより一層推進すべき点にある。

経済厚生を収益とコストの面から見ると、地域経済協力に参加することは、中国に直接な利益をもたらさない。(1)中国と東アジア、特に東南アジア国家との間には分業協力の基礎が欠けている。(2)資本取引に対して厳しく規制しているため、中国は東アジア金融危機の中、国際投機資本による直接的な衝撃を受けなかった。中国は資本取引に対する規制を緩和してから、ようやく地域通貨協力のメリットが見えてくるだろう。(3)仮に地域経済協力が非常に高い水準に達しても、地域経済協力が経済成長と外部からのリスクに対する影響は、依然に限られたものである。BalassaのEUに対する有名な研究によると、関税同盟による貿易機会の増大はわずかGDPの0.15%にあたる経済厚生をもたらすことに留まっている。同時に、「9・11テロ事件」以降の世界経済の情勢から見ると、仮に地域経済協力がEUの水準に達しても、依然として世界におけるその他の地域の経済衰退によって深刻な打撃を受けることになる。

しかし、政治経済分析の角度から見ると、地域経済協力に積極的に参加することは、中国の国家利益に合致する。中国は台頭しつつある大国である。全世界、特に東アジア近隣諸国はこうした中国の台頭に対して非常に関心を寄せている。多くの国家は中国の台頭が周辺諸国の経済発展と地域安全に対して脅威になるのではないかと懸念している。中国が建設的な態度で地域経済協力に取り込むことは、台頭の過程に現れるこうした摩擦と抵抗を抑えることに有益である。すべてのグローバル化規則は発展途上国に公正かつ有利であるとは限らず、東アジア諸国の力を借りることによって、中国はより自分の利益を維持することができる。もしリーダーがいなければ、アジア経済協力はうまく推進できない。中国は一つの潜在的なリーダーとして、提案者そして調整役としての力を発揮できれば、この地域においてますます重要な役割を果すことになる。従って、戦術的に地域化を展開することは、中国のグローバル化戦略の実施に有益である。

2002年3月14日掲載

2002年3月14日掲載