日本の上場企業は、118兆円の現預金を抱えている。TOPIX500構成企業の保有額は2013年度の約55兆円からほぼ倍増し、総資産に占める比率(加重平均)は10.7%と、米国主要企業の6.6%、欧州の7.7%を明確に上回る。同じ10年で、配当は8兆円から25兆円へ、自社株買いは3兆円から17兆円へと拡大し、株主還元の総額は3.5倍になった。一方、売上高に対する設備投資比率・研究開発費比率はほぼ横ばいである。利益の拡大によって生み出された資金は、成長投資よりも、現預金の積み上げと株主還元に振り向けられてきた。――これがこの10年の資金配分の実像である。
この現預金を巡って、2026年の政策論議は鋭く割れた。コーポレートガバナンス・コード(CGコード)の改訂に関する有識者会議では、機関投資家側が過剰保有の検証・開示の明記を求め、企業側は現預金のみを特出しする規律は経営の自律性を損なうとして削除・修文を求めた。経済産業省の成長投資ガイダンスの策定過程でも、同じ緊張が繰り返された。最終的に両文書は、同じ着地点を選んだ。現預金の保有は一律に否定されるべきものではなく、会社が保有の必要性・合理性を説明できる限りにおいて、適正な水準の保有も経営資源の配分の一環である――という「説明責任を伴う保有」の規範である。
筆者は、CGコード改訂有識者会議のメンバーおよび産業構造審議会・価値創造経営小委員会の委員として両文書の審議に参画し、本稿の中核をなす「最適現預金水準」の枠組み――現預金の必要額を三つの性質に分解して試算し、取締役会で議論・開示するという考え方――を両会議の場で提案してきた。ガイダンスおよび改訂の趣旨文書における現預金の記述は、こうした審議を経て置かれたものである。
規範は確立した。しかし、決定的な問いが残っている。何をもって「説明可能」とするのか。試算の方法論が空白のままでは、企業の説明は「いろいろな備えのため」という検証不能な定性論にとどまり、投資家の要求は機械的な閾値基準にとどまり、対話は再び感情論に回帰しかねない。本稿の目的は、この空白を埋める実務プロトコルを示すことにある。
設問を転換する――「多いか少ないか」ではなく「定義しているか」
現預金を巡る企業と投資家の対話は、しばしば不毛な応酬に陥る。投資家は「貴社の現預金は多すぎる」と迫り、企業は「危機への備えや投資機会のために必要だ」と応じる。投資家の主張の多くは総資産比や時価総額比の機械的な閾値(いわゆるキャッシュリッチ基準)に依拠し、企業の事業特性を反映しない。企業の応答は定性的で、「備え」の必要量を示さない。双方が「水準」を語る共通言語を持たないため、議論は保有の是非という二値の対立に退化するのである。
本稿の主張は、設問を転換すべきだということに尽きる。問うべきは「現預金は多いか少ないか」ではない。「自社にとっての最適現預金水準を定義し、取締役会で検証しているか」である。この設問の下では、厚い現預金を持つこと自体は何ら問題にならない。問題になるのは、水準の合理性を定義しないまま資金を滞留させる不作為である。付言すれば、最適水準の定義なくして「余剰資金を成長投資へ」という要請は論理的に成立しない。何が「余剰」かは、必要水準が定義されて初めて確定するからである。備えと滞留を分かつのは、金額の多寡ではなく、定義の有無なのだ。
最適現預金水準の三分類――試算のフレームワーク
最適現預金水準は、性質の異なる三つの必要資金に分解して試算することを提案する。
第一は「定常的運転資金」である。通常の事業運営に必要な資金であり、本質的にキャッシュフロー・マネジメントの問題である。月次・週次の資金繰りにおける支払いピーク、売上の季節性、キャッシュ・コンバージョン・サイクル(CCC)、グループ内の資金偏在を踏まえて算定する。月商の1~2カ月分といった経験則を用いる企業は多いが、重要なのは経験則を自社の資金繰り実績データで検証し、根拠ある水準として確定することである。
第二は「突発的危機対応資金」である。リーマンショックやコロナ危機級の外生ショックに耐えるための資金であり、試算の基本はストレスシナリオの設定にある。「売上がX%減少する状態がYカ月継続し、その間、外部調達が困難になる」というシナリオの下での資金流出額を、自社が過去に経験した最大の危機の実績と事業のボラティリティを反映して積算する。ここで重要な控除項目がある。コミットメントラインや当座貸越枠といった代替流動性である。危機対応力を現預金のみで担保する必要はなく、確約された調達枠と組み合わせて設計するのが資本効率上合理的であり、この設計思想の開示自体が対話の質を高める。
第三は「突発的投資対応資金」である。大型M&Aや大規模設備投資といった機動的な投資機会に即応するための資金である。優れた投資機会は往々にして突発的に現れ、調達の準備期間を待ってくれない。投資パイプラインの規模感と負債調達余力を勘案し、「頭金」として即時投入可能であるべき金額を算定する。この第三区分の明示には独自の意義がある。成長投資のための備えであることを定量的に示すことは、当該資金が株主還元の原資ではなく投資の弾薬であることの、投資家に対する事前のコミットメントとなるからである。逆に、この区分を大きく設定しながら投資実績が伴わなければ、投資家の検証が働く。備えの真正性は、事後の投資実行によって証明される。
最適水準の目安となるのは、三区分の合算値ではなく、三区分のうち最も大きな金額である。三つの必要資金は、同一の流動性プールが局面に応じて果たす別々の役割だからである。各区分はそれぞれのシナリオの下で必要となる資金の総量として試算されるため、最大の区分を賄う水準を持てば、他のシナリオは自ずとおのずと包含される。一般には危機と大型投資機会が同時に到来する事態は現実には想定しがたく、仮に重なれば投資の実行判断そのものを見直せばよい。逆に三区分を積み上げ式に合算すれば、「備え」の名の下の過剰保有をフレームワーク自身が正当化することになりかねない。その上で、この水準を一点の数値として固定すべきではない。事業環境も投資パイプラインも変動する以上、水準はレンジ(月商換算で「n~mカ月分」等)として設定し、年次で見直す。そしてレンジを超過する資金については、成長投資・株主還元・負債圧縮の配分優先順位を資本政策として定めておく。順位のあり方は各社の成長ステージにより異なってよい。重要なのは、順位が取締役会で議論され、明示されていることである。
取締役会で試算し、議論し、開示する
この検証を財務部門の実務にとどめず、取締役会の議題とすべき理由は三つある。第一に、改訂CGコードが経営資源配分の説明と不断の検証を取締役会の役割・責務として明記した以上、最も流動的な経営資源である現預金の水準論はその中核をなす。第二に、危機対応資金の水準設定はリスクアペタイトの決定そのものであり、リスクガバナンスの根幹として取締役会の監督事項である。第三に、有事対応である。アクティビストからの還元要求や同意なき買収提案に直面した際、平時から水準の合理性を議論・決定している企業と、有事に慌てて理屈を組み立てる企業とでは、対応の質に決定的な差が生じる。
実務的には、資本コストの検証や事業ポートフォリオレビューと同じ年次サイクルに組み込めばよい。財務部門が三区分の試算と前提の変化を整理し、取締役会がその妥当性を審議してレンジを決定し、実績との乖離と超過資金の配分実績をモニタリングする。社外取締役の役割は、前提が経営陣に都合よく設定されていないか――たとえば危機シナリオの過大設定による資金の抱え込みがないか――を検証することにある。
開示は、水準の数値そのものよりも「考え方」を中心に行うべきである。三区分の枠組みの採用、各区分の主要な前提、レンジの目安、超過資金の配分優先順位を、コーポレート・ガバナンス報告書や統合報告書、決算説明資料で説明する。個別案件のパイプラインなど競争上の機微に触れる詳細まで開示する必要はない。 強調したいのは、この開示が持つ「守り」の機能である。短期志向の株主から一律の還元要求を受けたとき、水準の合理性を開示済みの企業は「当社の最適水準はこの考え方に基づきこのレンジであり、超過分は既に定めた優先順位に従って配分している」と応答できる。水掛け論は、前提の妥当性を巡る建設的な対話に転換する。最適現預金水準の開示は、成長投資を促す攻めの規律であると同時に、経営の自律性を守る盾でもあるのだ。
一つ、運用上の警鐘を鳴らしておきたい。三区分の試算が、業種一律の係数や標準値の押し付けに転化することは厳に避けなければならない。最適水準は事業特性の関数であり、各社各様であって当然である。本稿が提案するのは水準の標準化ではなく、手続の標準化――自社の水準を自ら定義し、取締役会で検証し、考え方を開示するという手続の普及――である。これはコンプライ・オア・エクスプレインというCGコードの基本思想とも整合する。
企業・投資家・政府、それぞれの次の一手
企業にとって、時間軸は明確である。改訂CGコードに基づくコーポレート・ガバナンス報告書の提出期限は2027年7月末。原則4-2への対応を検討する企業にとって、本稿の枠組みは「不断に検証」の具体的な実装手段となる。とりわけ現預金比率の高い中堅上場企業にとって、水準の定義は投資家との対話コストを大幅に下げる投資であり、先行して枠組みを開示する企業は資本市場からの信認において先行者利益を得るだろう。
機関投資家には、議決権行使とエンゲージメントの評価軸を、機械的なキャッシュリッチ閾値から「最適水準の検証プロセスの有無と質」へ転換することを提言したい。水準の考え方が開示されているか、取締役会での検証が行われているか、超過資金の配分優先順位が示され実績と整合しているか――を問う基準である。プロセス基準への転換は、成長投資ガイダンスが指摘した形式的・機械的な議決権行使という投資家側の課題への応答でもある。
政府には三点。第一に、最適現預金水準の試算・開示に関する好事例の収集と発信であり、成長投資ガイダンスのフォローアップの一環として位置づけられる。第二に、東京証券取引所の「資本コストや株価を意識した経営」の事例集との接続である。第三に、コミットメントライン市場や社債市場の厚みを増す環境整備である。代替流動性が厚くなるほど、現預金で危機に備える必要は構造的に減り、成長投資への転用余地が広がる。
おわりに――定義なき保有は「滞留」、定義ある保有は「備え」
118兆円という数字それ自体が問題なのではない。問題は、その水準の合理性を定義する手続が企業統治の中に存在してこなかったことである。定義なき保有は「滞留」と呼ばれ、定義ある保有は「備え」と呼ばれる。両者を分かつのは金額の多寡ではなく、取締役会における試算・議論・開示という手続の有無である。
成長投資という攻めの経営は、足元の資金基盤への確信なくしては実行できない。自社に必要な備えの水準を定量的に見極めた企業だけが、その先の大胆なリスクテイクに踏み出せる。最適現預金水準の試算・議論・開示は、一見すると地味な手続に見えるが、成長と規律を接続する要石である。2027年のコーポレート・ガバナンス報告書に向けた各社の実装、そして企業と投資家の対話の共通言語形成に、本稿の枠組みが資することを期待したい。
(付記)筆者は、金融庁・東京証券取引所「コーポレートガバナンス・コードの改訂に関する有識者会議」メンバーおよび産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 価値創造経営小委員会委員として、本稿が扱う両政策文書の審議に参画した。本稿の見解は筆者個人のものである。