聖マリアンナ医科大学の第三者委員会報告
医学部・医大の受験における女性差別について新たな展開があった。東京医科大学、順天堂大学、昭和大学に続き、聖マリアンナ医科大学の受験に対する第三者委員会の報告書が1月17日に出たからである(注1)。聖マリアンナ医科大学については、筆者は東京医科大学などと並んで、受験者の女性割合に比べ合格者の女性割合が有意に低い(偶然に起こりうる確率が極めて低い)大学であることを指摘していたので、女性差別の事実があることについてはまったく疑っていなかった。事実を知って驚愕したのは、その差別の方法である。統計数字は時に人間社会の非道を暴きだす。第三者委員会の報告書はその実例となった。
表1は、同報告書で、平成29年度の聖マリアンナ医科大学の2次試験結果に関連して公表された表である。報告書は、入学者の96 %の得点が表1の値と一致し、また「現浪区分」の判明した第2次試験受験者345 名のうち83%が表1の得点と一致すると記している。さらにそれに加えて49 名の受験者は、上記表1の点数からさらに100点を引いた点数と一致し(面接の結果100点減点される「マイナス100点ルール」適用者)、このルールの適用者を加えると現浪区分の明確な第2次試験受験者345名のうち97%の得点が、「現浪区分」「性別」「マイナス100点ルールの適用有無)」によって機械的に計算できることが判明した、と報告されている。
配点 | 現浪区分 | 男性 | 女性 | 男女得点差 |
---|---|---|---|---|
160点 | 現役 | 144点 | 124点 | 60点 |
1浪 | 124点 | 64点 | 60点 | |
2浪 | 60点 | 0点 | 60点 | |
3浪 | 60点 | 0点 | 60点 | |
4浪以上 | 60点 | 0点 | 60点 | |
その他 | 60点 | 0点 | 60点 |
同様の事実は、表2に掲載した翌平成30年度の2次試験結果にも表れている。報告書は、入学者の90%の得点が表2の値と一致し、また「現浪区分」の明確な第2次試験受験者392名のうち86%が表2の得点と一致すると記している。また表1と同様に、26名の受験者は下記の表2の点数からさらに100点を引いた点数と一致し(マイナス100点ルール適用者)、この26名を加えると現浪区分の明確な第2次試験受験者392名のうち93%の得点が機械的に決定された、と報告している。
配点 | 現浪区分 | 男性 | 女性 | 男女得点差 |
---|---|---|---|---|
180点 | 現役 | 164点 | 84点 | 80点 |
1浪 | 144点 | 64点 | 80点 | |
2浪 | 104点 | 24点 | 80点 | |
3浪 | 80点 | 0点 | 80点 | |
4浪以上 | 56点 | -24点 | 80点 | |
その他 | 0点 | -80点 | 80点 |
聖マリアンナ医科大学は、第三者委員会によるこうした報告があるにもかかわらず、大部分の受験生に対し実際の試験成績に関係なく差別的に点数を決めていたという事実を認めず、意図的な差別はなかったと主張しているが、このような結果が偶然起こる確率はそれこそ天文学的に希少で、聖マリアンナ医科大学の態度は不誠実極まりない。1人の受験生の得点が性別と「現浪区分」で決まる特定の点数と偶然一致する確率は、受験生の受験結果を性別・「現浪区分」を識別せずに採点し直して、実際になされた結果と完全に一致する確率と同じであるが、180点満点の試験では、かなり多めに見積もっても1/10よりかなり小さいと考えられる。従って結果が、300人の受験生について性別と「現浪区分」で決まる得点にすべて偶然に一致する確率は、1/10の300乗の値未満、すなわち分子が1で分母が1の後に0が300個付く分数の値より小さい。1兆分の1という極めて小さい確率でも分母は1の後に0がたった12個しかつかない。聖マリアンナ医科大学の主張がいかに荒唐無稽であるかは歴然としている。また、上記の表2にあるような試験の得点がマイナス点になるなど、ありえない。
これらの事実は何を意味するか。もちろん女性差別や年齢差別(あるいは「浪人」差別)は歴然としており、それは許しがたい。それに加え2次試験受験者の大部分について実際に入学試験で良い点を取ったか否かにまったく関わりなく、性別と年齢という生まれで決まる属性で得点が一律に決められていた、という事実が大問題である。このことは下記で議論する大学における学業・研究の評価の在り方の基準はどうあるべきかという基本理念に真っ向から反する。
学業・研究の評価に関する大学および大学人の役割
「大学人が社会で果たす役割は何か」と一般の人々に聞くと、「教育と研究」という言葉が返ってくる。それはその通りなのだが、実はもう1つ非常に重要な役割がある。それは学業や研究の「評価」である。実は大学人は大学受験生の評価、大学院応募者の評価、教える教科の学生のコースワークの評価、学士論文、修士論文、博士論文の評価、研究雑誌投稿論文の査読者としての評価、研究雑誌編集員としての論文査読の評価、学界のセッションのオーガナイザーとしての投稿論文の評価、同僚の昇進審査の評価、他大学からの教員応募者の業績評価、さらに研究資金財団の審査員になれば、研究資金申請をする研究者や研究所の評価にも関わる。大学人の過ごす時間に評価のために費やす時間は、研究や教育(授業・学生指導)に費やす時間と比較できるくらい多い。これらの評価のうち、教科のコースワークの評価、学士論文、修士論文、博士論文などの評価は教育という過程を経た最終結果であり、一方受験生の評価、論文査読評価などは教育を経ないで行われる評価である。問題は、後者の評価の基準はどうあるべきかという点である。重要な点は2つある。
満たすべき評価基準の1つは「普遍性」である。これは「個別性」と対比されるもので、具体的には学業や研究の評価は「何を達成したか」のみに依存し、被評価者の属性や、評価者と被評価者の関係には依存してはならないという原則である。これは社会的機会の均等の原則でもある。属性からの独立というのは評価される学生や研究者の性別、年齢、人種・民族、学生の出身校や研究者の所属大学などが判断基準になってはならないという点である。また、評価者との関係というのは、被評価者が自分の教え子であるとか、同僚やかつての共同研究者であるか否かなどにより評価が依存してはならないなどという点である。日本の大学入試での選抜も、最近の医学部・医大の女性差別が発覚する以前は、この普遍性原理に基づいていることが想定されていた(文部科学省アドミッション・ポリシー)。米国では論文査読や研究評価で利害関係(Conflict of Interest)のある者は評価者に選任しないというルールも徹底し、公立大学はもとより、私立大学でも付属高校出身者の優先入学はしないのが原則である。日本でも国・公立大学の付属高校生の優先入学制度はないが、私立では経営上の理由もあり慣行となっている。経営上の理由から私立の高等教育の機会の均等に妥協があるのは、下記の米国私立大学の「レガシー枠」と似ている。
米国については大学入学について3つの場合に属性への依存が正当化される場合があり、社会的機会の均等上、その妥当性が常に議論の対象となってきた。一つ目は、家庭の授業料支払い能力が大学入学機会に影響してしまう点である。この問題は大学の授業料の無償化でもしないと取り除けないが、比較的授業料の安い公立大学で学ぶ学生の割合も関係する。ちなみに米国では公立大学に通う学生割合は、2017年時点で大学の学部学生(1~4年生)の78.4%である。一方日本では同じく2017年の学部学生数のうち国立大学の学生が17.1%、公立大学の学生が5.2%で併せてわずか22.3%である。日本における国立・公立大学の学生割合の低さは、大学教育の機会が親の富に依存する度合いが日本の方が米国より高いことを意味し、改善が望まれる。
二つ目は、いわゆる「アファーマティブ・アクション」で社会的にハンディキャップを負っている人種・民族などについて合格基準を緩める措置である。これはすでに存在する社会的ハンディキャップに対する埋め合わせが妥当という社会倫理判断に基づくが、日本の医学部・医大の女性差別は、逆に社会的機会により恵まれている男性をさらに優先しようというのだから、まったく逆で反社会倫理的行為である。
三番目の例外は、卒業生の寄付金が大学の収入の大きな部分である(例えばハーバード大学は約50%)一流私立大学による「レガシー枠」といわれる卒業生の子女の入学優遇の存在である。卒業生の大学への寄付を高める利益が社会的機会の均等を損なうコストより大きく上回るという大学経営上の観点から容認されている制度であるが、社会的機会の均等上問題は残る。ちなみにシカゴ大学は、レガシー入学は認めていない。
評価の普遍性の今一つの基準は公正性である。学業や研究の評価はたとえ「何をなしたか」のみに対する評価の基準でも、異なる評価者間で完全には一致しない。これに関し、教科のコースワークなどの評価は、教員1人で行うことが多いにしても、他の評価はできる限り複数の評価者よって行い、より公正な判断となるように努めるのが良いと考えられている。
このように普遍性は評価基準に関する重要原則であるが、教育の場合は普遍性と個別性が共に重視されることも注記しておきたい。望ましい教育の在り方の基準は望ましい評価の基準とは必ずしも一致しない。なぜなら教育者は教育を受ける個々人の多様性を考慮し、その潜在能力を引き出すべく教育をすることが望ましいと考えられているからである。ちょうど医者が、病気の治療に有効な治療法に関する普遍的基準とともに、患者のアレルギー体質、年齢、妊娠中か否かなど、個人的特質や状況の違いも併せて考慮することが必要なのと似ている。
評価の在り方が社会に与える影響と日本社会の現状の問題
望ましい評価の基準の第二の重要点は、評価が個人や社会に与える影響に関係している。実はこれが重要である。日本では評価は人の選別手段とみる人が多い。公立小・中学校における成績の相対評価(クラスの順位で成績が決まる)のように、人との比較で評価されると、評価の選別面が強く出てしまう。大学での成績評価の原則は、相対評価でなく絶対評価である。例えば80点以上なら、何人であってもみな成績がAとなる、というのが絶対評価である。この場合は、評価は改善の指標となりうる。実は評価基準の条件として極めて重要なのは、それが被評価者にとって、評価向上への信頼できる指標となるという点である。なぜなら高い評価が社会的機会の増加に結び付くとき、信頼できる評価の存在は評価向上の努力が報われる可能性が高いことを示すからである。与えられた評価が被評価者にとって自己の達成の改善の信頼できる指標となるとき、若い時代に受ける否定的評価(例えば研究資金申請で不合格になる)なども、むしろより強い評価向上意欲を生み出し将来の成功に結び付きやすいという研究結果もある(Wang et al. 2019;Yin et al. 2019)。
また一般に努力が報いられる社会ほど、努力する者が多くなる。米国では労働生産性の伸びと、賃金の伸びがマクロではほぼ完全に比例的で高い相関を持っている。これは自己の生産性を上げれば、高い賃金が得られるという期待に結び付く。一方日本においては、生産性は低成長とはいえ向上しているのに、労働分配率が下がり平均賃金は下がってきているので、マクロな相関は負になるという異常な状態が生まれている。これでは、労働者に生産性を上げようという意欲が生まれようもない。
またこれに関連する事実として、2017年のギャロップによる仕事へのエンゲージメント(仕事への熱意度)調査によると「熱意溢れる社員」の割合は調査対象の139カ国中米国が最高で32%、日本は6%で132位であると報告されている(日本経済新聞2017年5月26日の記事)。この違いは、日本では努力が報われにくい社会であるか、その評価に沿って向上の努力をすれば努力が報われると信じるに足る評価指標を与えられていない社会であることを示唆する。もし後者のせいなら、それは日本社会が個人の達成の評価について失敗してきたことに他ならない。特に長時間労働できるか否かを仕事の評価基準にすることなどは、若者や育児世代にとって「時間」が学びの機会や私生活の充実に用いることができる貴重な財であることを考えると、大きな機会費用を伴い、自己犠牲を強いる基準で評価向上努力のインセンティブをかえって奪いやすい。
翻って聖マリアンナ医科大学の受験評価を再度見てみよう。性別と「浪人」年数の違いだけで評価が決まる制度である。このような基準が、人の努力やその成果というものを評価せず、努力や成果を出そうとするインセンティブを完全に奪うものであることは明らかであろう。差別された女性のみならず優遇された男性に対しても、である。このような採点方式を採用するに至った聖マリアンナ医科大学は、その評価思想において教育機関として完全に不適格であり、大学認定の剥奪が妥当と筆者は考える。大学人は大学人として自らが人に与える評価には全責任を負わねばならない。
また、これを機会に日本社会は学業・研究にとどまらず、人の仕事ぶりをどう評価すべきか、またそれによりどのようにしたら「熱意溢れる」職業人の多い社会を生み出せるのかを真剣に考えるべきである。人が社会で活躍できるには、活躍したくなる社会環境が必要だ。
追記・訂正(2020年2月5日)
上記のSpecial Reportでは「日本でも国・公立大学の付属高校生の優先入学制度はないが」と記したが、近年は「高大連携特別教育プログラム」に基づいて、入学に関し附属高校生枠を設けている国立大学もあることを知った。従って上記のReportはこの点修正したい。また筆者は「高大連携プログラム」自体は教育上は良いと思うが、国・公立大付属高校の意義は本来実験的教育にあり、大学入学上の特別扱いを受けることに対しては疑問がある。