Special Report

最低賃金引き上げは生産性向上をもたらすのか

近藤 恵介
研究員

最低賃金引き上げが生産性向上をもたらすという主張が注目を浴びている (アトキンソン、2019a)。生産性向上は日本経済の最重要課題の1つであり、生産性を向上させるために最低賃金を引き上げるという考え方が政策関係者の間で関心を集めている。最低賃金を引き上げると本当に生産性向上につながるのだろうか。本レポートでは、アトキンソン (2019a)の主張を整理するとともに、政策設計の考え方、経済学的な観点の議論を整理することで、今後の生産性向上に向けた政策議論の参考になればと考えている。

最低賃金引き上げが生産性向上をもたらすという主張の整理

アトキンソン (2019a)において、最低賃金引き上げが生産性向上をもたらすという主張が展開され注目を浴びている。まず前提として、人口減少が進む中で生産性向上が必要だという主張がなされており、これは私も同意している。それでは、どのように生産性向上を政策として実施すればよいのかということになる。

アトキンソン氏の主張を読み解くと、日本の生産性が上昇しない要因として経営層の質を強調している。生産性向上が賃金を押し上げるという仕組みが十分機能していないため、どのように経営層に対して政策的に切り込めるのかが発想の根源にある。賃金上昇を継続的に行うためには生産性向上が必要不可欠であり、最低賃金引き上げによって、生産性向上のための改革を強制的に実行させようという逆の発想が背景にある(注1)。

政策設計とインセンティブ

政策設計をインセンティブという観点から整理することで、アトキンソン氏の主張の論点を整理できると思われる。賃金上昇を目的に政策を設計する場合、賃金上昇を行った企業に対して優遇措置を与えるという仕組みが考えられる。この場合、ある条件を課し、条件を満たす行動を取ったときに報酬を与えるという構造になっている。実際、賃金上昇についてはすでにこの種の政策が実施されている。問題は、条件に反応して企業が行動を起こしてくれなければ現状は何も変わらないということである。

また政府が賃金上昇を企業にお願いするという状況も実際に行われたのだが、このようなお願いという手段では、企業にインセンティブもなく、法的強制力もないため実際に賃金上昇への効果は限定的と思われる。結局のところ、経営層の自発性に任せていては何も変わらないため、賃金上昇は期待できないというのが主張の背後にあると思われる。

最低賃金引き上げという提案は、特に低賃金でしか労働者を雇えない企業に対して、強制的に賃金上昇という条件を課す仕組みになっている。一種の罰則を課すことによって、生産性が低い企業に対して生産性向上のインセンティブを与えるという政策設計になっている。もちろん最低賃金引き上げは副次的な効果も大きいと予想されるため、関連分野の専門家の知見を生かしながら、政策担当者は情報を整理しておくことが望ましい。

ミクロとマクロの生産性を区別する

最低賃金引き上げによって生産性向上を引き起こすという逆の発想であるため、本当にそのような効果が期待できるのかはよく論点を整理する必要がある。ここでは、経済学の観点から、潜在的な効果について直感的な説明を試みる。

生産性について、まずミクロとマクロの観点から生産性という概念を区別する必要がある。ミクロから見た生産性とは、個々の企業の生産性のことを意味する。一方で、マクロから見た生産性とは、日本経済の全体的な生産性を意味する。従って、最低賃金が引き上げられたとき、個々の企業の生産性が高まるのか、日本経済全体の生産性が高まるのか、もしくは同時に双方が起こるのか、という場合分けをしながら議論を整理する必要がある。

アトキンソン (2019a)の主張より、最低賃金引き上げがミクロとマクロの生産性に対して影響を与えうると分類できる。企業の生産性向上の改革を促すという主張は、個々の企業の生産性への影響であり、最低賃金以上を支払えない低生産性企業の市場からの退出は日本経済の全体の生産性に影響する。

以下では、ミクロとマクロの生産性とその相互関係を整理しながら、最低賃金引き上げの効果についてより直感的に伝えられるように説明する。

個々の企業の生産性向上は、生産性分布の右シフト

個々の企業の生産性向上とは、生産性分布の右シフトと考えることができる。図1において、「最低賃金引き上げによって生産性向上が起こる」(これを仮説1とする)と考えた場合、最低賃金の上昇前後で生産性分布が右シフトするというイメージを描いている。

図1:「最低賃金引き上げが個々の企業の生産性向上をもたらす」仮説における生産性分布の変化
図1:「最低賃金引き上げが個々の企業の生産性向上をもたらす」仮説における生産性分布の変化
注)著者作成。実証分析でよく推定される全要素生産性の対数値の分布をイメージして描いている。図1では全企業に対して均一幅の生産性上昇として描いている。

個々の企業の生産性向上が起こると、日本経済全体の生産性も高まることになる。つまり、ミクロとマクロの両方から見て生産性が高まっているというのがポイントである。従って、もし最低賃金引き上げがこのような生産性分布の右シフトを引き起こすことが実証的に示されるならば、政策実施の根拠となり得る(注2)。

実証分析では、企業のミクロデータを利用することが特に重要である。マクロの地域集計データを利用する際は相関関係と因果関係の識別ができなくなる点を言及しておく。都道府県毎の最低賃金と生産性の散布図を作成すると、正の相関関係が確かに観測される。しかしながら因果関係があるかどうかはよく検証する必要がある。この正の相関関係を生み出す隠れた要因の1つとして、集積の経済が考えられる。集積の経済で実証されているように、「大都市では生産性が高い」という結果と「大都市では最低賃金が高い」という事実を合わせると、「最低賃金が高いと生産性が高い」という関係が生じる。これは最低賃金引き上げの因果効果を即座に意味するものではないということをまず認識しなければならない。つまり「大都市」という共通の要因が隠れていることに注意する。ミクロデータとマクロデータからどこまで要因を識別可能かという視点は、川口 (2018)による近年の賃金上昇の伸び悩みについての説明でも強調されている。

低生産性企業の市場からの退出は、生産性分布の切断

「最低賃金引き上げにより生産性の低い企業が市場から退出することによって日本経済の生産性向上がもたらされる」(これを仮説2とする)とは、生産性分布の切断と考えられる。図2において、低生産性企業の退出によって、最低賃金の上昇前後で生産性分布が切断されるイメージを描いている。

図2:「最低賃金引き上げが低生産性企業を市場から退出させ日本経済の全体的な生産性向上がもたらされる」仮説における生産性分布の変化
図2:「最低賃金引き上げが低生産性企業を市場から退出させ日本経済の全体的な生産性向上がもたらされる」仮説における生産性分布の変化
注)著者作成。実証分析でよく推定される全要素生産性の対数値の分布をイメージして描いている。

低生産性企業が市場から退出すれば日本経済の全体的な生産性は向上するのは確かだが、注意する点は、市場に残っている個々の企業の生産性が最低賃金の引き上げ前後で高まるわけではないということである。つまり、マクロで見て平均的な生産性が上昇したとしても、生産性革命が本来目指すべき個々の企業の生産性向上は起こっていないという状況になっている。

さらに市場から退出した企業で雇われていた労働者の雇用がどう変化するのかも気を付ける必要がある。もし市場の競争の結果として、低生産性企業が退出し、より生産性の高い企業の雇用につながるならばより望ましい資源再配分が生じている。一方で、最低賃金引き上げにより低生産性企業の雇用が失われた場合、高生産性企業によって雇用が吸収されるのかがポイントと考えられる。

このような企業の淘汰を扱った経済理論として国際貿易論におけるMelitz (2003)の論文は重要な示唆を与えている。Melitz (2003)は、企業の生産性に異質性を導入し、貿易自由化がもたらす淘汰の影響を分析している。貿易自由化が進むと生産性の高い海外企業が国内市場に参入してくるため、国内でしか販売できない低生産性企業は一部が淘汰されることになる。しかし同時に、国内の高生産性企業は貿易自由化により海外市場への輸出拡大を通じて生産量を増やせるため、それに応じて雇用も吸収される。淘汰によりこのような低生産性企業から高生産性企業への資源再配分が生じることで経済厚生が増大するのである。

最低賃金引き上げがもたらす淘汰の効果はどうだろうか。最低賃金以上を支払えない低生産性企業の退出がもたらされる一方で、高生産性企業の生産量と雇用を十分拡大させるような効果が同時に生じるとは考えにくい。政策議論としては、淘汰を通じて低生産性企業から高生産性企業への資源再配分を通じた効率的な生産構造が達成されるのかどうかをよく見極める必要があるだろう。

まとめ:生産性向上に向けて

最低賃金引き上げが生産性向上をもたらすのかに対する回答として、予測としては、上述の仮説1と仮説2のどちらが強く効くのかに依存するということになる。もし最低賃金引き上げに反応して個々の企業が生産性向上に向けた改革を実行できるならば、最低賃金引き上げが生産性向上をもたらす効果が観測される。一方で、最低賃金引き上げにより低生産性企業が退出するだけで終ってしまえば、個々の企業の生産性向上にはつながらず、効果は見られないと予測できる。また最低賃金が引き上げられるため、短期的には企業の利潤は下がると予測される。2つの効果のどちらが支配的かによって最低賃金引き上げの効果が決まるため、国や企業の特性によって、最低賃金引き上げが生産性に与える効果も異なって観測されることになる。

生産性向上は最重要課題であり、特に人々の技能向上が重要と考えているが、人的資本投資に見合うだけの賃金が得られなければ優秀な人材も集まらないし育たないだろう。企業側も、劇的に変化するビジネス環境において、終身雇用、年功序列賃金、新卒一括採用といった日本の伝統的な雇用慣行を変えようとしている。生産性向上という課題に向けて、本レポートが建設的な議論を提供できていることを期待する。

脚注
  1. ^ アトキンソン (2019b)において、「最低賃金を全国一律」という主張もあるが、本レポートではこの主張の内容まで掘り下げない。
  2. ^ なお最近公表された森川 (2019)によると、経済産業省企業活動基本調査(経済産業省)の企業パネルデータ分析の結果、過去の最低賃金引き上げについては個々の企業の生産性を高めるという明確なエビデンスは得られなかったと結論付けている。
参考文献
  • 川口大司 (2018) 「賃金は上がっていないのか?パネルデータを用いた構成バイアスの除去」、リクルートワークス研究所編 「全国就業実態パネル調査 日本の働き方を考える2018」Vol.9
    http://www.works-i.com/column/jpsed2018/kawaguchi(2019年6月25日確認)
  • 森川正之 (2019)「最低賃金と生産性」、RIETIポリシー・ディスカッション・ペーパー 19-P-012
  • デービッド・アトキンソン (2019a)「最低賃金の引き上げが『世界の常識』な理由」、東洋経済ONLINE
    https://toyokeizai.net/articles/-/263406(2019年6月25日確認)
  • デービッド・アトキンソン (2019b)「最低賃金を絶対『全国一律』にすべき根本理由」、東洋経済ONLINE
    https://toyokeizai.net/articles/-/264773(2019年6月25日確認)
  • Melitz, Marc J. (2003) "The impact of trade on intra-industry reallocations and aggregate industry productivity," Econometrica, 71(6), pp. 1695-1725.

2019年7月4日掲載