「エビデンスに基づく政策形成」(Evidence-Based Policy Making, EBPM)を考える上で、改めて18世紀に活躍した哲学者ジャン=ジャック・ルソーの思想を振り返ってみることに価値があるかもしれない。1762年に出版された『社会契約論』が有名であるが、他にもさまざまな分野で著作を数多く残している。例えば、『エミール』は近代教育思想の原点となる「子どもの発見」について現代でも大きな影響を残している。
ルソーの思想から見たEBPMの視点
念のため、まず始めるに当たり、ルソーに関する専門家ではないため、改めてルソーの解釈を議論しようというものではなく、EBPMと関連させてルソーの著作から個人的に感じたことをまとめた文章であることを補足しておく。
EBPMという視点からルソーの著作を読み直すと、改めてさまざまな気付きを与えてくれると感じている。例えば、西(2017)の「はじめに」では、以下のように書かれている。
ルソーの考えた「自由な社会」とは、平和共存するために必要なことを、自分たちで話し合ってルール(法律)として取り決める「自治」の社会でした。権力者が勝手な命令を押しつけてきたり、一部の人たちだけが得をする不公平な法律や政策がまかりとおったりすることのない、そんな社会です。(西、2017、はじめに)
まさにEBPMにおける根源的な問いかけに通じるように思われる。一部の権力のある人の経験やエピソードで決まる政策ではなく、エビデンスに基づいて政策立案をすること、それを通じてよりよい社会を実現するというEBPMが目指す姿と同じであるだろう。
『社会契約論』では、ルソーが理想とする「自由な社会」において「一般意志」の観点から論じられる。「一般意志」について、西(2017)は以下のように述べている。
社会(国家)とは、構成員すべてが対等かつ平和に共存するために創られたものだ。だから、そこでの法律は、どんな人にとっても利益になること、つまり、皆が欲すること(一般意志)でなくてはならない。(西、2017、はじめに)
理想論と切り捨てられてしまうかもしれないが、西(2017)によると、ルソー自身もその理想の実効性については懐疑的であったように思われる。「一般意志」の仕組みとして「立法者」を論じているが、「一般意志」が建前だけで終わってしまう可能性もあり得るからである。多数派や権力者の利益が優先され、少数の人々の意見が届かなくなるようでは理想とする「自由な社会」の実現とは言えない。ルソーは「一般意志」が建前だけで終わってしまい、少数派が虐げられることがあるようならば、最終的に国家の分裂や内乱状態になりかねない可能性も考えていたようだ。
EBPMとの関連で言えば、「政策に基づくエビデンス形成」(Policy-based Evidence Making, PBEM)のような状況にも似ている。EBPMには、その理念とは裏腹に、将来悪用されてしまいかねない危険性も持ち合わせているからである。つまり、PBEMとは、政策ありきで、それを支持するようなエビデンスが後付けで作られてしまう状況である。
『社会契約論』では「一般意志」を判断できることを前提にしているが、現実にそもそも「一般意志」を理解する市民がいるとも限らない。ルソーは、理想とする社会の実現に向けて、人々の道徳や良心に大きく依存することを感じていたのだろう。だからこそ、ルソーは理想とする自由な社会に求められる人間像を、『社会契約論』と同年に出版した『エミール』の中で論じたのかもしれない。
『エミール』とは、家庭教師が少年エミールに対して、教育を通じて理想的な人間を育てるという架空の世界でのお話だ。「どのように自分は生きたいのか」という「人間」としての意志と「どんな社会をつくっていけばよいのか」という「市民」としての意志の2つを同時に兼ね備えるために必要な教育を考える。
『エミール』の中で、ルソーは、幼少年期における好奇心を刺激する経験の重要性について論じている。「自己愛」を育てることを強調しつつ、他者からの評価による相対的感情である「自尊心」とは区別している。また「自己愛」こそが、他者を愛することにつながるとされ、「あわれみ」という他者への共感能力を育てることにつながると論じている。
時代背景も異なるため一部は現代と合わない話もあるが、今でも依然として示唆に富む視点を提供し続けていると思う。例えば、自己肯定感を育むことの重要性は最近よく言われるが、親が子どもに成功体験を積ませることばかりを気にしてしまい、子どもが失敗しないような経験をあらかじめ選んでいることもあるのではないだろうか。しかし、ルソーは『エミール』の中で「子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。」(上巻、第二編)と述べている。成功体験ばかりでは、ルソーの言う「あわれみ」という他者への共感能力を育むことができないのだろう。
現代の情報技術のもとでルソーの「一般意志」の再解釈を試みたのが東(2011)である。ルソーの「一般意志」が情報技術によって無意識に形成されていく民主主義の社会を構想している。東(2011)の重要なメッセージは、「文庫版あとがき」にあるように、「民主主義にはなにかしらの『外部』が必要なのだ」という点にあるだろう。EBPMがPBEMになり得る危うさを補完するために、政策当局と対立して、大衆の民意を無意識にどのように関係させるのかという仕組みにもつながるだろう。同様に、成田(2022)の議論でも、EBPMにおけるエビデンスとは、東(2011)における「一般意志2.0」と一部は類似するような思想とも感じる。
理想と現実のギャップを埋められる社会へ
最後に、理想と現実という観点から、ウェルビーイングと関連させて本稿を締めくくりたい。ウェルビーイングの研究で言われるように、人間には理想と現実の間で大きなギャップに直面するとネガティブな感情が生まれてくるのだと感じている。逆に、理想と現実のギャップを小さくしてくれる何かを見つけられると、人々はポジティブな思考を持ちやすいのではないだろうか。ルソーの一連の書物を読むと、時代を超えて人々の心を奮わせる何かがあるのだろうが、理想を示すとともに、どのように理想の実現に向かうのかという手段が論じられているからという要素もあるかもしれない。
日本社会を見ると、理想と現実のギャップに苦しむ状況は増えているのではないかと感じることもある。そのような苦しみからどのように解放する術を日本社会は提供してきたのだろうか。もしかしたら、人々は理想を持たないようにしたり、途中であきらめてしまったりすることで、自らの苦しみを和らげるような思考になってきたのではないかと憂慮することがある。理想と現実のギャップを埋められる社会に向けてEBPMが果たす役割も大きいと考える。
西(2017)による『エミール』の振り返りで述べられているように、理想に向かって現実からどうやって出発していくのかを他者と共同しながら考えられる社会に真正面から向き合っていくことが日本の未来につながるのだろうと感じている。経済学の専門家としては、そのような社会の実現に向けて意義のある研究成果を出したいという想いである。