Special Report

選択的別姓問題と個人の自由の価値

山口 一男
客員研究員

1. 選択的別姓はパレート改善的制度である

サイボウズの青野慶久氏による訴訟の一審が敗訴となった。筆者はこの問題が民法改正を求めるのが正論ではあると思うものの、現民法は憲法違反であるとの訴訟が敗訴した状況を踏まえ、戸籍法を盾にとった青野氏の独創性は高く評価している。もちろん、選択的別姓支持の立場からである。

筆者が選択的別姓を支持するのは、これがパレート改善的制度だからであり、自由主義的社会制度設計の基本概念にかかわるものだからである。日本において選択的別姓のパレート改善性に言及したものがあるかどうか検索したら、2017年の青山学院大学の『青山国際政策論集』で瀬尾佳美・飯坂ひとみ共著の論文があることが分かったが、それ以外には見当たらない。パレート最適とかパレート改善という用語は経済学者の一部を除いて日本で多く用いられることはないからであろうか。しかし米国では自由主義的哲学(あるいは功利主義哲学)の基礎概念である。例えば米国で政治哲学に大きな影響力をもったジョン・ロールズの『正義論(1971)』もパレート最適性を一つの判断基準としている。

パレート改善的制度とは、その制度により誰も損をするものはなく、少なくとも一人以上の人が得をする制度を言う。選択的別姓制度の下で、夫婦同姓を選好するものは同姓にできるので損はなく、別姓を選好するものは別姓にできるので得をする。さらに前提として他の夫婦が別姓を選ぶか同姓を選ぶかは負の外部性を生まない選択であるとの仮定がある。負の外部性がないという意味は、他の夫婦は個々の夫婦が同姓を選ぼうが別姓を選ぼうが、損害を受けないということである。選択的別姓はこれらの条件が皆満たされるので、パレート改善的制度と見なされるのである。

もっともいかなる心理的コストも含むとすると負の外部性がないという仮定は成り立たなくなる。米国の人種差別的白人が、全くの他人であるのに人種間結婚者の存在に不快感を持つように、夫婦は同姓であるべきと信じる者は別姓選択者の存在に不快感を持つであろう。しかし人種差別者の心理コストの場合も同様だが、物理的に何ら自分に加害行為をしないが自分と異なる選択をする人たちへの不寛容による心理的コストを社会制度設計に組み入れることは他者の自由の否定であり、少数者差別に結び付き、後述する「公共の福祉に反する」ことになる。従って「他者の自由への不寛容による心理コスト」は無視する。

パレート改善的制度は、例えば税制による所得再配分などと異なり、米国では右は自由至上主義者(リバタリアン)から左の社会民主主義者も等しく反対することがない、その意味で自由を尊ぶ国では誰もが賛成できる制度だと欧米圏では考えられている。「パレート改善」やこれ以上パレート改善ができない状態を示す「パレート最適」の優先は自由主義的社会制度設計の基礎である。だがなぜか日本ではそれが尊重されない。だからその理由が問題である。

2. 選択的別姓反対論への反論

上記の青野氏は個人のブログで、選択的別姓反対者への反論を、的確に、時にはユーモアも込めて行っているが、下記で代表的な選択的別姓否定論に筆者も反論したあと、なぜ日本において選択的別姓など「パレート改善的」制度が尊重されないのか、またその問題は何かについてより広い観点から議論したい。

代表的反論の一つは、夫婦同姓が日本の伝統文化だと主張するもので、これは下記の理由で根拠はない。まず江戸時代には武家以外苗字は許されておらず、武家においても例えば北条政子・北条時子(共に北条時政の娘)を始め、明智珠子(通称細川ガラシャ)、池田熊子(大石良雄の生母)、井上通女、蒲池徳子、京極竜子、 櫛橋光、久我俊子、三枝斐子、沼田麝香など結婚後も生家の苗字が本名とされる著名な女性は多い。また明治9年の太政官指令では「夫婦別姓(別氏)」を指定した。これは当時のフランスをモデルにしたと考えられているが、武家に別姓が多かったこととも関係していると思われる。明治の初期・中期の女性は結婚後も生家の苗字を名乗っていたのである。「夫婦同姓(同氏)」が法制化したのは、改正民法が公布された明治31年以降である。これは当時のドイツ(ドイツ帝国)をモデルにしたと考えられている。明治政府は制度作りにあたり、日本の伝統よりも、欧米のいずれの慣行に倣うかを重要視していたのである。より一般に明治政府が制度の近代化にあたり、まず欧米のどの制度を模倣し、その上でいかに日本の現状に併せてその革新を行っていたかに関してはエリノア・ウェストニーによる『Imitation and Innovation: The Transfer of Western Organizational Patterns to Meiji Japan (1987)』という重要な研究がある。以上の理由から夫婦同姓が日本の伝統とは全く言えないが、筆者が強調したい点は、同姓が伝統か別姓が伝統かの問題ではなく、女性の職業人が大多数となった現代には、何が伝統であろうと個人の選好を尊重しない制度の継続は全く合理的でないという点である。

代表的な反論の二つ目は選択的別姓が家族の崩壊を招くものであるという主張だが、これは何をもって「家族の崩壊」と見るかを定めて議論しないと意味がない。以下婚姻率と離婚率への影響について議論する。一般に婚姻率や離婚率は社会的条件の変化に大きく影響される。例えば近年韓国や中国で離婚率が急上昇しているが、これはこれらの国々での急激な経済成長と関連し、法改正とは無関係である。かつて日本も高度成長期に離婚率が増大した。法改正が離婚率・婚姻率に影響するのはその法改正が①婚姻・離婚の成立条件を厳しくするか、逆に緩やかにする、②婚姻・離婚のコスト・ベネフィットを変える、場合である。例えば米国における「no-fault divorce law」(相手に咎がなくとも一方が望めば離婚が成立するという法)の成立は離婚率を増大させたし、明治31年民法により離婚率が減少したのは夫婦別姓から夫婦同姓に変えたからではなく、離婚の成立条件をより厳しくし、かつ届け出手続きを成立要件に加えたからである。これらは①の条件の変化による法改正の影響の例であるが、選択的別姓への変更は①とは関係しない。一方②の条件については夫婦同姓 の強制は、別姓を望む者には結婚の機会コストを生じさせ、選択的別姓に変えれば、そのコストがなくなるので婚姻率は上がると期待できる。一方離婚の際は現行法でも姓の選択はできるので選択的別姓に変えてもコスト・ベネフィットに変化はない。以上の理由により選択的別姓は、婚姻率を上げる効果があり離婚率には影響しないと考えられる。実際選択的別姓を導入した国で、導入後その理由で離婚率が上がったという実証例はない。従って婚姻率・離婚率に関し「選択的別姓が家族を崩壊させる」というのは全く根拠のない妄想である。

選択的別姓反対の第3の理由として、「両親が別姓だと子どもがいじめにあう」から反対という意見があることを聞いた。そういったいじめの有無については確認できなかったが、この「いじめ」は前述の例同様、「他者の自由への不寛容による心理コスト」が原因と考えられる。そのために同姓を強制することなど、人種間結婚者の子どもは差別されるからという理由で人種間結婚を禁じることに類似し、本末転倒である。無論、禁止されるべきなのはいじめや差別行為のほうである。

3. 夫婦同姓合憲判決には重大な疑問が残る

さて先の質問に戻って、パレート改善的なので、欧米では誰もが反対しようがないと考える選択的夫婦別姓制度と矛盾する強制的同姓制度が、なぜ憲法13条で個人の自由を保障している日本で司法により合憲とされたのか、をまず考えてみたい。ちなみに憲法13条は

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

と記している。またここで「公共の福祉に反しない」とは「他者の生命、自由および幸福追求を妨げない」の意味と考えられている。この制限が必要なのは個人が自由であるためには他者による自由の侵害を制限する必要があるからだ。この考えは功利主義的哲学の祖の一人であるジョン・スチュアート・ミルが『自由論(1859)』で「個人の自由の制限が正当化されるのは、他者に不当な危害を与えることを防ぐ、より穏当な手段がない場合に限られる」と述べたことに通じている。ある夫婦が別姓を選択することが他の夫婦に不当な危害を与えることなどありえないことを考えれば、選択的別姓を認めないことが、憲法13条の精神に反することは明らかだと思われるが、日本の司法が下した強制的同姓合憲判断は「公共の福祉」という概念を曲解し、個人の損益を離れた「公益および公の秩序」とみなすことに結びついていると考えられる。これは筆者の単なる憶測ではなく、憲法13条のそのような解釈への明示的変更は自民党の憲法改正案で示されており、そういった考えへの裁判官の忖度が働いた可能性がある。

一般に「国」であれ、村のような「共同体」であれ、企業であれ、学校であれ、家族であれ、メンバー個々人の益を超えた「秩序」の存在を「公益」と考え、そのためには個人的利益は犠牲にすべきだとの思想が日本の保守には未だ根強い。小学校の道徳教育でも、個人の人権は教えず、子どもに家族など「共同体」にいかに役立つ人間になるかを教え込もうとしている。選択的別姓を個人の「わがまま」だの「自分勝手」だの、欧米から見れば自分が損害を受けないのに他人の選択の自由を制限しようとする意見が国民の一部から表明されることも、個々人の幸福を超えた「共同体秩序」を強調する日本の保守思想の影響があるからだと考えられる。国民は個人より国や、会社や、家族の利益を優先せよというのが日本の保守思想であるが、国はそのような「共同体」を包括するので行きつくのは戦前と同様の国家主義である。しかし、そのような中で生まれる個人の自発性は、共同体の権力者の意を忖度してそれに沿うものに限られてしまう。

4. 個人がより自由に活躍できる社会の実現なくして明日はない

一般に経済や社会の活力はイノベーションや創造力が命であり、それを生み出すのは広範な人々の自由と自発性であり、その自由と自発性を生かせる人的投資や報酬システムを併せ持つ社会である。

米国で経済発展には個人の自由な幸福の追求が欠かせないというのはアダム・スミスの『国富論(1776)』以来の自由主義者の共通理解であるが、その考えを極端にまで推し進めようとするのが、日本とは著しく異なる米国における保守思想であるリバタリアンの思想である。リバタリアンは反政府的(無政府主義的)で、福祉はもとより国によるあらゆる介入を嫌悪し、公共事業にも反対し、税を最小限にとどめようとする。確かに税の軽減による自由の拡大は、経済を活性化させるが、他方で公共教育の充実、道路・水道など社会インフラの整備、有効な犯罪取り締まり、生活安全のための社会保障など、良質の公共財提供も社会的活力や経済成長には欠かせず、国や自治体の税収入の大幅な低下は提供される公共財の質を低下させる。従って小さな政府か大きな政府かの選択には常にトレードオフが伴い、これが米国における左右の思想の1つの争点となっている。一方、このトレードオフ問題がなく、誰にも損害を与えずに選択の自由を広げることでより多くの人に益をもたらすパレート改善的制度は無条件で押し進めるべきなのだという意見には異論がほとんどない。

一方、日本はどうか。現代日本において過去30年ほとんど経済成長がとまり、他国と比べ相対的に貧困化していく現状がある。筆者が危惧するのは、「保守」にせよ「革新」にせよ、この現状に危機意識はあっても、その対策として個人の自由と、競争と、そこから生まれる自発的な付加価値の創出を強調する思想は持たないと思われる点だ。日本で規制の撤廃が新自由主義者により叫ばれるのは企業の自由に関する話であり、個人の自由に関する話ではない。戦後70余年、英米と異なり日本は憲法13条の個人の自由の尊重を、社会的活力の源泉と見る見方を発展させてこなかった。戦後の経済成長も、戦前に比べてはるかに自由競争的な経済社会の中であったからこそ多くの民間企業の成功へのイニシアティブが実を結んだことで発揮されたと考えられるのに、である。ただ高度成長期には成功モデルの不確定要素が少なく、企業が自由であれば個々人があまり自由でなくても成功の確率は高かった。だが現在はそうではない。不確定性の多い時代には多様な個々人の知識や潜在的能力が個人のイニシアティブの下で発揮されることが不可欠だと考えられるからだ。

選択的別姓の議論から発展拡張したが、日本社会は家族、学校、職場など人々の活動における場において不必要な自由の拘束をすべて取り払い、人々の自発性と創造性を育てることをしなければもはや、現在の経済的停滞は脱しようがないのではないかと筆者は思う。その改善手段の1つはパレート改善的な制度を押し進め、人々の自由と選択の幅を拡大することで多様性を増やし社会的活力を増大させることである。選択的別姓はパレート改善的制度が日本で尊重されるのか否か、それとも日本はそのような制度すら、伝統や共同体の秩序といった非合理的な理由で否定する特異な国なのか、という問いの答えに対するいわば試金石になっていると筆者には思える。

2019年4月5日掲載