時計の針は、北京時間7月16日23時を回ろうとしたところ。一通のメールが届いた。
"青木昌彦教授于7月16日逝世,享年77岁。特此告知!"
これは嘘だろうと一瞬息を呑んだ! 突然の訃報にただただ驚いているばかり。一晩中青木先生に想いをはせた。
青木先生との初めての出会いは2001年初夏のパリであった。この偶然の出会い以来、青木先生との年齢の差を超えた十数年来の交友が続いていた。
きっかけは、パリでのある学術会議であった。私は2001年4月から東京のすべての職を辞し、9月には北京の清華大学に着任することが決まっていた。その間の期間を利用してパリでゆっくり将来のことを考えようと思っていた。
手元の日記帳をめくり返すと、2001年6月6日である。フランス人研究者に誘われてその会議を傍聴するようになった。会議の内容はイノベーションと人材流失であったが、ノーベル経済学賞のロバート・ソローを始め、アメリカの研究者を中心に、シリコンバレーにおける中国人の活躍についても議論された。おそらく、私は会場でただ1人の中国人であった。私は以前の個人研究成果を引用しながら、また自分を含め中国に戻る事例をあげ人材流失(ブレーンドレーン)ではない、人材循環(ブレーンサーキュレーション)こそ中国人材の特徴ではないかと力説した。会議の休憩中、日本語で私に声をかけたのが青木先生であった。
翌日6月7日夜、モーツァルトのオペラLa Clémence de Titusの鑑賞に主催者から突然誘われた。準備のない私に青木先生はネクタイを貸してくださった。観劇後、小腹を空かせた私達はオペラ座横のブラッセリーでバゲットをちぎりながら、いろいろな話題を交わした。自然に中国の改革開放の話題に及び、さらに日本の中国研究の現状についても話した。当時、個人的には日本の中国研究にすでに限界が見え、疑問を持ち始めていた。そして中国の将来を理解するために、1949年2月に出版された村松祐次先生の先見性のある『中国経済の社会体制』という著作の視点に立ち戻らなければならないと青木先生に勧めた。
6月8日午後、2人でのティータイムで、青木先生から「孟さん、東京に戻らないか」と誘われた。それが青木先生の新しい組織であるRIETIに参加させていただいた由縁である。
パリでの3日間を共に行動して、遙か彼方のパリから東アジア、中国そして日本の未来についてずっと語っていた生き生きとした青木先生の姿が常に思い浮かぶ。そのためにもっと精進しないといけないとつねに自戒している。
青木先生は中国変革の本当の理解者である。青木先生がお亡くなりになった翌朝、久しぶりに村松祐次先生の『中国経済の社会体制』を探し出して青木先生の面影を思いながら、その序文をもう一度読んだ。「......『大国を治すること小鮮を烹るが如き』細心さと寛大さとを以て進められている。従来の経済社会体制に対する最大限度の寛容を通じて、徐ろにその再編を図ろうとする中共の態度は、決して単に一時的な民心安定策に出でたものではない。それほどこの国の経済社会体制の革新には大きな障害と困難とが横たわっているのだと見なくてはならぬ。......」
現在、政治経済社会において人類史上類のない中国社会の構造転換と制度改革が進んでおり、その制度設計が多くの研究者の思いより伝統社会から現代社会への内在自律の遥かな複雑性を持っている。青木先生は大きな視野から先見性および洞察力を持って比較制度の視点から中国変革の難しさおよび激しさに対して深く理解し、敢えて研究に挑戦し続けられていた。その姿は、多くの中国人に敬愛され、青木先生はMasaと呼ばれた。
個人的には『都市化過程中的環境政策実践――日本的経験教訓』を3月11日の大地震後の日中関係の最悪な時期において2年半をかけ完成させた。2013年2月、報告書の発表会において青木先生は私の代わりにその本の意義について中国の7つのもっとも重要なマスメディアの連合取材を例外的に受けてくださった。その報告書は中国政府の参考書となった一方、2014年3月、個人の著作として商務印書館より出版された。
青木先生は、今年の3月から4月の1カ月の間に北京を3回訪れ、また10月下旬にも再び北京で会うと約束していた。まだまだお元気だと思っていた。突然の訃報で大変な人格者と指導者を失ってしまった。
青木先生には大変お世話になりました。
先生、一路走好!