青木昌彦先生追悼コラム

研究指導者としての青木先生

戒能 一成
研究員

研究指導者としての青木先生

青木先生は御自身の学術的な業績もさることながら、経済産業研究所初代所長として卓越した研究指導能力を発揮され、いわゆる「経済産業研究所の黄金時代」を創出した大功労者であることも忘れがたい業績である。

経済産業研究所の第一期において、官僚出身の研究者モドキであった小生から見た「青木流の研究指導」について、追悼の意を込めその一端を書き記しておきたいと思う。

徹底した「結果主義」

「青木流の研究指導」の肝要は、極端なまでの結果主義であったかと思う。成果が形になるまでは研究員のほぼ完全な裁量が保証されたが、大学出身の研究者にはインパクト指数の高い学術誌での掲載論文を、官僚出身の研究者には行政庁での実用成果を期限内に出すことが強く求められた。

たとえば、行政庁の依頼研究にありがちな「モヤっとした初期仕様」を迷惑と切捨てずに敢えて認め、依頼元が納得する最終成果が出せていれば研究計画が何度か変わっていても良い、とするなど、研究員側の裁量は最大限に尊重された。また依頼元が納得する最終成果であれば論文である必要はなく統計や法案などの形式も可とし、研究所が創出した知的付加価値が如何に日本政府の行政の質的向上に貢献しているか、というその一点が問われていたと記憶している。

また、懸賞・賞金付論文や有償受託研究など「実になる成果」には積極的であり、小生は何度も有償受託研究の報償で金一封にありついたものである。ただ研究所としてカネに困っていたわけではなく、青木先生は「成果をカネという目に見える形で測っているだけで収入として見ているわけではない、故に件数は稼いで欲しいが金額を稼いできても評価しない」と明言されたことを鮮明に記憶している。

一方で、こうした行政の実用分野に近い研究は政府方針と齟齬する場合も珍しくなく、経済産業省の意に沿わない研究結果も多数産出されたが、青木先生は「『批判』的研究の正当性は客観性・公平性・論理性など成果の『質』により担保されるべきであり、研究指導者はその『質』を確認する責任を持つ」という持論を決して曲げず、さまざまな批判・圧力に全く屈しなかったのである。

「混成研究・融合研究」と健全な緊張感

「青木流の研究指導」の特色は、人材活用における「混成研究・融合研究」であったかと思う。

財政改革プロジェクトはその典型例であるが、政治・経済・社会学のさまざまな人材が同じテーマを多面的に検討する場を持つ「混成研究」が能動的に試行された。それは勿論、知識の融合化による解決の容易化を狙ってのことであるが、同一分野の研究者が「馴合い」的雰囲気でどこかで読んだような陳腐な成果を出すことを防ぐべく健全な緊張感を形成する側面もあったものと思われる。

青木先生はこういう人選を「しつらえ」と呼んでおられたが、言い得て妙な言葉である。

また同一人物の研究手法についても、複数手法(ミクロ+計量、マクロ+社会学など)の活用や新分野進出、あるいは境界的領域での「融合研究」は大いに推奨されたが、同じ分野・同じような手法で付加価値の薄い論文を粗製濫造しあちこちに投稿することは厳しく戒められていた。

実際に、現在小生は主にエネルギー政策分野での「難問・奇問」を専門に取り扱っており、殆どが著名な研究機関・シンクタンクで「計量」の手法を適用したがうまく行かなかったとして小生に依頼がやってくるものであるが、その大半が「ミクロ+計量」などの「融合手法」で比較的簡単に解けるタイプの問題であり、問題の本質は最初に担当した分析者の「視野狭窄」や「根拠のない思込み」が原因である場合が非常に多いのである。

青木先生は時々「溜まった水はすぐ腐る(新しいことをやらないで内輪で馴れ合っていると研究者はすぐ堕落する)」と言われていたが、最近その深い意味を再実感しているところである。

明瞭・精緻な「結果評価基準」

「青木流の研究指導」では、上記のとおり結果主義や混成研究・融合研究といった特徴的な側面を有していたが、そのままでは現場の裁量が大きすぎるため、研究所の方針と毎年度研究員が産出する成果の間に段々ズレを生じてしまうこととなる。

当該問題を防ぐために、毎年度の研究計画策定時に青木先生から非常に明瞭で精緻な「結果評価基準」が呈示され、評価の加点・減点や報奨金の有無などを介して研究所の重点分野に研究員の関心が向くようインセンティブ付けがなされていたのである。

また、研究所の予算・人事やWEBの運営に至るまで、研究員にとって利害が生じ得る問題であるならば、些細なものでも真摯に検討した上で所内制度の制定・改廃が行われていた。当該所内制度についても前述の「混成研究」の方式で検討がなされたため、複数の研究員目線で見て解決策が模索されたり、研究員と事務職員の変則「混成研究」が行われていた。

実は青木先生が去った後の研究所では、研究員が参加して内部制度を設けるという慣行が直ちに廃止されたため、内部制度に研究の実情が殆ど反映されず日々困惑しているところである。

大学の教授会がそうであるように、例え如何に面倒でも子細な問題を事務方任せにしないというのは組織運営の基本であったということであろうか。

「懸案」への解答 - 新規な経済学的手法は何故敬遠されるのか -

ところで青木先生は周囲に「懸案」の形で長期的な検討課題を与えることがお好きであり、小生も生前また多数の「懸案」を頂いていたところである。幾つかは解答できたが、恥ずかしながらまだ数問が残っている。

先日「何故新規の情報や人脈に貪欲な経済産業官僚が、新規の経済学的手法にはあまり関心を寄せないのか」という「懸案」について、原子力損害賠償支援機構での3年の経験に基づいた面白い回答案が見つかったので、線香の代わりにここに奉納したい。

「経済産業省では通常は業界など利害関係者の意見を審議会・研究会で集約していれば大概の日常業務は運用でき、経済学的手法による評価分析は補完的手段として用いられているに過ぎないため、仮に関係する経済学者が苦労して新規的手法を用いたとしてもそもそも重視されることがない。一方、原発事故や抜本的制度改革など利害関係者が見解を持ち得ないか、あるいは自明に反対であるような『不測の事態・未曾有の事態』には主従が逆転し、経済学的手法が突如活躍を期待されることとなるが、そのような事態では手法の新規性よりも結果の堅実性が重視されるため、問題対処を支援する経済学者が相当の注意と努力を払わない限り、解りやすい古典的な手法が重視され新規的手法は再度敬遠されることとなる。

従って『不測の事態・未曾有の事態』でかつ明らかに古典的な手法が適用できないような特殊中の特殊な事態でもない限り、経済産業省の政策の現場において経済学的手法の世代交代は自然には起き得ず、問題対処を支援する経済学者の特段の注意と努力が求められるものである」。

2015年7月23日掲載

2015年7月23日掲載

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