経営者のインセンティブとは、どのようなものか?
会社はだれのものか、という問題には多くの注目が集まっている。しかし、そこでの議論の多くは「会社は誰のものであるべきか」という規範的な問題であった。これに対して、「日本の会社は誰のために経営されてきていたのか」という実証的な問題に対する分析はそれほど多くなかったといえよう。その理由の1つは、「誰のために会社が経営されているのか」という問いを実証的に分析することが容易ではないためである。しかし、経営者がどのようなインセンティブをもって経営しているかは実証的に分析可能である。たとえば、経営者個人の収入と株価の間に強い関係があれば、経営者は株価を最大化するために努力するであろう。すなわち、経営者の金銭的なインセンティブを分析することで、日本の企業の目的がアメリカなどと異なるかどうかを考えることが可能となる。
経営者の金銭的なインセンティブに関してはアメリカを中心に数多くの実証研究がなされてきた。それらの研究の多くは、経営者は株主のものであるとみなし、経営者の利害を株主の利害と結びつけるような仕組みが望ましいとされる。この考え方によると、経営者は株主の代理人として、株主利益を最大化するように企業を経営することを求められている。しかしながら、経営者と株主の間には利害の対立がある。株主は経営者が株主利益を最大化するように企業を経営することを望むのに対して、経営者は経営者自身の効用を最大にするように企業を経営するインセンティブを持つ。
このような利害の対立が発生するのは、当然のことながら、所有と経営が分離しているためである。社長が企業の大部分を所有していれば、社長は株価を上昇させるような強いインセンティブをもつが、所有と経営が分離している場合、社長が株主のために企業を経営するかどうかは必ずしも明らかではない。たとえば、2005年3月31日現在、松下電器産業の株主数は27万5413人であり、発行済株式数は24億5305万3497株である。これに対して、社長の持株数は3900株、持株比率は0.00015%にすぎない。このような状況では、企業の時価総額を増加させたとしても、社長の個人的な資産はほとんど増加しないであろう。このように社長の持株比率が極端に小さい企業において、社長が株価上昇のために努力することを期待できるであろうか。
所有と経営の分離の進展が引き起こす株主と経営者の利害対立
所有と経営が分離していることは、インセンティブの面からは問題視されることが多いが、現在の大企業は非常に巨大であるため、社長がその大部分を所有することはほとんど不可能である。現在、トヨタ自動車の株式の時価総額は約20兆円である。このような企業の大株主となれるだけの個人資産を持つ専門経営者はそれほど多くはないであろう。そもそも経営者がリスク回避的であり、また経営者個人の財力には限界があることを考えると、所有と経営が分離することは自然であろう。
所有と経営の分離が進展すると、株主と経営者の利害対立が問題となる。このような問題に対する対処法として、金銭的なインセンティブが用いられてきた。株価が上昇したときに、経営者の個人的な収入が増えるようなメカニズムがあれば、経営者は株価を上げるために努力するであろう。アメリカの経営者の報酬がストックオプションなどを通じて巨額であることは良く知られている。このような巨額な報酬は、アメリカでも激しい批判を浴びているが、コーポレートガバナンスの観点からは、必ずしも悪いとはいえない。巨額のストックオプションを保有する経営者にとって、株価は非常に重要な経営目標となる。株価が上昇すれば、ストックオプションを通じて経営者の個人的な資産も激増する。逆に株価が下落すると資産が激減してしまう。これらのことから、経営者は株価を上昇させるための強いインセンティブを持つことになる。実際にアメリカの研究によると、アメリカの経営者は株式投資収益率を向上させることで大きな報酬を受けることになる。
日本の社長は、株価を最大化するような金銭的インセンティブを持っていないという実証分析結果
では、日本企業ではどうだろうか。京都産業大学経済学部の齋藤卓爾氏との共同研究において、我々は1990年から2003年の東京・大阪・名古屋の上場企業の社長の金銭的なインセンティブを実証的に分析した。すなわち、株式投資収益率を1%上昇させたときに、経営者の収入がどれだけ増加するか、という点に着目した。その結果、日本の経営者は、アメリカと異なり優れた業績を達成しても著しく資産が増えることはなく、また著しく劣る業績を達成しても資産が減少することはないことが示された。すなわち、日本の社長は株式時価総額を増加させることに対する収入の変化が極めて小さい。具体的には、1991年時点では、株式投資収益率が1%向上したとき、社長の個人的な資産はわずか49.7万円しか上昇しない。
さらに、2003年にはこの数字は12.9万円まで減少している。また、我々は、企業の株式時価総額が1000円増加したときに、社長の収入はどれだけ変化するか、ということも分析した。その結果、企業の時価総額が1000円増加したときの社長の収入は 1991年には0.832円であったのに対して2003年には0.723円と非常に小さいことが示された。すなわち、日本の社長は株価を最大化するような金銭的インセンティブを持っておらず、そのインセンティブも、2003年まで減少傾向にある。
アメリカ型からの乖離が大きくなっている経営者のインセンティブから見た日本のコーポレートガバナンス
経営者は、企業経営に関する強い権力を持っている。このため、株主利害を最大化しないようなプロジェクトに対する支出を行う可能性は常に存在する。株主価値と経営者の個人的な収入の関係が弱い状況では、経営者は費用を最小化して利益を最大化するよりも、会社の規模を大きくするなどして、自らの効用を最大化するインセンティブを持つことになる。このような問題を解決するために、アメリカでは経営者の金銭的インセンティブを強めようという強い圧力がかかってきている。実際に、株主価値を上昇させることでアメリカの経営者が受け取る所得は年々増加の一方である。
一方、我々の実証研究の結果からは、日本の経営者が株主価値を増加させるインセンティブが小さく、しかも縮小傾向にあることが示された。一般には、日本のコーポレートガバナンスがアメリカ型に変化していると思われているが、実際には経営者のインセンティブに限ってみると、アメリカ型からの乖離がむしろ大きくなっていると推定される。はじめに述べたように、日本の会社は誰のために経営されてきたのか、という問いに答えるのは容易ではない。しかしながらこの結果は、日本の企業が株主のために経営されていたわけではないという伝統的な考えを裏付けるものであるといえよう。