Research & Review (2007年3月号)

東アジア経済統合の歴史と展望

宗像 直子
元経済産業研究所上席研究員、経済産業省製造産業局繊維課長

はじめに

2001年から3年間、米国ワシントンにて、東アジア経済統合と米国のアジア政策を研究する機会をいただいたが、昨年9月にその成果をまとめた著作*1がブルッキングズ研究所から出版された*2。この研究の動機は、90年代初めにマレーシアが提案したEAEC構想に対する米国の強い反発と、これに直面した日本の動揺を目の当たりにしたときに形成された。「日本は米国に安全保障を依存しており、その米国が反対している以上、EAECに賛同することはできない」という議論が、当時は反論を許されない命題だった。しかし、これに対し、次のような素朴な疑問を抱いた。
・かつて欧州統合を応援した米国は、いかなるアジアの統合にも反対し続けるのか。
・なぜ日本は一切米国を説得しようとしないのか。
・日本は、果たして米国からもアジア諸国からも信頼されるようになれるのか。

アジアの地域統合に係る日本の政策は、米国の政策に大きな影響を受けてきたし、今後もそうあり続けるだろう。日本としては、米国のグローバル戦略とそこでのアジアの位置付けを知ると同時に、米国の政策形成の前提となる認識に働きかけることも重要だと思う。

東アジア経済統合は、米国にも利益

ワシントンでは、「東アジアの経済統合は米国にとっても利益だ、それはアジア、特に日本の構造改革を促し、アジアの世界経済に対する貢献を高めるし、アジアの平和と安定に寄与して米国の安全保障負担を軽減する」といったことを様々な機会に訴えてみた。しかし、どうも今ひとつアメリカ人の心に響いていないようで、どうすれば彼らの心に届くだろうと考えた。そして、理屈を並べるよりも、東アジア経済統合の制度的枠組がなぜ、どのように生成してきたか、米国の役割や行動はどう評価されていたか、経済統合に向けた取り組みがいかに東アジアを変えてきたか、すなわち、各国の国内改革を促進し、域内の国際関係を安定化してきたかを丁寧に紹介した方が意味があるのではないか、その方が、東アジアの統合は米国も重視するアジアの平和と繁栄に寄与し、米国のアジア戦略を補完するという理解を促し、米国の警戒心を解き、アジアの取り組みをより肯定的に捉えてもらうことにつながるのではないか、と思うようになった。

本書は三種類の読者を想定している。まず、アメリカの政策当局者だ。最大のメッセージは、日本が進める東アジア経済統合は、この地域を前向きに変化させる営みであり(これを本書の題名とした)、アジアから多くの富を抽出し日本を同盟国とする米国にとっても利益になること、そして、日本は信頼に値するパートナーであること、である。付随的に、米国の政策や行動(例えば、初期のAPECにおける自由化偏重と協力軽視、二重基準のEAEC反対工作、アジア通貨危機初期の緊急支援策への不参加、同時多発テロ後のテロ対策への専念とアジア軽視)がこの地域における米国のイメージにどのような影響を与えてきたかを十分に認識してほしいとも考えた。

東アジアの地域主義に対する域外からの懸念の1つは、多角的貿易自由化至上主義から来る。これは、アジアだけの問題ではなく、重層的枠組みが自由化を促進し、ルールの輻輳は、広域での共通化によって克服でき、WTOが域外差別を解消していく、という反論が可能だ。より深刻なのは、東アジアの地域主義は、反西欧、反米的傾向を持ち、閉鎖的になるという先入観だ。これは取るに足らない偏見だと思っていたが、戦前の日本のアジア主義との連想に根差しており、学者、研究者の間では意外に根強かった。これらの議論は、地域統合を促進する企業行動の実態を踏まえていないものが多い。そこで、本書では、各種の実証分析を引用しつつ、80年代後半以降の東アジアの事実上の経済統合の進展を振り返り、域外市場に対する依存が域外に対して開放的であろうとするインセンティブをもたらすこと、域内の生産ネットワークの実態を踏まえれば、最終的にはこの地域をシームレスに統合された市場にすることが望ましく、二国間FTAなどは過渡的なステップであること、特に90年代後半以降は米国企業も域内貿易拡大の担い手になっており、彼らも域内統合から利益を得ること、などを示した。

経済統合の実現には、東アジアの劇的な変貌が必要

次に、アジア諸国の政策当局者に伝えたかったことは、東アジア経済統合、さらにその先の東アジア共同体は、域内各国が劇的に変わらなければ達成されない、ということだ。その変化とは、
・国内保護と官僚主義によって隔てられた国々の集合から、開放的で統合された市場へ、
・米国市場依存の輸出国の集合から、内需志向で対米貿易もより均衡のとれた地域へ、
・市場経済制度が未熟で経済的ショックに対し脆弱な経済から、競争とイノベーションに適した堅固な制度を持った経済へ、
・そして最終的には、政治的競争と歴史的憎悪によっていがみあう国家の集合から、共通の願望と相互信頼を絆とする地域共同体へ、
といったことだ。これらは現実離れしているように見える。逆に言えば、共同体のビジョンは生易しいものではなく、その位劇的に変わらないと達成できない。その覚悟もなく、「共同体」という言葉を先行させるのでは、域外から不信感を持たれても仕方ないとさえ思う。

他方、仮に政治体制や価値観の違いから、当面、共同体の実現が困難であっても、だからといってあきらめるべきではなく、共同体構築に向けた取り組みはこの地域に望ましい変化をもたらすものであり、続けていく価値があることを訴えたかった。なお、東アジアの経済統合を巡っては、しばしば壮大な構想が打ち出され、参加国問題に関心が集まるが、実体経済にインパクトを与える制度や協力の実質が伴わなければ、多くの労力を注ぎこむに値しない。その実質をもたらすのは、国内の経済改革の実行だ。これとの関連で、中国の台頭に伴い、東アジアの経済統合が中国のアジア支配の手段となることを懸念する議論が高まっているが、経済統合は、競争とイノベーションを促進し経済を発展させることに主眼があり、中国は経済協定を外交の手段とするだけではなく実施の質に留意すべきだと考える。

東アジア地域統合の最大の推進力は、域内の相互依存関係

最後に、研究者や学生のために、東アジア経済統合の生成過程を跡付ける資料としての価値を意識した。可能な限り根拠となる文献を探して引用し、本に書かれていることを読者が検証できるようにした。この本の主張がアメリカ人に対しどこまで説得力を持てたかはわからないが、少なくとも単に著者の経験や思いを主観的に書き連ねたものではなく、事実に立脚して誠実に書こうとしたことは伝わるのではないかと思う。

本書では、東アジア経済統合の推進力と障害を整理している。この枠組みは、東アジアの地域統合のモメンタムをその時々の事象のみにとらわれずに総体として評価するうえで有益だ。推進力としては、第1にdefensiveなダイナミズム、すなわち、他の地域主義に対抗する、あるいは米国の一方的制裁に対処しようとするなどの動機にもとづくもの、第2に域内の経済的相互依存関係を深めたい、障害を取り除きたいという実需に基づくもの、第3に、最近の日中間にみられるような域内の競争的ダイナミズムがあげられる。報道などではdefensiveあるいは競争的ダイナミズムに焦点が当たるが、実はフォーラムが多層的、重層的に組織されるようになってきて、むしろそれらが共存しつつ役割分担するようになると、どのフォーラムがどの機能を担うのがもっとも効率的、効果的かという機能的判断が優先するようになってくる。その意味で、後述する4つの時期を通じて第2の推進力がどんどん強くなっていったことがあらためて確認される。

障害としては、第1に、アジアの多様性、域内の競争関係といった遠心力、第2に米国への依存、第3に制度化へのためらい、すなわち、センシティヴな分野の自由化を法的にコミットすること、さらに言えば主権が制限されることへの躊躇というものがあげられる。これらはそれぞれに残ってはいるが、当初に比べると絶対的な障害ではなくて、マネージしていけるようなものになってきている、ということが、歴史的な過程をながめて確認される。

地域統合の機運が弱いときには、内容より参加国が焦点に

本書では、地域統合に関わる制度的枠組みの歴史を、4つの時期に分けて振り返った。第1期(80年代後半~92年)には、東アジア経済秩序について複数の構想が提案され、互いに両立しないものと認識され、どれが東アジアの地域秩序の骨格になるかが競われていた。まず米国中心の二国間FTA構想があり、これを警戒した豪州と米国の一方的制裁の抑止を望んだ日本がAPECを構想し、その発足にもかかわらず欧米の地域主義が進みURが停滞したことに業を煮やしたマレーシアがEAECを提案し、米国がこれに激しく反発する一方、APECに力を入れるようになった。この時期にはまだ統合の機運が十分強くなく、経済実態から必要に迫られるというより、理念や外交戦術が先行していたといえる。貿易自由化の方法を巡る対立など、その後も形を変えて現れる問題も顕在化したが、この時期の焦点は内容より参加国問題だった。

第2期は、93年からアジア通貨危機前までで、米国主導でAPECの求心力が高まったが、貿易自由化の方法論を巡る対立が通奏低音となっており、EVSLの挫折を経て各国がAPECの限界も認識し、そこにあらゆる機能を託すのではなく、重層的な枠組みを使い分けるべきだということを学んだ時期でもあった。昨年秋に米国が提案したAPEC・FTAの起源は、この時期のAPEC賢人会合報告に遡る。この時期には、EAECとは別物だということを強調しつつ、域内外の異論を乗り越えてASEAN+3の原型が立ち上がった。その背景には、重層的枠組みの必要に加え、東アジアだけで集まることが世界経済にとって有害だなどという懸念は払拭したい、という願いもあった。

第3期は、アジア通貨危機から2000年秋までで、この時期に、地域主義について多層的な枠組みをどう使い分けるか真剣に考えられ始めた。ここで日本は、自らが取り組みたい課題を推進するうえで二国間FTAを活用する、という発想に至った。シンガポール、メキシコ、と交渉相手を選ぶに当たっては、1つの取り組みがより難易度の高い次の取り組みを可能にするようなプロセスの設計が試みられた。

構想は地域大、行動は二国間のまま構想の数が増加

第4期は、中国がWTO加盟を目前に中ASEAN自由貿易協定の研究を提案したときから今日に至るまでのFTA競争の時期だ。中国は、自らのWTO加盟交渉中に進んでしまったFTAへの流れに追いつくべく、中ASEAN・FTAを急速に進めた。それがまた新たに日本や米国を刺激し、域内に競争力学が働く中で、各国が活発に様々なFTAに取り組むようになった。米国は、ASEANへの接近やAPECの活性化を図っているが、全体としてはアジアの優先順位は低いままだ。

この時期には、ASEAN+3、日中韓等のフォーラムの下で多様な分野の機能的協力が進展した。さらに東アジアサミットが提案され、紆余曲折を経て、ASEAN+3に豪州、NZ、インドを加えた16カ国で開催された。さらに日本は、地域全体のFTAについても、ASEAN+3ではなく、16カ国でやろうと提案した。日中FTAがなかなか現実の選択肢として取り上げられるに至らないため、構想は地域大でも、行動は二国間という状況のまま、構想の数が増えている。

統合を着実に進めるには、目標設定とロードマップの作成が重要

本書では、最後に日米中3カ国の国家戦略とアジア統合への対応との関係を整理した。ここでは、日本について触れる。プラザ合意後の対アジア直接投資の急増は、アジア経済を事実上統合し、その結果、日本と他のアジア諸国との関係は、二国間関係の束ではなくなり、網の目のような域内経済関係の一部となって、他のアジア諸国同士の関係によっても影響されるものになった。これに対応した日本のアジア政策の転換は1990年代に始まったが、経済統合のためにも必要な国内の経済構造改革は完了していない。

日本の戦略は、米国との安全保障同盟の維持と東アジアの枠組みを通じた地域の平和と繁栄の確保を同時に追求するものであることは明確だ。しかし、さらに踏み込んで、東アジアの枠組みに何を求めるのか、どのような条件が整えばどのような機能を東アジアの地域機構に委ねるのか、といった設計はできていない。日本が時々の情勢に振り回されずに東アジアの経済統合、さらには共同体構築に向けて自らができることに着実に取り組むためには、(参加国の合意取り付けができなくとも日本として)理想とする共同体の目標とそこに至るロードマップを定義し、ロードマップの各ステップを1つ1つクリアする条件として、日本が何をすべきで各国に何を求めるかを示すことが望ましい。そのような作業がまだ現実的意味を持たないのであれば、各種のFTA交渉や機能的協力と自国の魅力を高める取り組みを地道に進める他ない。日本が、地域にとって魅力的で地域統合を主導できる国になるために何をすべきかは、これまでに相当程度明らかになっている。日本はメッセージが不明確だ、と言われることが多いが、今は、メッセージに内実を持たせるためにやるべきことを急いでやることが必要だ。

おわりに

東アジアの経済統合、さらには共同体の構築は、様々な不確定要因を伴い、課題も多いが、それに向けた取り組み自体が前向きな変化をもたらすものであり、目指し続けるに値する目標だ。先行きが不透明なときでも、できることから着実にやって、日本の地力をつけていったらよいと思う。

2007年4月4日掲載

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