この原稿はブルッキングズ研究所「北東アジア・コメンタリー」(2010年1月号)に掲載された“The U.S., China, and Japan in an Integrating East Asia”の和訳原稿です。
(要旨)
- 東アジアの制度的経済統合の将来の姿やそこに至る道筋は、未だ明確になっておらず、複数の選択肢が重層的に追求されている。本年1月に一応の完成を見た中ASEAN・FTAは、それだけでこの先行きを決定づけるものにはならない。
- 米国がアジアの経済統合で指導力を発揮するためには、質の高いFTAを掲げつつ、アジアの実態を踏まえた柔軟性を持つことが求められる。
- 東アジアにおいて米国が参加していないFTAによる関税格差を縮小するためには、ドーハ・ラウンドを妥結することが最も効果的であり、米国の利益。
1. 導入
昨年来の経済危機を経て、世界経済に占めるアジアの存在感が高まった。2009年の実質経済成長見通しは、世界平均がマイナス1.1%である中、新興アジア(中国、インド、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、フィリピン等)は6.2%であり、アジア経済が世界経済の回復を牽引している(注1)。
アジア経済は、これまで主に域外輸出の拡大によって成長してきた。しかし今回の危機は、アジアの製造業者とアメリカの消費者に依存した世界の経済成長が限界にきていることを露呈した。アジアにとって、今後は世界経済の不均衡是正のため、域内需要を拡大することが大きな課題となっている。その重要な処方箋の1つが域内経済統合(注2)だ。
この点で、本年1月1日に2つの前進があった。1つは、ASEAN自由貿易地域(AFTA)先行6カ国(ブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ)が、1999年の首脳合意(注3)に従って、原則として全ての品目について相互の関税撤廃を実現させた(注4)ことである。もう1つは、2004年に調印された中ASEAN間の自由貿易協定(以下ACFTA)(注5)の、いわゆるノーマルトラック品目について、中国とASEAN6(上記先行6カ国に同じ)との間の関税が撤廃されたことだ。AFTAは、1992年に発足し、段階を踏んで経済統合を進めてきた。ASEANは、AFTAによるASEAN域内の統合の進展を踏まえ、域外国とのFTA交渉を進めてきたが、ACFTAは、その最初の事例であり、規模も大きく、注目される。
2. ACFTAの概要と評価
中国とASEAN(注6)は、2001年11月の首脳会議で、10年以内のACFTA創設に合意した(注7)。翌02年には、物品・サービスの貿易自由化、投資協定の基本方針、アーリーハーベスト等の基本方針について定めた「ASEANと中国の包括的経済協力に関する枠組み協定(注8)」に首脳が調印し、これに従って04年1月から、農産品の関税撤廃の先行実施(アーリーハーベスト)が開始された。
農産物以外の物品自由化については、2004年11月に「ASEANと中国の包括的経済協力枠組み協定の物品の貿易に関する協定(注9)」が調印され、2005年7月から、関税引下げが実施されている。自由化スケジュールは、品目をノーマルトラックとセンシティブトラック、国を中国およびASEAN6とASEAN新規加盟国とに分けて設計され、中国およびASEAN6はノーマルトラック品目を2010年1月1日までに、新規加盟国は2015年までに、原則撤廃することとしている。センシティブトラック品目は、2018年(新規加盟国は2020年)までに0-5%に下げるセンシティブ品目と、2015年(新規加盟国は2018年)までに50%以下に下げる高度センシティブ品目とに分かれて、各々指定出来る品目の上限がある。
本年1月1日に中国とASEAN6のノーマルトラック品目の関税が撤廃されたことで、ACFTAは一応の完成を見た。本FTAが地域経済に与える実際の影響を評価するには、関税撤廃の効果が現れるのを待たなければならない。しかし、中国・ASEANの専門家が2001年10月に行った試算(注10)では、ACFTAによって、実質GDPは、中国で0.27%、ASEAN全体で0.86%増えるのに対し、日本では0.09%、米国では0.04%減少するとされている。2004年のタイのチェラロンコーン大学のシミュレーション(注11)では、ASEANの実質GDPは0.38%、中国の実質GDPは0.30%増えるのに対し、日本の実質GDPには0.02%のマイナス効果があるとされている。一般にFTAには、域内経済を活性化させることで域外との貿易も増大させる貿易創出効果と、域内の製品が優先されることで域外との貿易を減少させる貿易歪曲効果がある。2つの試算は、米国や日本にとってのACFTAの貿易創出効果が、貿易歪曲効果を上回るものではないことを示唆している。
ACFTAの品目カバレッジを見ると、自動車、オートバイ、冷蔵庫やカラーテレビ等の家電、各種機械類等、製造業品が多くセンシティブトラックの品目に指定され、関税撤廃の対象から外されている。また、相互主義が採用され、ACFTAの対象品目は、自国および相手国がノーマルトラックにしている品目に限定されている(注12)。センシティブ品目の指定は400品目以下、且つ輸入額の10%以下に限定されており、中国とASEAN各国のセンシティビティに配慮しつつ、締結時点で合意出来るものを先駆的に追求したという点で、ACFTAは評価できる。しかし、今後中間層の拡大によって貿易増加が期待される多くの品目を関税撤廃の対象外としたことで、協定の効果が制限されている。
3. アジアにおける制度的な経済統合の現状とACFTAの占める位置
東アジアでは、欧米に比べ、FTAを活用し始める時期が1990年代末と遅かった(同地域における地域主義の歴史的経過については、拙著Naoko Munakata, Transforming East Asia: The Evolution of Regional Economic Integration ,(2006), Brookings Institution Press、特に、1997~8年のアジア通貨危機を契機とする東アジア諸国の政策転換の背景については、同書第6章“New Assumptions about Regionalism”を参照されたい)。
その後、この地域では、さまざまな形のFTAが活発に研究され、交渉され、締結されてきた。ASEANと東アジアサミットに参加するASEAN以外の6カ国(注13)とのFTAは、2009年8月、インドとのFTAの署名で出揃った。
地域における多国間のFTA(multi-party FTAs)としては、日中韓、ASEAN+3、ASEAN+6、TPP、FTAAPなどが検討されている(注14)。日中韓、ASEAN+3、ASEAN+6は、政府レベルでの検討が始まろうとしているところで、実現時期は決まっていない。FTAAPは、APECで検討されているが、その実現方法は今後具体化されることとなっている。これに対し、米国、シンガポール、オーストラリアなど8カ国が参加するTPPは、本年3月に交渉準備会合が開催され、他に先駆けて実現への一歩を踏み出す予定だ。米国オバマ政権は、2009年11月14日付けで議会に政府のTPP交渉への参画を通知し、環境や労働権等も含めたレベルの高い合意を目指すとの方針を打ち出した(注15)。
経済統合を超えた広範な協力を想定する地域共同体としては、鳩山総理の東アジア共同体(注16)、ラッド豪首相のアジア太平洋共同体(APc)(注17)の構想がある。具体化はこれからだ。
このように、二国間FTA、多国間FTA、地域共同体の構想が並立している中、現在のところ、東アジアの制度的な経済統合について、将来の姿やそこに至るロードマップは存在しない。ACFTAも、地域の自由化の取り組みとしては先行しているものの、今や5つの対ASEANFTA(ASEANと豪州およびニュージーランドとの間のAANZ FTAを含む)のうちの1つであり、前述のとおりまだ自由化余地は大きい。これだけで、今後のこの地域の経済統合の先行きを決定づけるものにはならないと思われる。
今後のシナリオについてコンセンサスがあるとすれば、多様な構想をそれぞれ並行して進めていくということだろう。無理に合意を追求せず、複数の選択肢を重層的に生かしたまま、どの枠組みがどのような機能を担うかを実態に即して決めていけばよい、という考え方である。
4. 日中米の課題と機会
各構想がいつ、どのように実現するか、実現したとして、アジア経済の構造変化をどの程度促すかは未知数だ。日、中、米は、それぞれ、以下の課題を克服することで、アジアの経済統合を世界経済全体の活性化により大きく寄与するものとすることができる。
日本は、TPPをはじめとするレベルの高いFTAに参加するため、センシティブな分野を克服し、戦略的に国を開いていかなければならない。鳩山政権は、アジアと一体となって成長するとの方針を掲げている。2010年は日本がAPECを主催する年でもあり、日本の成長戦略、さらにはAPECとしての成長戦略を具体的に示すまたとない機会である。
中国は、今後中間層の需要拡大が予想される品目の自由化を進め、ACFTAの質を高めることで、地域の貿易・投資自由化において、さらに大きな役割を果たせるだろう。ACFTAの対象は関税中心だが、今後は非関税障壁の役割が増大する。中国が独自の国内基準を国内産業振興に活用しようとしているのではないかとの諸外国の疑念を克服することが、中国がアジアの経済統合の制度設計に指導力を発揮する基礎となる。さらに、一時的な景気対策ではなく、恒久的な社会的安全網を整備し、中間層の消費需要を安定的に喚起することで、世界的な需給不均衡解消に向けたイニシアティブをとることができる。
オバマ大統領は、2009年11月の東京での『アジア演説』(注18)で、米国の過剰消費構造を改め、輸出に主眼を置き、その前提として、成長センターであるアジア太平洋への関与の強化を打ち出した。その1つの方策がTPPである。米国は、質の高いFTAを主導することで、この地域の経済統合で指導力を発揮することができる。ただし、TPP交渉の方針として打ち出されている、労働、環境を含め高い水準を目指すとの考えは、経済発展の度合いが異なるアジアにおいて、なかなか受け入れられない可能性がある。米国は、アジア諸国をより経済効率性の高い制度に導くに当たって、アジアの現実を踏まえ、必要に応じ柔軟性を発揮することが求められる。
本年1月12日、もうひとつ歓迎すべき進展があった。クリントン国務長官が、ハワイで講演(注19)し、地域協力の枠組み(regional architecture)に関する米国の政策を詳細に述べた。この講演は、米国がアジアにコミットしており、今後もコミットし続けるという強いメッセージを送った。同長官は、アジア太平洋諸国が、どの地域機構が我々の共通の未来にとって最善であり、中核的(defining)なものであるかを決めることを促した。それは、いずれ決まっていくだろう。しかし、それにはある程度時間がかかる。アジアのように多様な地域における組織作りには、柔軟性とともに忍耐も必要である。
東アジアの経済統合は、現在、少なくとも過渡的には、米国が参加しないまま進行している。TPPも現時点では、日本や中国が参加していない。自国が参加しないFTAの関税格差を縮小し、貿易歪曲効果を緩和するためには、世界全体での貿易自由化が必要である。この点で、WTOドーハ・ラウンドは現在交渉が停滞しているが、これを早期妥結に導くことが最も効果的な政策対応であり、米国の利益になる。
本稿は、筆者個人の見解に基づくものであり、所属する組織の見解を示すものではない。