ゴーチョクトン首相講演を聴いて

宗像 直子
上席研究員

3月28日にシンガポールのゴーチョクトン首相を経済産業研究所にお迎えし、講演を拝聴した。主題は、「世界の秩序が大きく変わろうとしている中で、日本とシンガポールは、それぞれの国益のために、どのように行動すべきか」という問いかけであった。ゴー首相は世界の大きな変化として、第1に米国の圧倒的優位(及びその優位を大量破壊兵器の拡散防止とテロとの戦いに積極的に使うという新たな安全保障政策の採用)、第2に中国の台頭、第3にインドネシアの政治的断絶を挙げた。そして、それぞれの変化に対し、第1に対米協調の維持、第2に米国による対中バランスの維持、第3にインドネシアの過激派イスラムへの傾斜防止の重要性を説いた。その上で、東アジア地域の安定に長期的に取組むための枠組みの1つとして、「東アジア自由貿易地域(EAFTA)」の形成を提案された。

自国の安全保障と経済的繁栄を確保するために、常に国際情勢を注視し、生き残り戦略を見直し続けてきたシンガポールの緊張感が伝わる。そして、変化に受身で対応するのではなく、変化の方向を見据え、これに影響を与えようとする戦略的で前向きの発想が爽快である。

では、同じ問いに対する日本の答えは何であり、東アジアの経済統合は、日本の戦略にとってどのような意味を持つのか。また、東アジアの経済統合にはさまざまな障害があるが、その実現に向けてどのような道筋を想定すべきか。

日本の国際戦略にとって重要な環境変化:米国の安全保障政策の変化、中国の台頭、東南アジアと朝鮮半島の不安定要因

まず、日本にとって重要な世界の変化としては、第1にやはり同時多発テロ後の米国の新たな安全保障政策が挙げられよう。大量破壊兵器とテロリストの結合を防ぐことが至上命題であり、必要とあらば軍事力の行使も厭わないし、国連のプロセスを離れて単独でも(有志を連れて)行動する、というものである。日本は、時には対米協調と国際協調が必ずしも一致しない局面に立たされ、ジレンマに陥る。また、この政策のもとでは潜在的脅威を予防的に除去するための軍事行動が増加する可能性があり、アフガニスタンでの作戦行動に対する後方支援としてインド洋にイージス艦を派遣したように、今後、日本の安全保障面での貢献が期待される場面が増えることも予想される。また、新たな政策の下で米国の軍事的、経済的負担は著しく高まり、米国に余裕がなくなってくると、経済成長における米国依存の低減などが再び強く求められるようになる可能性もある。

第2に、ゴー首相が挙げた中国の台頭が長期的に重要な変化だ。ゴー首相は米国による対中バランスの維持や日本によるASEANへの関与の重要性を指摘したが、より根本的には、日本経済自体の再生が、中国との建設的関係の構築(そのための交渉力の維持)のためにも、より広く国際社会における日本の発言力の維持・向上のためにも、不可欠な要素だ。そして日本経済の再生は中国をはじめとするアジアの活力をどう生かすかにかかっている。中国台頭への対応は、勢力均衡の維持だけではなく、日中間の相互不信を克服し建設的な関係を築く努力が伴わなければならない。

第3に、ゴー首相の指摘した、イスラム過激派によって東南アジアがテロの温床と化すことの防止に加え、さし当たって最も緊急性の高いのは、北朝鮮の核開発問題だ。両者は、当面の危機回避にとどまらず、東アジアの地域秩序を長期的にどのように作っていくかを考えるうえでも極めて重要だ。

東アジアの経済統合が持つ意味

このように考えてくると、東アジアの経済統合の重要性がより明確に理解できる。

まず第1点の米国の新たな安全保障政策との関係では、軍事力の優位を背景に力の行使を厭わない米国に対する反感がアジアでも高まることが予想される中で、安全保障を米国に依存し、今後とも対米協調路線をとらざるを得ない日本としては、アジアの中で孤立した存在となることを避けなければならない。日本の国益は対米協調とアジアの一員であることが緊張関係に立たないようにすることである。もちろん、今回、日本のほか、韓国、フィリピン、シンガポールがイラク戦争に対する支持を表明し、日本が孤立しているわけではない。しかし、日本が米国と最も緊密な同盟国であるために、アジア諸国における米国に対する反発がそれらの国々における対日感情を悪化させることがあるのに対し、アジア諸国の人々が抱く米国に対する憧れなどの好感情は彼らの対日イメージとは無関係だという、対米感情と対日感情の非対称的な連動性には留意する必要がある。

さらに、対米協調が日本の安全保障上の役割増大を意味するとき、それは近隣諸国の不安を招くものであってはならず、日本に対する近隣諸国の信頼に裏付けられたものでなければならない。また、米国市場への過度の依存を改めるなら、「内需主導の成長」とともに、「域内需要の活用」が図られなければならない。

米国が圧倒的優位を持ち、主要な国際問題の解決には米国との協調が不可欠という状況でなぜ米国が参加しない「EAFTA」をわざわざ構想するのかは、一見わかりにくいが、以上の点を考慮すれば、その関連はおのずと明らかである。

また、将来の東アジアの経済統合に成長著しい中国を取り込むことによって、2つめの中国の台頭にも効果的に対応できる。まず、日本が高齢化を克服して経済を活性化できるかどうかは、中国をはじめとする東アジアの活力を生かせるかどうかにかかっているといっても過言ではない。加えて、ゴー首相が講演で触れているように、FTAを作る過程のコミュニケーションと、FTAによって一層強固になる域内の経済相互依存が相互信頼をもたらすという点は、東アジア全体で制度的な経済統合を進める重要な要因である。

東南アジアにおけるイスラム過激派の浸透を抑える観点からは、経済の建て直しが鍵を握る。中国の台頭とともに域内の競争も激化し、長らく国内市場を保護してきたASEAN諸国にとって構造転換は容易ではないが、生き残りのためには各国の比較優位にあった産業が発展できるような環境整備が重要であり、FTAなどによる自由化と経済協力の組み合わせによってこれを加速することが重要だ。

また、いずれ朝鮮半島が統一されるときに、統一のコストを円滑に吸収するためにも、日本や韓国の経済活力ができるだけ高まっていることが望ましく、経済統合はその重要な手段だ。また、統一朝鮮がどのような外交姿勢をとるかはわからないが、朝鮮半島への米軍駐留には北朝鮮の脅威以外の新たな根拠が必要となること、統一国家は中国と直接国境を接することなどから、韓国のこれまでの対米、対中関係がそのまま引き継がれるとは限らない。地域の政治力学が変化する可能性がある。その変化が地域を不安定にしないようにするためにも、北東アジア各国の相互信頼を深めておくことが重要だ。

3つの障害:政治的抵抗、発展段階格差、相互不信

しかし、東アジア経済統合の前途には課題が山積している。現在、この地域におけるFTAへの取り組みは、既に発効した日・シンガポール、現在交渉中の中国ASEAN、現在研究あるいは協議中の日・韓、日・タイ、日・フィリピン、日・マレーシア、日・ASEAN、韓・シンガポールなど、二国間ないし、ASEANとどこか1カ国の間であって、東アジア全体を結ぶFTAは遠い将来のビジョンとして語られているだけだ。これにはさまざまな理由がある。

まず、各国における自由化に対する政治的抵抗がある中で、これらの取り組みが最終的にどのような成果を生むかは楽観できない。

また、東アジアにおいては域内の発展段階の格差が大きい。実施に信頼感が持たれるFTAを締結するためには、途上国政府側が交渉に参加し、合意した内容を確実に実施し、また、比較優位に沿った経済構造を実現するまでの過渡期に、自由化の衝撃に耐えつつ必要な政策を講じることができるよう、途上国側の努力と先進国側の協力がうまく組み合わせられることが重要だ。それは、発展段階の格差を乗り越えて、地域全体が共通の目標に向けた一体感を共有するための努力でもある。

さらに、FTAは経済の論理だけでは締結できず、相手国(または経済単位としての地域)との信頼関係が必要になる。経済的な相互依存関係の深まりは、過渡的に摩擦をもたらすことはあっても、共通利益の拡大、人的交流の拡大による相互理解などを通じて、やがては信頼関係の構築に資する。しかし、相互信頼は経済関係だけから生まれるものではない。歴史認識の問題、安全保障政策の問題などについて日本と他のアジア諸国との間の相互不信は未だ根深い。まずは、特定の問題における見解の相違が相手国との関係全体を害することにならないよう管理することが必要であろう。その上で、日本と相手国の国民が、両国関係の強化を歓迎する機運が高まるような環境を両国が作っていくことが必要だ。

積み上げ方式が新たな可能性を拓くために

ゴー首相は、質疑に対する答えの中で、EAFTAに至る過程として積み上げ方式(building block approach)を主張された。すなわち、日本とシンガポールのFTAはタイ、フィリピン、マレーシアなどASEANの他の国を刺激し、それらの国々と日本とのFTAのきっかけとなった。これに中国が反応し、中ASEAN・FTAが交渉されるに至った。すると日本も中国同様ASEAN全体を対象とする包括的経済連携構想を提案した。こういった動きはそれまでアジアにおけるFTA締結に熱心でなかった韓国を刺激し、シンガポールとのFTAに対して積極的にさせた。こうしてシンガポールないしASEANが日中韓それぞれとFTAを結ぶようになると、やがて全体を結び合わせることになるであろうし、FTAだけではなく、東アジアの共通通貨もできるかもしれないとのことであった。

ゴー首相は、「もし我々がビジョンだけ持っていて、それを実現する具体的な手段がなければ、それは空想にふけっているだけだ。もし当面する課題を解決する具体的手段はあってもビジョンがなければ、我々の指導力というのはつまらないものだ。従って、我々はビジョンと現実を両立させる術を見出さなければならない」と述べた。

積み上げ方式に対しては、さまざまな批判がある。例えば、やりやすいところとだけFTAを締結してしまうと、残りの国々とのFTAを締結する誘因がなくならないか、発展段階が近くFTAを締結して着実に実施できる国々を選んでFTAを締結し始めたとき、取り残される発展段階が低い国が不信感を抱くのではないか、といった問題が残る。また、二国間FTAが網の目のようにできたとき、それぞれが異なる原産地規則などを採用すると、全体としては極めて手続きが煩雑になるといった問題(スパゲッティ・ボウル効果)もある。

しかし、全ての道のりが見えなければ、将来のビジョンに向かって歩き出すことができない、ということであれば、何事も成し遂げることはできないだろう。結局のところ、我々は、東アジア全体の経済統合という展望を持ち、その実現に向けた建設的な行動を1つ1つとっていくということしかできない。そして、積み上げ方式の1つ1つのステップが新たな可能性を拓いていくかどうかは、そのステップにおいて、今までできなかったことを少しでも実現できるかどうかにかかっていると考えるべきであろう。日々の仕事に緊張感を持って取り組みたい。

2003年4月22日

2003年4月22日掲載

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