特別寄稿 (2002年5月号)

ワシントンから見る日本と中国

宗像 直子
ブルッキングズ研究所北東アジア政策研究センター 客員研究員/経済産業研究所 上席研究員

日本経済は、何回目かの「3月危機の瀬戸際」から脱し、株式市場もアメリカ経済の底離れを受けて、活気が出てきたようだ。しかし、ワシントンの人々の日本への視線は冷ややかだ。金融危機は回避されたが、問題先送りにすぎないではないか、と。当面、日本の停滞と日本以外のアジア(non-Japan Asia)の力強い成長が、「織り込み済み」である。

昨年秋、ここでの話題の一つは、日本の中国脅威論だった。日本と中国は政治体制も発展段階も異なり、単純な比較はできない。したがって、ワシントンの人々は、日本の中国に対する強烈な脅威感に違和感を抱く。80年代アメリカの日本に対する視線と同じで、冷静さを欠いているのだ、と笑う。隣の韓国は、改革もがんばっているし、中国「機会」論で元気だぞ。それほど脅威なら、なぜ日本は経済改革にもっと切迫感をもって取り組まないのか。ああ、そういえば東京に行っても景気が悪い実感はないし、ましてや衰退の淵の悲壮感なんてないものね、と納得。日本人は豊かすぎて、危機感がもてないのだ、と。

筆者が勤務するブルッキングズ研究所から、昨年秋から年末にかけて、日本と中国について一冊ずつ本が出版された。日本については、エドワード・リンカーンのArthritic Japan, The Slow Pace of Economic Reformであり、中国については、ニコラス・ラーディのIntegrating China into the Global Economyである。

リンカーンは、日本国民の大半は既得権集団だ、大胆な取り組みの可能性は低い、構造改革に関する政府の言辞に惑わされるなと主張する。日本の改革について悲観的だ。知日派の多くは、日本で起きているさまざまな変化をもう少し積極的に評価する。日本の政治、底流が変わってきている、でも、経済状況からして優先順位が違う、時間切れにならないか。

ラーディは、中国は、WTO(世界貿易機関)加盟前から世界経済に深く統合されており、加盟に当たりさらに大胆な改革を受け入れた、と評価する。農業についての記述がふるっている。曰く、「中国は、穀物に輸入障壁をめぐらせ、国内価格を国内消費に見合う生産が確保される水準まで引き上げるという日本流を採らない。彼らは、農家収入の持続的拡大のためには、非効率な生産を補助するのでなく、市場のインセンティブで農家をより比較優位のある分野に移行させようとしている」と。他方、保守系の研究者には、中国のコーポレート・ガバナンスや汚職を取り上げて厳しい評価をし、マクロ経済の実態が統計よりはるかに悪いとし、将来見通しの「ダウンサイド」を強調する者も少なくない。が、中国では改革が緒についたところで発射台が低いので、総じて「大きな前進」が評価されやすい。

乱暴な対比だが、浮き彫りになる日中の決定的な差は、直面する問題以上に、その解決に向けた政治的意思の有無だ。この点は、2月のブッシュ大統領の日韓中歴訪で、現政権の人々に改めて強く認識されたようだ。一方、太陽政策批判の影で目立たないが、韓国の経済政策の評価は高い。最近のカンファレンスで、日本人の「日本と中国はともに社会主義的だが、違うのは政治的指導力だ」という自嘲的発言が会場の爆笑を買ったのは寂しい。

ブルッキングズの真向かいにある国際経済研究所から、やはり昨年秋に、日米関係について、バーグステン氏らによるNo More Bashingが出版された。その主張は、日本経済の世界経済に占める相対的な重要度が低下したこと、日本経済の特殊性も薄れたことから、日本経済について特別な政策はもはや必要ない、というものだ。これに対し、現政権の知日派は、引き続き日本の重要性を強調している。しかし、日本については議論も働きかけも尽くした、という「日本疲れ」がある。対日関心は、党派を超えて、一様に低くなった。

中国の経済改革の進展がもたらすものは、経済発展やこれに伴う軍事費増大に留まらない。中国は、アジア外交を近年とみに活発化させており、対ASEAN政策に優秀な人材を投入しているとされる。中国の台頭と日本の停滞は、地域の勢力均衡を深く変化させる。

しかし、ブッシュ政権には、北東アジアの新たな現実に対応する政策枠組みの検討を急ぐ様子はない。対外強硬路線と協調路線の対立が、体系的な戦略、政策の立案を妨げているとも聞く。しかし、より根本的には、アメリカの力が、軍事的にはもちろん、経済的にも圧倒的であること、中国がアジアにおけるアメリカの指導的役割を容認していること(「食苦」)が、政策再構築の当面の必要性を弱めている。彼らには、アジアにおける日中の力関係の変化は、アメリカにとっても長期的には問題となりうるが、今は日本の問題にすぎないと映る。

他方、アメリカの財政見通しの悪化、景気回復を受けていっそう拡大する経常収支赤字、といった動向を懸念する識者も多い。今はパックス・アメリカーナの絶頂だけれど、終わりの始まりではないかという予感もする。アメリカの圧倒的優位が揺らぐ可能性も視野に、アジアの多国間安全保障の枠組みを検討する作業も必要だろう。しかしここでは、国別の専門家は豊富だが、地域としてのアジアの秩序を構想する発想は弱く、知的蓄積が浅い。

それにしても、ワシントンの魅力は、さまざまな問題について、異なる分野の専門家が政策の選択肢を提示し合い、専門外の人々も含め関心のある人々の間で日常的に議論されることだ。「日本疲れ」も議論を尽くしたがゆえの気分であろう。翻って日本では、多くの問題について、内輪の専門集団を超えた議論、深い理解のないままに、思い切った改革があきらめられているのではないか。民主主義の国では、国民の間に改革への強い期待に支えられた活発な政策論議があってこそ、政治的指導力が発揮される土壌が生まれるのではないか。

90年前に日本が贈った桜が、まもなく街を彩る。90年後の日本やいかに。

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