新春特別コラム:2020年の日本経済を読む

公正性と透明性は行政における合理的判断の前提であるが、その前提が失われており、それをまず是正すべきである

山口 一男
客員研究員

EBPMの目的

筆者がEBPM(証拠に基づいた政策立案)の研究会を経済産業研究所(RIETI)で立ち上げて3年目になる。幸い優秀で熱心な学者・行政官・民間の研究者や若手の実践者の参加を得、行政におけるEBPMの実際の利用は緩やかなりとも進みつつあり、EBPM自体の有用性の認識は行政府で共有されつつある。EBPMは立法府および行政府における合理的判断を推進することを目的としている。政策には目的と手段がある。EBPMはまず目的に関し、具体的アウトカム(意味のある結果)を設定し、そのアウトカム達成に対し特定の政策という手段が有効に働くか否かを査定することにある。技術的に、そのような査定が可能な政策も多々ある。また、筆者が以前に日本の教育政策の意図せざる結果について議論したように、思い込みによる政策立案は有効性に欠けるだけでなく、かえって社会に後戻りの難しい弊害を生み出すこともある。事後的に「想定外だった」という失政への弁明が起こることを減らすこともEBPMの目的である。

2020年が筆者に思い起こさせること

行政のアウトカムに関し2020年は重要な意味を持つ。オリンピックのことではない。2003年に内閣府が「202030」という目標を設定したことである。社会のあらゆる分野において、2020年までに指導的位置に女性が占める割合を少なくとも30%程度とする目標である。そして2020年を迎えようとしている今、わが国における管理職の女性割合はいまだ10%をわずかに超える程度である。国会議員の女性割合も参議院は22%だが、衆議院はいまだ10%程度であり、202030には程遠い。世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数の政治における女性の活躍度について日本は193カ国中165位である。女性の選挙候補者割合を50%に近づけるという「政治分野における男女共同参画推進法(パリテ法)」も2018年に成立したが、その後の参院選での与党の女性候補者割合は自民党が15%、公明党が8%に過ぎなかった。パリテ法の遵守が国会議員における女性の活躍を推進することは他国の例からも実証的根拠があるのだが、このような現状では目標など達成されようもない。

2018年はわが国の女性差別の根が深いことが具体的にらかになった年であった。医大・医学部の受験における女性差別のことである。その後の第三者委員会の調べで、東京医科大学は女性の得点を実際の80%に減点し、順天堂大学は男女別に異なる合格点を設定して男性を優先し、昭和大学は補欠補充において原則男性の入学のみに限り女性はごく少数の例外としていたことが最近までに判明した。目的(女性の合格者割合を制限する)は同じでも、それぞれ異なる手段を用いていたのである。性別によらず社会的機会の平等を保障する憲法第14条に背く、差別目的を達成する「有効な手段」に関し、実にさまざまな悪知恵があるものだと思う。この3大学以外にも、合格者の女性割合が受験女性割合を著しく下回る医大・医学部がある。この問題に対しても、大学の自己審査で解決すればよいといった政府・文部科学省の消極性が、この差別問題の根本的解消を妨げていると思われる。

また2019年には行政府において、達成すべき障害者雇用率を、実際は達成していないのだが、数字を操作して達成していたかのように見せかけていたことも判明した。女性も、障害者も、いわば「差別はしていない」という欺瞞に無理やり付き合わされた形である。隠れて行う差別は、露骨に行う差別以上に、差別された者の尊厳を蝕み、無力感を生むということを医大・医学部も行政府も肝に銘ずるべきであろう。

行政の公正性と透明性に実現するには

こうしてみると、本来有用であるべきEBPMも、その前提として目的が公正であるという、いわば本来自明であるべき原則がわが国では常に満たされているわけではないという認識から再出発することが必要になる。上記のような例は論外としても、近年その目的自体が公正かつ合理的に決められたかについて首をかしげるものが多い。例えば水道事業の運営の民営化である。確かに民営化すれば公費負担は減るだろう。しかし民営化により水道料金が高騰したり、水の品質が低下したという失敗事例が海外に多くあった中、拙速といえる政策決定であった感は免れない。また厚生労働省の毎月勤労統計調査に関する不正統計問題でも、東京都の大規模事業所を悉皆(全数)調査から3分の1の標本調査に変えるなど統計精度上不合理な変更をし、かつそれに伴うべき統計推計の変更をしなかったので 賃金統計を歪めてしまったことも、行政府がこのような重大な誤りを犯すことになった理由がいまだ不明である。また誤りに気づき集計変更した後もそのことを公表せず、過去に遡って誤りを訂正もせず、何の不正も誤りも無かったかのごとく行動したことは、行政府にとってまさにあるまじき行為であった。

一般に公正性は合理性より判断が難しい。公正性の1つの基準は憲法の精神に即しているか否かであるが、わが国では憲法第9条以外、政策が憲法の精神に見合っているか否かを政策に関し議論されることがほとんどなく、この点は改善の余地が多々ある。だが、上記の「水道民営化」や「統計不正」の例のように、合理的に判断がされたということ自体が疑わしくこの点でも公正性が損なわれている場合も多い。このような場合に重要になるのが意思決定の透明性である。政策立案段階で審議・検討が十分尽くされ、その内容について主権者たる国民が知ることができることが透明性である。

実は筆者が以前から非常に気になっていることがある。野党の議員や、団体を代表する弁護士などが、行政機関に関連する公文書を求めると、多くの部分が黒塗りになって子細が不明の文書が出てくることである。このような黒塗り公文書など英米で聞いたことも見たこともない。米国では公文書は機密度によって分類される。機密度の高い"Top secret"、"Secret"、"Confidential"に分類され一般に公開されないのは、国家安全(National Security)に関する文書のみである。軍事機密や安全保障関係の文書がそれにあたる。その他に"Restricted" とか"Official (Official use only)"などと分類される文書もある。前者は個人情報を含むなど国民一般に知らせると弊害もありうるので利用が制限される文書で、後者は例えば行政内人事の決定に関する審議など、行政内部のみに関係し国民に知らしめる必要がない文書である。これら例外はあるがその他の多くは原則公開可能な公文書で、また公開に制限がある場合でも、その制限の理由は明示的である。

一方、わが国の黒塗り公文書は情報公開法の不開示の理由の適用に関する曖昧性が関係している。特に問題なのは行政内部の審議、検討など情報の非開示の理由として情報公開法第5条第1項第5号で「公にすることにより、率直な意見の交換若しくは意思決定の中立性が不当に損なわれるおそれ、不当に国民の間に混乱を生じさせるおそれ又は特定の者に不当に利益を与え若しくは不利益を及ぼすおそれがあるもの」を不開示としてよいと定めていることである。この制限は憲法の精神に反している。主権者である国民は国内政策に関する行政の意思決定について知る権利があり、「不当に国民の間に混乱を生じさせる恐れ」などと国民にいわば責任を転嫁して不開示を正当化するなど言語道断である。また「意思決定の中立性が不当に損なわれる」という理由も明確さを欠く。国民のための政策、かつ公正であるべき政策に、仮に政策が「再分配政策」に関連して国民の一部はそれによって得をし、他が損をするとし ても、その政策の公正性に関する国民への説明責任を行政府は持ち、国民の批判を恐れるために「中立性が損なわれる」だの「国民の混乱を招く」だのの理由で国民に対し不開示とするのは、これも国民主権に反する行為である。中立性を言うなら、大学受験の女性差別であれ、行政の統計不正であれ、不正が疑われることがらの審査の第三者委員会の委員の選任に、欧米では絶対の原則である「利害関係者の除外」がわが国では守られず、公正な判断がされにくいことこそ中立性の明確な違反ではないか。女性差別・障害者差別の例同様、「有識者の意見を取り入れて公正に行政をしている」という形だけのために専門家を利用することは不合理なだけでなく、専門知識への冒涜である。従って筆者は米国などと同様、防衛・安全保障など国家安全に関する情報の不開示と、公務関係以外の個人情報の利用制限を除き国民一般への情報開示を原則とし、特に税の使用を伴う国内政策に関する行政府の審議・検討の情報は起案書、議事録、決裁書などの関連する行政文書を長期保存し、求められれば無条件で国民に開示すべき、と情報公開法を改めるべきと考える。また行政の審査を伴う審議会委員選任に「利害関係者除外」の規定を併せて明文化するべきである。

合理性の意義が損なわれない社会・行政を実現せよ

一般に社会における人材活用であれ、行政における有識者の識見の活用であれ、公正性も合理性も真摯に問われることなく、あらかじめ定められた目的に沿うものだけが採用されるようになるなら、この国の社会にも政策・行政にも、もはや合理的な未来への展望は描けない。最近、国家公務員総合職(以前のⅠ種)に応募する若者が減ったという。若者たちの行政への不信は、昨今の一連の行政の公正性の欠如と思われる出来事への健全な反応であり、そのような状況が続けば、公務員人材も劣化する。だがどのような改善も遅すぎることはない。行政に公正性と透明性を実現し、その上で合理性を論じられる健全な姿に戻らねばならない。202030は実現できそうにないが、2020年が透明性のある公正な行政の着実な一歩の年となることを切に念じる。黒塗りの公文書など、もはや目にすることのない社会の実現である。そうでなければ行政の合理性を追求するEBPMも単なるお飾りにすぎなくなり、それに関わる志の高い優秀な学者や行政官も「宝の持ち腐れ」となるだろう。またより広い意味で日本には優秀な人材がありながら、それを生かせない社会になりつつあることを筆者は強く懸念している。

2019年12月20日掲載

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