日本は幸い未だ個人が自由に発言できる国である。しかし、国民自ら自由な発言を止めれば、その自由もいずれ失われる。社会的権利は不断の行使によってのみ維持できるからである。その意識もあり以下の発言は政治に対し辛口だが、これはあくまで個人責任における発言である。筆者はRIETIでEBPM関係のプロジェクトの主査でもあるが、国際的に発言の場を持つ一個人として発信している。
PBEMという言葉を初めて知った。2018年1号の『医療経済研究』の鈴木亘氏の「EBPMに対する温度差の意味するところ」と題した巻頭言にこの言葉が出てきたのである。EBPMとPBEM、EとPをひっくり返した言葉だがその意味するところは天と地ほどに異なる。EBPMは勿論Evidence Based Policy Makingで、これは英語でも通じる。一方米国では聞いたことがない、和製英語の簡略形と見られる、PBEMはPolicy Based Evidence Makingのことだと鈴木氏はいう、つまり「立案された政策に合わせて、エビデンスを作り上げてしまうこと」である。あからさまなエビデンスねつ造はもとより、実際には一定方向を示さない結果がある中で立案された政策と整合的な実証結果のみを選択的に引用するのもPBEMである。
2018年12月にRIETIで行ったEBPMのシンポジウムは『エビデンスに基づく政策立案を根付かせるために』という題であったが、シンポジウムの趣旨で私が述べたことは、2018年におけるいくつかの政策立案とその結果に関連している。それらの立案が事前にエビデンスに基づいて行われず、官公庁がいわば後付けで政権からエビデンスを求められたとき、まさにPBEMに落ち入ってしまい、結局その「エビデンス」の杜撰さが露呈して、国会が混乱し、また有識者などの信用を失う結果となる事例がいくつかあったと思われることである。具体的には働き方改革に伴う「自由裁量労働」の実態や水道の管理民営化に関する海外事例についての厚生労働省報告、出入国管理法改正に伴う外国人技能学習生失踪者のアンケート調査に関する法務省報告、などのことである。
学者にとって、小保方問題の例を出すまでもなく、データの改ざん・ねつ造などをすれば、学問的死を意味する。倫理的にそんなことは考えもしない学者が大多数であろうが、倫理的動機だけでなく、一本の論文を例えそれが一流学術誌であろうとそこに出す引き換えに、不正が発覚した場合に博士号まで取得して達成した専門家の地位を失い罰せられるリスクは、比較にならないほど大きく、不正なデータ利用をするインセンティブは極めて小さいと筆者は考える。
問題は行政のPBEMである。政策立案に合わせて作られたり選択されたりした客観的根拠に乏しい統計や事例だと判明すれば、行政が社会的非難を浴びるだけでなく、政策自体が意図した結果を生みだせず失敗に終わる可能性が高い。また、その結果本来信頼を置くべきEBPMも信用されなくなることになりかねず、行政が政策を進めるにあたり、意見の違いを超えてまず事実認識を国民と共有するという民主主義に欠かせない重要な手段を失うことになる。その社会コストは、改ざん・ねつ造データによる学術論文が出版されるコストよりはるかに大きい。だが問題はPBEMをしないことのインセンティブである。残念ながら、学者の場合に比べ、昨年の事例は逆にPBEMをするインセンティブが働いているとすら思わせる。一般に官公庁が国益に資することと、官公庁が政権の政策立案に盲目的に奉仕することとは全く別のことである。問題のある政策を政権が推し進めようとするときに、それに歯止めをかけられるのも官公庁の重要な役割であると筆者は考える。そしてその基礎となるべき合理的判断の重要な土台がEBPMの考えである。
EBPMは合理主義及び普遍主義的価値観に基づくが、現在日本はいくつかのことでグローバルな普遍主義的価値観から乖離してきているように筆者には思え危惧している。最近の医大・医学部受験でのあからさまな性差別を撤廃することへの政府の消極性もその1つであり欧米では考えられないことである。また国際姉妹都市関係の解消や国際協力の機関からの脱退も、長期的にみた国際協力のベネフィットより、短期的国内利害事情を優先することであり、そのような日本の在り方は、奇しくも同様に短期的国益を優先し国際関係悪化の道を歩みつづける米国のトランプ大統領の姿勢と類似し、共に日米関係の質(国家レベルのみならず国民レベルの関係も含む)にも悪影響している。
もちろん、国や組織の固有の文化に関するものは、負の外部性(外の世界に害を与えること)が無い限り、独自性を保ってよい。PBEMは縦の関係の和を尊ぶ日本文化の反映で政権と官公庁との円滑な関係には資するかもしれない。しかしそれが合理性より政治目的を優先させる行為であるゆえに政策の失敗により国民に大きなコストを生む可能性を持ち、また事実を正確に伝えないという点で国民に対し極めて不誠実な行為でもあるという点で、大きな負の外部性を持つ。従って筆者は2019年がPBEMを排し、EBPMが政策立案に根付くための大きな一歩となることを強く願い、またその実現に向けて微力ながら地道に行動していきたいと考えている。
お詫びと訂正(2019年1月17日)
上記の記事でPBEMは「和製英語の簡略形と見られる」と記しましたが、英国下院の2006年の委員会報告にPolicy-based Evidence Makingという表現が用いられており、筆者の認識不足であることが判明しました。この点訂正し読者に深くお詫びしたいと思います。なお同語がpejorative term(揶揄的・非難的言葉)であることは原義においても同様です。