ストレスチェックの実施を従業員50名以上の事業所に義務付ける改正労働安全衛生法が2015年12月に施行され、多くの企業は2016年中に最初のストレスチェックを行うことになった。これにより、メンタルヘルスを巡る問題を抱える人が発見される場合が増加し、治療を受ける人が増えるかもしれない。また、企業におけるメンタルヘルスへの取り組みがこれまで以上に積極的なものになるかもしれない。そうだとすれば、2016年は「メンタルヘルスケア元年」とも言うべき記念すべき年になる。
うつ病治療の現状
ストレスチェックが意味を持つためには、これによって発見された心の病気が高い確率で回復することが必要になる。それでは本当に回復するのか。以下では、うつ病を例にとって、その治療法のエビデンスを見てみよう。日本語版のウィキペディアを見ると、うつ病で共通する治療として、休養・心理療法・薬物療法・電気ショック療法が挙げられている(注1)。これらのうち、電気ショック療法以外について以下では触れる。
まず、薬物療法だが、青少年を対象にしたレビューでは、うつ病から回復する割合は67.8%となっている(注2)。また、薬を3回まで変えられるという選択の下でどれだけうつ病から回復できるのかという研究(STAR*D)によると、最初の薬で33%、2つ目で57%、3つ目で63%、4つ目で67%が回復する(注3)。薬を飲んでもうつ病から回復しない人がかなりいることになる。また、抗うつ薬は症状の重いうつ病ほど効果はあるが、元々の症状があまり重くない場合には効果が不明瞭になるそうである(注4)。
次に、心理療法だが、上記のレビューでは、心理療法でうつ病から回復する割合は53.7%となっている。心理療法にはさまざまなものがあるが、効果検証が十分に行われたものとして認知行動療法がある。ただし、こちらも万能ではない。まず、認知行動療法を行えるだけの訓練を受けたセラピストの数が日本では極めて少ない。このため、セラピストの関与を必要としないコンピュータを使ったオンライン型の認知行動療法への期待が高まっているが、脱落率が高かったり効果が一時的だったりするという限界があり(注5)、まだ満足の得られる水準になっていない。本を読んで認知行動療法を独習するという方法もあるが(注6)、私の調べた範囲では、日本ではこのような読書療法の効果検証をした研究を見つけられなかった。以上の事情に加えて、認知行動療法の効果が年を経るごとに低下しているという研究が最近でており、それによると、この治療法の初期の治療効果の高さはプラシボ効果による面があったと推測されている(注7)。
3つめの休養だが、私なりに調べたつもりだが、エビデンスらしきものを見つけられなかった。不思議なことに、英語版のウィキペディアでうつ病の治療法を見ると、休養は含まれていない(注8)。勤労者のうつ病は仕事のストレスに原因があることが多いだろうから、仕事を休めば一時的にはうつ症状が軽減するかもしれないが、多くの場合にはずっと仕事を休むわけにはいかないし、うつ病で仕事を休んだ人が職場に復帰するのはハードルが高いかもしれず、転職も難しいかもしれない。仮に、休養のうつ病への効果を検証した研究がまだないのであれば、就労への影響も含めた長期的な効果を検証する研究がランダム化比較試験(注9)などの信頼できる方法によって行われるべきだと思う。
新たな研究への期待
この数年間、メンタルヘルスについて調べ、また、何人かの専門家と意見交換を行う中で、私が感じたのは、この国が十分な研究費を投入してメンタルヘルスの問題に真剣に取り組んでいないのではないかという疑問である。医療研究はiPS細胞やがん治療などには陽の目が当たるものの、メンタルヘルスの研究はあまり重要視されていないように見える。私の誤解なのかもしれないが、もう少しメンタルヘルスの研究に資源が投入されてもいいように思う。
次に、メンタルヘルスの研究内容として、重点的な研究を期待する部分を挙げたい。突拍子もない話かもしれないが、私がメンタルヘルスの研究内容として行うことを最も期待している分野は、民間療法とか代替療法と呼ばれている分野である。具体的な例として、セドナメソッド(Sedona Method)、バイロン・ケイティのワーク(The Work of Byron Katie) 、EFT(Emotional Freedom Technique)というメソッドがある。セドナメソッドは簡単な質問によってネガティブな感情を手放す(解放する)テクニックである(注10)。バイロン・ケイティのワークは、認知行動療法に似ていて、心の苦しみの原因となっている思考を検証していくことによりネガティブな感情を軽減するメソッドである(注11)。EFTは、体のつぼをタッピングすることによってネガティブな感情を解放するテクニックである(注12)。これら3つのメソッドは精神科医や臨床心理士などの心の専門家の間ではあまり知られていないかもしれないが、Googleなどで検索すれば多数の情報と体験談がでてくる。精神医療や臨床心理学と関係ないところで普及が進んでいる。そんなの怪しいという批判を受けそうだが、実際に私も試してみたが、直感的には確かに効果がありそうだ。また、本を読んだりセミナーに参加したりするだけで習得できるので費用対効果が高い可能性がある。
私は、上記の3つのメソッドも含めて、メンタルヘルスケアのための代替療法的取り組みについてランダム化比較試験による効果検証研究が積極的に行われることを期待している。効果検証研究によってこれらのメソッドに効果があることが示されれば、心の問題を抱える多くの人々が救われることになる。逆に効果がないことが証明されてその事実が世間に広まれば、多くの人々が怪しげなものに時間とお金を使わなくてすむ。
これを読んだ人は、それならRIETIで効果検証研究を行えばいいではないかと思うかもしれないが、RIETI単独で行うことはほとんど不可能だ。心の問題への何らかの取り組みの効果を検証する研究を行うには、大学の医学部や心理学科などに設けられた倫理審査委員会の承認を得ることが必要だし、人の心という機微な問題を扱う以上、精神科医や臨床心理士などの心の専門家の主体的な関与が不可欠である。もちろん、私のような法学部卒業者でも下働きであればいくらでもするが、心の専門家が真剣に取り組んでくれないと物事が動かない。
今の状況には閉塞感があるが、もしかしたら少しずつ変化は出ているのかもしれない。たとえば、バイロン・ケイティのワークの日本語への翻訳を行ったのは精神科医の水島広子氏だし(注13)、聞くところでは、日本精神神経学会でセドナメソッドについて発表した精神科医の先生がいたそうである。EFTについては、イギリスのスタッフォードシャー大学(Staffordshire University)で研究が行われているそうである(注14)。日本国内でこうした積極的な動きが専門家からもっともっと出てきてほしい。そうすれば、2016年は本当の意味でのメンタルヘルスケア元年になる。