大規模な災害の直後、被災地は深刻な情報の空白に置かれる。道路が寸断され、通信が途絶えれば、現地に入るだけでは、どこで何が起きているのかを正確につかむことはできない。
令和8年熊本地震のあと、私の研究室は株式会社aiESGと共同で、被災地の状況を衛星観測と公的統計から推計する作業を続けてきた。最初に公表したのは、酷暑のなかで冷房を失う高齢者の分布と、その健康リスクである(九州大学プレスリリース)。同じ屋外の気温のもとで冷房が働かない場合、被災した高齢者の30日間の死亡負荷は5.34%上昇すると推計された。
その後、分析の対象を広げた。救急医療、消防、応急給水、地震のあとの土砂災害、避難所の収容力、そしてトイレと衛生である。扱う分野はばらばらだ。
しかし、出てきた答えの形は、どれも同じだった。
資源は、足りていた。届かなかっただけである。
道路の3%が止まると、2万人が「30分」を失う
県内にある約34万の道路区間を、1本ずつ評価した。道路の総延長のうち3%が通れなくなるだけで、22,381人が救急医療機関への「30分アクセス」を失う。
病院の数は減っていない。救急車も減っていない。減ったのは、目的地や手段そのものではなく、そこへ至る道である。
しかも影響は均等ではない。83.9%の区間は、単独で途絶されても、誰一人として30分の移動時間に影響を受けない。その一方で、最も重要な1区間が切れるだけで18,249人がアクセス圏外に出る。守るべき道は、思っているよりずっと少ない。
そして、偏る。影響を受ける人の39.3%が65歳以上だった。県全体の高齢化率は31.1%である。同じ災害が、高齢者には1.26倍の濃さで降りかかる。
消防でも同じ形が現れた。震災後も消防が10分以内で到達できる住民の割合は、熊本市の各区では83.5〜99.8%を保つ。ところが天草市では20.1%、上天草市で4.7%、水俣市では1.6%まで落ちる。この3市は、いずれも住民の4割以上が65歳以上である。
水も、避難所も、トイレも、同じだった
断水した地域では、給水拠点まで道路をたどって500m以内に住む被災者が10.0%にとどまった。給水車を増やしても、この距離は縮まらない。
地震後に降った雨の影響も確認した。緩んだ地盤に大雨が降るシナリオでは、1,107人が土砂災害で孤立し、その54%が65歳以上だった。
避難所も例外ではない。県内1,156カ所の指定避難所を評価したところ、徒歩15分以内に到達できるのは想定される避難需要の6割にとどまる。ところが自動車が使えれば99%に達する。
そこで、1カ所あたりの収容力を50人から100人と倍にしてみた。改善はみられたものの、0.1ポイントだった。代わりに、避難する人の半分が自動車を使えるようにすると、20.1ポイント改善した。避難所を決めるのは、広さではなく「たどり着けるか」である。
トイレに関しては、より明確だった。市全体の避難者数をまとめて割り算すれば、八代市に必要な仮設トイレは93基になる。ところが、避難所ごとに必要数を計算して合計すると112基になる。避難者数も算出基準も変えていない。それでも避難先が複数に分かれている、というだけで2割増える。
市全体の避難者数から算出した合計では足りていて、現場では足りない。数字がうそをついているのではない。数え方が、現場の形と合っていないのである。
「備えるほど損をする」を、やめる
この構造は、制度の形ともよく似ている。
自治体が事前に防災・減災の対策を打つと、費用のおよそ4割を自ら負担することになる。ところが被災したあとの復旧であれば、国の災害復旧事業と交付税措置により自己負担は2%弱にとどまる。備えるほど損をする。壊れてから直すほうが安い。真面目に取り組む自治体ほど不利になる仕組みが、長く放置されてきた。
だが今回の一連の推計が示したのは、事前にできることの中身が変わった、という事実である。
かつて「備え」といえば、物を増やすことだった。いまは違う。どの道路や施設が止まると、全体が機能しなくなるのか。それが、現地に入る前に、衛星と公的統計から把握できる。ここで挙げた数字は、いずれも計画のための推計であり、実地調査の結果ではない。それでも、限られた人と時間をどこから投じるかを決めるには十分である。
すべてを二重化する財源はない。だからこそ、要(かなめ)を絞る必要がある。守るべき道路は全体のごく一部である。避難所に配るべきは面積ではなく、そこへの移動手段である。トイレ数は市単位で集計せず、避難所ごとにカウントする。いずれも、予算を大きく増やさずに始められる。
求められているのは、予算を積み増すことだけではない。事前の投資が正当に報われる制度と、どこが要かを把握できるデータである。前者は制度設計の問題であり、後者はもう手元にある。
災害は繰り返される。次はいつ起きても不思議ではない。そのとき問われるのは、何を持っていたかではない。それが、誰に届いたかである。