1. はじめに
新型コロナウイルスの感染者が急増し、医療崩壊の懸念が指摘されている。新型コロナウイルスの蔓延を食い止めるため、ワクチン接種を加速化することの重要性が議論されている。
ワクチンの接種意欲をテーマとしたRIETIのディスカッション・ペーパーにおいては、高齢者以外の人々、女性、低学歴者、低所得者、預貯金額の少ない人々においてワクチン接種をためらう傾向が強かった。同様の傾向は多くの先行研究において見られるため、おそらくは方向性としては間違っていないと思われる。
このディスカッション・ペーパーはさまざまなマスメディアで取り上げられた。ただ、取り上げられたのは、若い人々がワクチンを接種しない傾向が強いことを示すグラフにほぼ集約されており、低学歴者・低所得者・預貯金額による違いはほとんど取り上げられなかった。
しかしながら、学歴、収入、資産額などは社会経済的地位を示す代表的な指標とされており、社会経済的地位の高低が健康格差をもたらすことは多くの研究によって示されており、いくつもの概説書が出版されている。ただ、私の手元にある概説書では、ワクチン接種と社会経済的地位との関係について触れられている記述を見つけられなかった。ところが、コロナ禍に際して行われた多くの研究は、ワクチン接種態度と社会経済的地位の明確な関係を示していることから、社会経済的地位が健康格差を生じさせる新たな経路が明らかにされたことになる。
2. 社会経済的地位が低いとなぜワクチン接種をためらうのか
社会経済的地位が低いと健康の水準が下がる原因については、いろいろと理論的な説明がなされているが、もともとデータによる発見が先行していることもあって、やや分かりにくいところがある。
さらに、ワクチン接種については、日本の場合にはワクチンを無料で接種できるので、ワクチン接種にお金がかかるために社会経済的地位の低い人々が接種しないという説明は難しい。一番ありそうな説明は、社会経済的状況が低い人々は健康増進に向けた行動をとらない傾向があり[1]、その中にはワクチン接種も含まれるというものだ。
もう1つ私が考えているのは、社会経済的地位が低い人々は、ワクチン接種を受けにくい固有の事情があることだ。社会経済的地位の低い人々は、非正規雇用や零細企業で働く人々や、自営業に携わる場合が多く、組織的にワクチン接種に対応できる大企業の正規職員のように簡単にワクチン接種を受けられないのかもしれない。とりわけ、ワクチンを接種した人々の多くが副反応を経験するという事情があるとこの問題は顕著で、非正規雇用や零細企業の従業員やブルーワーカーであれば、体を思いどおりに動かせなくなることを心配する、仕事を1日休むだけで収入に響く、といった事情があるのではないだろうか。
3. 社会経済的地位の低い人々にワクチンを接種してもらうことの重要性
社会経済的地位が低い人々がコロナに感染したり重症化したりする傾向が強いことがいくつかの研究で示されている[2, 3]。このことは、社会経済的地位が低い人々(特に重症化リスクが若年層より高い中高年層)が優先的にワクチンを接種する方が望ましいことを示唆する。ワクチン接種は重症化予防を通じて本人を守ることにとっても有意義だが、重症化した患者の急増に伴う医療逼迫を防ぐ効果があるため、社会経済的地位の低い人々のワクチン接種の促進は社会を守ることにもつながる(経済学における外部性)。
ところが、実際のワクチン接種においては、65才以上の高齢者を除けば、社会経済的地位の低い中高年層のワクチン接種を促進するという発想は当初はほとんどなかったようで、むしろ逆だったかもしれない。象徴的なのが「職域接種」であり、大企業を中心としてその組織力を利用してワクチン接種を円滑に進めることが目指された。明確なデータを持っていないが、大規模な組織のホワイトカラーやその家族を中心に接種が進められた可能性が高いのではないだろうか。ワクチン供給が十分にある場合は、あまり優先順位をつける必要はないのだが、実際には供給不足に陥ることとなったので、この方針には疑問がつくことになった(「職域接種」を含めた日本のワクチン接種の方針の問題点は小野昌弘氏の解説を参照されたい)。
4. アストラゼネカのワクチンを接種した中高年に謝礼を出す案
8月下旬から40歳以上を対象としたアストラゼネカ社のワクチン接種が開始される。この方針を私は正しいと思っているが、接種希望者が少ないという懸念があるようだ。そこで、少しタイミングを逸してしまったが、一定の期間を区切って、40歳以上65歳未満でアストラゼネカのワクチンを接種した人々は全て、国か地方公共団体が1万円程度の謝礼を払ってはどうだろうか(すでに接種した人々はさかのぼって支給する)。仮に1000万人が対象となるとすると、1000万人×1万円=1000億円の支出である。
社会経済的地位の高い人々の多くは職域接種ですでに接種を終えたり接種予定をすでに立てていることが想像され、アストラゼネカのワクチンの対象者は、社会経済的地位の低い中高年層(高齢者を除くとワクチン接種の必要性が最も高い人々)のウエイトが高くなると思われる。アストラゼネカのワクチンはファイザー・モデルナより安価とされ、効果も劣後すると指摘されている。小野昌弘氏の解説によれば効果が劣後するというのは真実とは言い切れないようだが、風評ベースでも少々問題のあるワクチンを接種してもらうのであれば、それに伴う補償のようなものがあってもいいのではないか。
仕事を休んだり仕事のパフォーマンスが落ちたりすることによる損失をこうした補償によってカバーできないだろうか。ワクチン接種は本人のためだけに行うのではなく、国や社会全体のためにも行うのだから、これにもっとも貢献しうる40歳以上の中高年が、アストラゼネカのワクチンを一定期間中に接種する場合には、謝礼を支払うことは合理的な根拠がある。
5. 終わりに
アストラゼネカのワクチンを接種した中高年にだけ謝礼を支払うというやり方にはばらまき批判とか、不公平という議論もありそうではある。何らかの予期しない悪影響もあるかもしれない。例えば、謝礼の議論が出てくることによって、ワクチン接種をかえって遅らせる人も出てくるかもしれない。
ただ、時期と対象年齢(40~65才未満)を限定して、さらにアストラゼネカのワクチンという限定を付す限りは、試す価値はあると思う。このような措置によって中高年のワクチン接種を加速化できれば、医療逼迫を緩和することに多少はつながるし、社会経済的地位の高い人々への優遇措置の感が拭えない「職域接種」とのバランスをとることも可能になる。