文理融合について

山口 一男
客員研究員

経済産業研究所の新たな中心課題に「EBPM(証拠に基づく政策立案)」と「文理融合」がある。筆者は前者のプロジェクトに主査として関わってきたが、後者には直接関わっていない。しかしこのコラムでは筆者なりの文理融合について述べたい。文理融合というと、例えば人々の潜在需要に敏感な製品開発というような産業の課題とか、あるいはAIによる問題解決が有効な社会問題は何かとかが話題になる。ただ文理融合というのは、これは「ゆとり教育」でもそうであったが、目的が良くても方法論が伴わないと、言葉だけに終わってしまう可能性がある。筆者の主たる専門は統計分析モデルの開発とその応用による社会現象の解明であり、これはある意味文理融合であるが、数学を学んで社会学者になったという特異な経歴の筆者の専門の話は、多くの人の参考にならないであろう。従ってより広い考えについて述べたい。

文理融合から飛躍するようだが作家の水村美苗氏の『日本語の亡びるとき』(2008)の話から始めたい。この本は言語には生まれ育ちからの話し言葉である「母語」、書き言葉で主に外の世界との交流と相互理解に使われる「普遍語」(昔は「漢文」であり現代では「英語」がそれにあたるが、筆者は「数式」もこれに該当すると考える)、そして国内で「母語」の文化を継承しながら、書き言葉でかつ「標準語」として国が発達させた「国語」の3つの言語があることと、その葛藤と変遷を描いたものである。また世界のグローバル化により「普遍語」の影響が強まる中、母語や国語である「日本語」特有の文化が失われていくさまに警鐘を鳴らしている。さて、もう1つ作家の作品だが、英訳が米国の権威ある全米図書賞を受けた、多和田葉子氏の『献灯使』(2016)の中に『動物たちのバベル』という物語がある(注1)。「バベル」は言うまでもなく、旧約聖書にある「バベルの塔」の話に依拠するが、この物語では動物たちは同じ言語で話しているのだが、おそらく各自が異なる文化や価値観を背景に話しているためか、まったく話が通じないさまが描かれている。そして、最後に皆の話を一番よく分かり伝えられる「翻訳者」であるリスがリーダーに選ばれる。

重要なのは「同じ言葉で話しながら言葉が通じない」という問題は、実は現代の専門学問の深化と関わっているという点だ。科学技術にせよ、社会科学にせよ、専門性が高まるにつれて、専門家間でのみ共通理解のある専門用語が増え、その専門用語を多用して仲間と対話する機会が多くなった。そして専門用語というのは大部分が「普遍語」なのである。言葉は英語と日本語で違っても、意味する内容は世界共通という意味だ。それは専門用語が専門家の間での意思疎通を正確かつ能率的に行うために発達した言葉だからだ。そしてその能率性と正確さが専門分野の学問の発展に寄与したのは疑いがない。だがいったんその能率性に慣れると、専門家は非専門家にそれを伝えるのが困難かつ苦痛になる。極端な例だが数学者に彼らの「普遍語」である数式を使わずに、研究の内容を説明することができるかというと、まず不可能である。同様に経済学者ならすぐ分かる「弾力性」や「代替性」などの言葉の正確な意味を、経済学を学ばなかった人に説明するのは非常に難しい。

だが現代社会の問題は、専門家が、他の分野の専門家や、非専門家と一緒に解決しなければならない問題が増えていることである。米国カリフォルニア大学サンフランシスコ校は医学部専科の有名大学だが、医者が患者に対し、専門語を使って病状や診断結果を説明するために、患者に不満が多いことを考え、「通訳」を採用することにした。医者が患者に説明する際に、医療用語を患者に分かりやすく言い換えて伝える専門家のことである。シリコンバレーのIT産業では、プロダクト・ディレクターという肩書の職が重要となった。技術開発部門、マーケティング部門、営業・販売部門のいずれともコミュニケーションが可能で、最終的に生産する新しい製品に関し決定権を持つ職務である。技術開発部門と有効に対話できるにはコンピュータ・サイエンスの知識が必要である、マーケティング部門との有効な対話には統計の理解力が必要だ。また営業・販売部門との有効な対話には、「現場の声」をくみ上げる能力も必要となる。これは一種の多言語・多文化の理解に匹敵する。日本の例を挙げたい。ソニーで初の女性役員(環境担当VP)となった高松和子氏は、製品の「取扱説明書」の専門家として、独自のキャリアを開いた。彼女が取扱説明書に携わる以前は、説明書は製品を開発した技術者たちによって書かれていたが、高松氏はその内容に技術用語が多いなど消費者にとって親切でないものであることを指摘し、消費者目線での取扱説明書を始めて作成したのである。取扱説明書を技術者が書く慣行については当時他社も同様で、ソニーのこの取扱説明書改革は当時ソニーの製品の販売を大きく伸ばしたといわれる。

以上の3つの例に共通することは、多様な専門家と非専門家の間に立って相互理解と信頼を生み出すことができる人を育成するのが、文理融合の意義の重要な要素であるということだ。では具体的手段は何かというと、筆者は教育、特にリベラルアーツ教育の改革だと考えている。米国では文理にかかわらず、現代人として大学での必修コースとして、多くの大学が(1)外国語、(2)文明論(civilization)、(3)統計、(4)コンピュータ・サイエンスを指定している。高校まででどれほど学んだかによりレベルも内容も多様なオプションがある。「文明論」というのは、社会思想の発達に重点を置いた歴史教育で、どのような歴史を経て例えば民主主義や、人権思想、合理主義などが文明とともに発展したかについて学ぶコースである。(1)と(2)が文系、(3)と(4)が理系のコースだが、これらの知識が大学教育を受けるすべての学生に共有されるべきという考えが明示され、それがいわば文理融合の土台となっている。

こういった具体的科目とは別に、学問を理系から文系に「数学・物理科学」「生命科学」「社会科学」「人文学」という群があると考えたとき、その共有部分は何かを考えることが重要だ。私見だが、それは「文字・記号による記述」「概念化」「分析」「批判的思考」「専門職倫理」などであると考えている。特に重要なのが「分析」で、それを例に取ると、分析自身の中にも「状況把握」「一般化と分類」「概念の機能的理解」「数量的把握」「因果関係」などさまざまな要素がある。具体例として、日本の国語教育では話の登場人物やエッセイの書き手の言葉を通した気持ちや感情の理解が1つの中心であるのに対し、米国の英語(米国の国語)教育は、分析が主であるという指摘がある。どういうことかを上記の水村美苗氏の『日本語の亡びるとき』を題材とする場合で考えてみよう。日本の国語教育なら、まず著者がこの本で何を訴えようとしたのか、また「日本語が亡びる」という表現をどんな気持ちで付けたのか、というようなことが主題となるだろう。それに対して分析的観点では、例えば「母語」と「国語」が異なるのはどのような状況か(状況把握)が考えられる。方言、移民者の話し言葉、などはすぐ思い付くだろう。では他の例は何か、そしてその理由はなぜかとか、「母語」「国語」「普遍語」の機能の違い(概念の機能的理解)は本の中でどのように説明されているか、を問うのも分析である。またその機能の理解の上で例えば数式や、専門技術用語は、どれに分類されるべきか、その理由は何か(一般化と分類)を問うことも可能だ。「母語」「国語」「普遍語」がそれぞれどれほど用いられているか(数量的把握)もできるかもしれない。では多和田葉子氏の『動物たちのバベル』を主題にした場合はどうか。それはまず「なぜ同じ言語なのに話が通じないのか(状況把握)」が問題になり、ついで同じ言葉を話しながら意思疎通ができない状況の他のどんな例があるか、またそれらの状況は類似しているか異なるか(一般化と分類)などに発展するだろう。コミュニケーション機能の低下の原因の一般議論にも結び付くかもしれない。ちなみに最近ではガバナンスにおける説明責任の倫理が政治家の間で共有されていないことが、国会を空転させている。

日本の国語教育と分析的国語教育の違いは、日本の国語教育が、作品をそれ自体1つの世界と見てそれを深く理解しようとすることにあるのに対し、分析的国語教育は、作品をより広い人文世界と社会の中で位置付け、学生に自主的に考えさせようとする点だ。特に日本の国語教育にある大意の理解や共感の強調は、重要ではあるが下手をすると皆が同じように考え、同じように感じる傾向を強化しかねず、その点多様性を損なうリスクを持つ。最近言葉から生じる無意識の偏見も問題になっている、性別で言えば「外科医」というと男性を、「フェミニスト」というと女性を思い浮かべるといった傾向である。古来リベラルアーツ教育は単なる知識と教養を深めることではなく、多様な自由な考えに触れる機会を持つことにより、慣習や偏見といった殻から人を自由にさせることにあった。分析的視点の重視に加えて、理系に共有の合理主義、客観主義、表現の形式化(普遍語化)はそういった「慣習・偏見からの自由」に寄与するところが多い。一方理系は、人間世界で関わる記号(言語)とそれが社会で持つ主観的意味や「文明の倫理」を含む文化には比較的無関心であった。だが現代社会では科学技術に関連する倫理である医療倫理、情報処理倫理、環境保護倫理、社会調査倫理などの社会的合意も重要になっている。そこに文理融合の1つの意義がある。また先に述べたように高度な専門語の発達は、従来の多言語というバベルの塔の状況とは違う形で、異なる専門家同士や専門家と非専門家に意思疎通を困難にするとともに信頼関係を損ねやすい状況を生み出しており、その社会的コスト軽減のためにも文理融合の役割がある。そういった文理融合の意義を実現するには、大学のリベラルアーツ教育改革を含み、有効な実現方法について考えながら社会改革を進めることが重要であろう。

脚注
  1. ^ 多和田氏は日本語とドイツ語で作品を書き、特定の国の「母語」や「国語」を超え、「普遍語」とも異なる、独自の「越境的」言語の創造に人間の精神の自由を見る作業を小説の世界で表現する作家であるが、その革新的意義については本コラムのテーマから外れるので省く。 また、『動物たちのバベル』には「ポスト3.11」の仮想日本を題材に多くの比喩的表現がある。「比喩の解釈」は人文学の重要な分析視点の一つであるが、科学と共有の分析視点ではないので、これも省いた。

2020年11月12日掲載