2020年4月7日の、安倍首相による緊急事態宣言の発令により、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックへの対応は、新たなステージに入った。わが国の感染症対策が、結果としてどのような結末をもたらすのか、疫学等の専門知識を持たない筆者には、到底、推測する術がないが、社会科学を学ぶ者として、1つの注意喚起を書き記してみたい。
現在の議論は、いかにして感染拡大を抑え込むか、という点に集中している。わが国は、まさに爆発的感染拡大の崖っぷちにあるのだから、これは当然だが、最大限の余力をもって、感染拡大収束後の事態も想定した議論も底流でなされなければならない、というのが本稿の趣旨である。
1918年パンデミック
今回のパンデミックを契機に言及されることも多かったが、1918年の春に北米と欧州で第一波の感染流行が発生したインフルエンザは、その後、1918年の秋に毒性を強めて全世界で致命的な第二波の流行を引き起こし、1919年はじめの冬には第三波まで発生し、その後収束した。これは人類史で記録に残された最古のインフルエンザ・パンデミックとされ、俗に「スペインかぜ(Spanish flu)」と呼ばれる (このウイルスはスペインで発生したものではなく、また現在のWHOのガイドラインによれば地名や人名などを感染症名には使えないことになっているが、歴史的慣習により、便宜的にこう呼ばれる)。
1918年パンデミックは、世界中で痛ましい惨禍をもたらした。推計によって差はあるが、全世界人口の四分の一が感染したとされ、死者は4〜5,000万人に達したとされる(日本での死者は約34万人とされる)。特徴としては、若年成人の死亡率が高く、死亡者の約半数が二十代と三十代の成人であり、特に妊婦の死亡率が高かったことであった(これらの病態は新型コロナウイルスと大きく異なることには、注意が必要である)。
1918年パンデミックの長期的影響に関する分析
1918年パンデミックは、約1年にかけて全世界を揺るがしたのであるが、この影響は、感染の収束で消え去ったとは考えられていない。特に、感染流行期に胎児であったコホートは、母体の感染を通して身体的、健康上の影響を受けるとともに(胎児が母体の中にいる期間にうける健康上の影響が、生後もなんらかの影響を与えることは、社会疫学では「胎児起源仮説(the fetal-origins hypothesis)」として知られている)、経済上のアウトカムにも影響を及ぼした可能性がある。このことを示して、その後、多くの議論を巻き起こしたのが、Almond (2006)である。Almond (2006)が着目したのは、米国において、1918年パンデミックが破壊的な被害を与えたのは(死者約50万人と推定される)、1918年の秋冬の短期間に集中していること、そして、感染の広がりが州ごとに異なっていたことであった。そこでAlmond (2006)は、1960年から80年までの10年ごとの米国国勢調査のデータを用いて、胎内でインフルエンザに暴露された子どもは、出生後も有意に長期的影響を受けており、特にパンデミックの前後に生まれたコホートと比較して、教育水準が低く、身体障害の発生率が高く、社会的・経済的地位が低いことを示した(前述のように、1918年パンデミックは、妊婦の被害が大きかったことを思い出されたい)。
Almond (2006)の分析は米国のデータを用いたものだか、1918年パンデミックに関する同様の研究は、スイス(Neelsen and Stratmann (2012))、ブラジル(Nelson (2010))、台湾(Lin and Liu (2014))のデータを用いた研究でも確認されており、また、1957年のアジア・インフルエンザ・パンデミックについて、英国のデータを用いた研究でも、同様の結果が示されている(Kelly (2011))。
さらには、胎内でインフルエンザウイルスに暴露した子どもへの影響だけでなく、家計内の資源配分に及ぼす影響も示されている。Parman (2015)は、1918年パンデミック時に、胎内の子ども以外に年上の兄弟がいた場合、その長子の方への資源配分が強化され、年上の兄弟の学業成績が有意に高まってる、すなわち、兄弟間の格差が広がっていたことを示している。
ただし、Almond (2006)には、有力な反論も存在する。Brown and Duncan (2018)は、Almond (2006)が仮定する1919年生まれと前後のコホートの間での互換可能性について疑念を示している。特に、インフルエンザに関する暴露があった集団は、そうでない集団に比べて社会経済的地位の低い家計であり、さらに、1919年生まれのコホートの父親は、当時、第一次世界大戦の最中で、全国的な徴兵が行われていた影響で、前後のコホートの父親よりも識字率が低く、低所得の職業に就き、社会経済的地位が低いなどの特徴があり、それらの特性をコントロールした後では、1919年生まれの人が成人期の社会経済アウトカムが前後のコホートと比較して悪いという証拠は見いだせないと示している。
さらに、これについて、Beach et.al. (2018)が、米国国勢調査に第二次世界大戦時の入隊記録と都市別のインフルエンザ記録をリンクさせたデータで、1919年生まれコホートの親の属性とインフルエンザへの暴露レベルをより厳密にコントロールしてうえで再検証しており、Beach et.al. (2018)は、やはりAlmond (2006)が示した胎児起源仮説を支持できると主張している。
新型コロナ・パンデミックの後には何が起こるのか?
再度、注意を促しておくと、新型コロナウイルスの病態は、インフルエンザウイルス(特に1918年パンデミックのウイルス)とは大きく異なっており、これらの分析結果がそのまま、新型コロナウイルス・パンデミックの収束後に当てはまるわけではない。
また、1918年と2020年という1世紀という時代の差は大きなものがある。特に、医学の発達は、社会経済的な脆弱性がウイルス暴露からの被害に直結する可能性を低めているし(インフルエンザウイルスの発見は1933年)、社会保障制度の整備状況も著しく異なる。さらには、新興国も含めて、多くの国における公衆衛生環境や、経済発展による栄養状態も改善が見られる。従って、胎児起源仮説が、今回も将来世代に影響を与えるかは定かではない。
しかし、細かに検証していけば、いくつかの共通項が見いだせるかもしれない。現段階では、新型コロナウイルスに感染した患者の詳細な属性等が明らかになっているわけではないが、この危機の最中でも、可能な限りに情報を蓄積し、過去の経験が政策対応のエビデンスとして生かせる可能性を高めるべきだろう。
また、胎児起源仮説に限らずとも、特定のコホートに影響が及ぶような事態は、すでに起きている。例えば、全国の小中学校等が一斉休校することにより、子どもたちの教育達成度に何らかの影響が生じていく可能性は高いだろう。他にも親世代の経済不安は、2020年度の大学受験者の選択に影響を及ぼすと予想される。
さらには、経済のサプライサイドのダメージや将来見通しの悪化の程度によっては、新卒者の就職活動や初職にも影響が及んでいくはずである。パンデミック由来のショックではないが、わが国でも、バブル景気崩壊が、いわゆる「就職氷河期世代」のうち、低学歴層の所得に恒常的な負の影響を与えたことが知られている(Genda et.al. (2010))。
このように、考え得る可能性を、データでひとつひとつ検証し、今回のパンデミックが、特定の集団や世代に不利な条件を生み出してしまうことを避けるための政策を立案していかねばならない。