イギリスのボリス・ジョンソン首相が、最高医療責任者(クリス・ホィッティ)と主任科学顧問(パトリック・ヴァランス)と共に、新型コロナウイルス感染症(以下では「新型感染症」)への対策についての記者会見を3月12日に行った。この対策は他国の対策と大きく異なっていることから「ギャンブル」とも呼ばれているが[1]、興味深いので紹介することにした。なお、日本語でも紹介されているものを見つけたので、これらも読んでいただくといいと思う[2, 3]。
イギリスのアプローチ
以下では記者会見を見ていくつかのポイントをまとめておいた。記者会見全体のトランスクリプトは見つけられなかったが、ジョンソン首相の冒頭の発言は首相官邸のHPに掲載されている。ガーディアンにサマリーが出ていたのでこちらも参考にした[4]。
- 多くの家庭で本来の死期よりも早く愛する人々を失うことになるだろう(many more families are going to lose loved ones before their time.)。
- 最も重要な課題(task)は、ピークの数週間に高齢者と最も脆弱な人々を守ることにある。
- イギリスはイタリアよりも新型感染症の進行スピードが約4週間遅れているが、いずれ大規模な感染者の発生が予想される。全員が感染しないようにすることはできないし、多くの人々が感染しないと免疫ができないので、誰もが感染しないようにすることは望ましいことではない。
- イギリスでは特定された感染者数は現時点で590人だが、実際の感染者数はこれよりもはるかに多く、5千人から1万人の間だと推測している。
- 目指すことは新型感染症を封じ込めることではなく、ピークを遅らせることとピークの高さを下げることによって苦難を最小化することにある。背景として、夏が近づくとNHS(National Health Service, 国民保健サービス)が忙しくなくなり、また、呼吸器疾患が一般的に減ることがある。
- 学校は閉鎖しない(今後変わる可能性あり)。閉鎖しても子供はどこかに集まるし、重症化する可能性の高い祖父母に会う機会が増えるとかえって問題が悪化する。
- 大規模イベントの禁止は効果が少ないので、禁止しない(今後変わる可能性あり)。大規模イベントでも家族や友人の小さな集まりでも同じ程度でうつる。
- アメリカが行おうとしている大陸ヨーロッパからの渡航制限には追従しない。やっても効果が乏しい。
- 新たに咳が続くようになるか熱がでたら、どんなに軽いものであっても、感染を広めないようにするために、7日間は家で自己隔離することが求められる。状態が劇的に悪化しない限りは111(注.111はNHSが運営する健康状態についての電話相談)を利用せずにできる限りインターネットで情報を得てほしい。このアドバイスを遵守するとピークの感染者数を2割減らす。7日としたのは症状が出てから2~3日が最も感染力があり、その後は急速に弱まって大部分の人々は7日目には感染力を持たないと思われるため。症状が軽い人でも自己隔離を求めるのは、症状が軽い人でも感染させるためである。
- 数週間後のいつかの時点で、おそらくは、家族の誰かに何らかの症状がでたら家族全員が2週間にわたって自己隔離することを求めることになるだろう。いずれ起きることとして今のうちにシグナルを出しておく。
- 家にとどまっている人々は検査を行う必要はない。検査能力の重点は症状がある入院患者に置かれる。検査をするかどうかは症状とその重さだけで決まる。
- 行動科学の知見によれば、感染を減らすための行動を最初は熱心に行っていてもそれを長く続けることは難しい。自粛行動を長期にわたって求めても、長く続けられない人々が肝心な時に守らなくなることを懸念している。長期的な対応を求めるのではなく、疫学的に見て最も効果的な時期に必要な対応をしてもらう必要がある。
- 手を洗って欲しい。
ピーク時期を巡る問題
イギリスのアプローチについて一番興味深いのは、ピーク時期についての考え方だ。イギリス政府は遅い春か夏をピークにすることを考えているようだ[4, 5]。記者会見で示された正規分布のグラフでもspring(春)、summer(夏)という言葉が書き込まれている。国営であるイギリスの医療(NHS)の負担や呼吸器疾患が最も少ない時期であることが念頭にあるようだ。
図1は日本の各月ごとの1日当たり死亡者数だが、総数を見てもらうとわかるが、死亡という出来事は冬にピークを迎えて夏に向かって減っていくというパターンがある。死亡者数は循環器疾患も呼吸器疾患も冬が多く春から夏にかけて減っていく。人間は暑さよりも寒さに弱いようで[6]、春が来て夏を迎えるにつれて病気への抵抗力は高まるようだ。肺炎についての香港の研究を見たところ、比較的暖かい香港でも肺炎の患者数は冬に多くて、気温が25度ぐらいで最も少なくなり、それ以上暑くなると増えるのだが、夏よりも冬の方が多い[7]。新型感染症自体の季節性についてはまだよくわかっていないが[8, 9]、医療全体としては、イギリス政府が考えているとおり、冬よりは春から夏の方が対応しやすいことが推測される。そうすると、春の終わりから夏にかけてピークを迎えてその後に感染が徐々に減っていくように誘導するイギリス政府の発想そのものは納得できるところがある。
イギリス政府のアプローチへの批判
イギリス政府の戦略を「集団免疫」戦略と呼ぶ人がいる[10]。コロナウイルスに多くの国民が感染して免疫を持つようになることは許容する一方で、感染のピークを下げるとともに感染速度は遅らせて、NHSの負荷を下げるとともに、ピーク時であっても必要な医療を受けられるようにするというものになっている。集団免疫という言葉は多義的なようだが、概ね、免疫を持った人々が全人口の多くを占めることにより免疫のない人々の感染リスクが減少することを指すことのようだ[11]。
このイギリス政府のアプローチは強い批判にさらされており、ギャンブルだという指摘さえある[1, 2, 10]。もっと強力な隔離政策をとるべきという要求書が300人を超える研究者から出されている[12]。この要求書では、「集団免疫」を目指すことは今は実行可能な選択肢ではなく、NHSの負担を増やして多くの人々の命を危険にさらすとし、強力な隔離対策をただちに行うことを求めている[12]。
おわりに
新型感染症をいわば中央突破しようというイギリス政府の戦略は、新型感染症を避けて通ろうとする多くの国々とは少なくとも発想としては対照的である。ただ、イギリス政府は対策の強化を迫られており、実際に講じられる対策においてはイギリスと他のヨーロッパ諸国の差はあまり大きくないかもしれない。
むしろ、イギリス政府の発想は東アジアの国々の方が学ぶところが多いかもしれない。
様々な規制と自粛を続けることによって新型感染症を避けることができることは、特に中国がこの2か月間に示しており、韓国や日本もある程度示していると思うが、免疫を有している人々が少ない脆弱な状態を維持していることでもあり、手を緩めれば感染が再び増えていくリスクを抱えている。また、長期にわたる規制と自粛が経済に及ぼす悪影響も考慮せざるを得ない。
新型感染症に対するイギリス政府の戦略はギャンブルの要素が確かにあると思う。ただ、様々な不確実性がある中で、イギリス政府の戦略は考え抜かれた上でのもののように私には思われ、また、最終的な責任を負うべき首相の明確なコミットメントの下で行われているので、参考にする価値はあると思う。
(3月19日追記)
このコラムを公表した後にイギリス政府は短期間のうちに新型感染症における対策を変えた。新しいコラムでそれについて触れたので、そちらも参考にしていただきたい。