犯罪と社会の安全について―川崎市の殺傷事件に関するウェブ論争から考えたこと

山口 一男
客員研究員

今回の犯罪を犯罪者の社会的背景と結び付けるのは誤りである

川崎市で51歳の男性が通学中の児童と付き添い者を刃物で襲い、児童1名と保護者1名の計2名を殺人、児童17名保護者1名計18名に傷害を与えた後自害した事件について、テレビの報道関係で「死にたいなら一人で死ぬべき」という趣旨の発言が続けて起こった。それに対して、社会福祉問題評論家の藤田孝典氏が「『死にたいなら一人で死ぬべき』という発言は控えるべき」と主張し、このような事件の背景にある人々の社会的孤立問題を重視すべきであり、「社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だ」と書いたことに対し賛否両論がネットで起こっている。

筆者は、藤田氏への批判者の主な趣旨(被害者とその家族の気持重視)とは異なり、実証的観点からみると、藤田氏の発言は軽率であったように思う。まず日本における年間殺人の50%以上は親族により、35%前後が親族でない面識者(知人、同僚、交際相手など)により、残りの10%強程度、被疑者数で年間100人をやや超える数が面識のない他者による殺人である。面識のない場合でも、何らかのいさかいが起こり憤怒の情に駆られて殺人に至った場合が多く、今回のように計画的で、かつ児童という弱者を標的にした殺人などほとんど皆無である。類似の事例は近年では2001年の大阪教育大学附属池田小学校事件と1997年の神戸連続児童殺傷事件のみといえる。このような極めてまれで残虐な事件に対し、その人間の社会的孤立が原因のように言うことは、他の同様な立場に置かれた人々も類似の事件を起こす可能性を示唆することになり、彼らへの偏見と差別を引き起こしかねない。

また最初に「死にたいなら一人で死ぬべき」と発言した人たちも、前提が誤っていた可能性が高い。彼らは殺人行為を自殺願望者が他人を巻き込んだ結果と見たようだが、今回の犯罪者の行為は殺人が目的で自殺は結果に過ぎなかった可能性が高い。自暴自棄の中で、何か大事件を引き起こそうというのがおそらく主な動機で、またその手段として弱者である児童を標的にした事実は、かつて動物も殺したこともあるという犯人の嗜虐性との関連を示唆する。神戸連続児童殺傷事件との類似はこの点で、今回の事件は自殺への巻き込み事件ではなく、凶悪な殺人事件として理解すべきと考える。日本の自殺者は年2万人を超えるが、まったくの他人を巻き込んだ例など皆無に近く、今回が例外なのである。ネットに散見される「自殺願望者が他人を傷つける可能性が高い」との想像や、「自分の命を軽く見る人間は他人の命も軽く見るだろう」というような憶測には実証的根拠がまったくなく自殺願望者への偏見である。戦争のように自分の命も他人の命も共に軽く見るようになる状況はあるが、平常において自殺願望者は殺人などまったく望まない。例外は近親者の場合で、親子心中のように親の自殺願望が子どもの殺人を生む場合があり、そういう場合には「死なずに生きてほしいが、どうしてもいう場合は、子どもは道連れにするな」という考えは当然妥当と考える。また自殺願望者が他の自殺願望者を募って集団自殺する事件は存在したが、死の強制ではなく、殺人とは区別すべきである。

藤田氏は社会が原因で今回の事件が起こったと暗黙に仮定しているようだが、そのような社会的原因の殺人ケースは極めてまれである。通常は本人のいう社会的原因すら口実にすぎない。有名な例に1968年の金嬉老事件がある。在日朝鮮人の彼が殺人を犯した後、在日朝鮮人差別を自分の行動の社会的背景として訴えた事件で、彼は無期懲役となり25年服役の後韓国に強制送還されたが、その後も韓国において犯罪を繰り返した。在日朝鮮人差別は口実で、犯罪性向の高い人間だったと思われる。だが彼が差別を訴え、それに同情する人もいて、その同情に反発する人々も生み、かえって一部の日本人に在日朝鮮人に対する偏見を増すことになった。

また、殺人発生率で日本は先進国の中で極めて低い値を達成している。特に平成15年以降、認知される殺人被疑者数が下がり続けるという極めて喜ばしい結果となっている。下図は法務総合研究所報告による「殺人検挙人数(男女別)と人口比の推移」である。この減少傾向は1つには人口の高齢化(殺人は20歳代から40歳代にかけて多い)のせいでもあるが、殺人の検挙率が高い(98%)ことが殺人を抑止する影響も考えられる。日本は殺人の起こりにくい、その点では誇るべき社会環境を持っているのである。

日本社会の変革が要求される犯罪や関連問題もある

だが、頻度が多く繰り返し起こる犯罪については、社会的背景に原因がある場合も多く、社会改革を含む広い予防措置は必要となる。特に日本社会では問題がありながら社会的環境のせいでそれが表面に現れないため「暗数」が多くなる犯罪やそれに類する社会問題が多くある。筆者が特に気にかかるのは子どものいじめと性犯罪である。かつて統計上は日本の学校ではいじめの数はほとんど0であった。つまり、問題はほとんどすべて隠蔽され、いじめはないこととされていたのである。いじめや性犯罪が暗数になりやすいのは、日本において、いじめや性犯罪の被害者がそれを訴えると、かえって彼らがバッシングを受けるような二次被害が起こりやすいという「抑圧的な社会構造」が主な理由である。また日本では欧米より管理者が管理責任を問われやすいため問題が起こったときに「事を荒立てることは良くない」などの理由で、組織が事実を隠蔽する傾向もある。いじめについては帰国子女や外国人労働者の子女も増える一方、日本が文化的多様性に理解がいまだ乏しく、「日本的でない考えや行動」に不寛容な国であり、時に教員までもそのような文化的理由のいじめに加担することも状況を悪化させている。女性の場合は性犯罪被害に加え、職場や就職活動に伴うセクハラの多発も近年明らかになってきた。一般に日本は子どもの加害行為の防止に積極性がなく、性犯罪やセクハラに対し理解のない国であると筆者は思う。またこれらの問題に「寛容ゼロ」の指針を持つことが多い米国の政治や組織に比べ、日本の政治や組織の姿勢が著しく消極的なことが、状況改善の障害となっている。

また問題の解決は上記の構造的要因の改革が第一だが、それだけでは対処は不十分である。一例だが、日本での女性への性犯罪については、暗数が多いためバイアスがある可能性も注意しなければならないが、認知件数では午後11時から午前2時までが「暴露人口(被害にあう可能性のある自転車や徒歩の女性)」あたりの被害発生率は深夜午前1時から4時までが特に高い。いじめにせよ性犯罪にせよリスクの高い時間帯、場所、状況を的確に把握し、警察や自治体や学校など関係組織がより有効に対処することが併せて重要となる。

繰り返しになるが、まったくの他者への殺人、それも組織犯罪の関係しない個人による殺人の原因の一端を社会的背景に求めることは、たまたま殺人者と同様の社会的環境に置かれた人々への社会的偏見や差別をかえって生み出しかねない。引きこもりや社会的孤立は望ましくなく、社会的包摂は必要であり何らかの政治的対策が必要であることは間違いない。だが今回のような面識のない他者への個人による殺人事件とその個人の社会的背景との結び付きに、実証的根拠はまったくない。憶測による感情的対応は何の解決も生み出さないばかりか、社会的亀裂や他者への不信を高めると筆者は考える。一般市民はともかく、知識人、政治家、マスコミ関係者はこの点、根拠のない論や、先入観で語ることのないよう、厳しく自戒すべきであろう。

2019年6月6日掲載

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