期待形成と社会改革:少子化対策、男女共同参画、雇用制度改革へ意味すること

山口 一男
客員研究員

今年5月7日のBOOKasahi.com のインタビューで岩井克人氏が「アベノミクス」に関連して以下のように述べたと報告されている。

『期待』は社会の原動力となる

「資本主義とは、お金があるがアイデアはない人が、アイデアはあるがお金がない人にお金を貸すことによって、アイデアを現実化していくシステムです。デフレの時は、お金を持っているだけで得する。人々はお金それ自体に投機し、貸し渋りが起こった。インフレの期待は、人々をお金それ自体への投機から、アイデアに対する投機、さらにはモノに対する投資に向かわせるのです」

「そういう意味で『期待』によって、お金がお金になるだけではなく、経済そのものに大きな影響を与える。経済政策を巡って『期待だけで実体が伴っていない』と言われますが、貨幣を伴う経済にとって、期待とは本質そのものとすら言えます」

岩井氏ならではの重要な示唆に富んだ発言である。彼の描く資本主義はシリコンバレーのIT産業では日々の現実だ。一方シカゴにいるとミクロ経済的発想からマクロ経済・社会の問題への発言を聞くことに事欠かない。「期待」にしてもルーカス流の合理的期待論から、期待形成が政策介入を無にする働きをするという文脈で語られる。しかし、岩井氏の議論は、不確定なマクロな経済状況での貨幣価値の期待が特定の投機行為のインセンティブを高め社会変化の原因になるという点を指摘している。期待形成が個人の得る客観的情報の結果に留まらず社会的伝播性を持つとき、それは社会変化の原動力となる。

このような人々の期待形成の影響はデフレやインフレの期待の影響にとどまらない。筆者は先日政府の少子化対策関係の専門委員会に呼ばれ報告した。当然持論であるワークライフバランスの達成できる社会の重要性について分析結果を基に訴えたのだが、この委員会は非公開なので名前は伏せるが、委員の1人が「ワークライフバランスは少子化対策にとって重要でない」と発言したので驚いた。その委員によるとわが国の少子化の原因の「8割近くが晩婚化・非婚化によるもの」で、残りが結婚後の出生率の低下により、かりに後者の半分がワークライフバランスの欠如によるものとしても「その影響は10%程度」というものであった。この意見を聞いたときは、「ここがおかしい!」とは思い、その後確かめて「やはり」と思ったことがある。まず「おかしい」のは、その委員がワークライフバランスの状況の影響は結婚後に生じると暗黙に決めつけていた点である。より一般的には晩婚化は少子化のいわゆる内生変数(少子化の原因により同時に生じた可能性が高い現象)で独立の原因とはいい難い。特に筆者には晩婚化・非婚化はワークライフバランスの状況と無関係とは言えないという確信があった。他の委員にも彼の発言に「結婚すると仕事と育児の両立が難しいので、結婚に二の足を踏む女性もいる」と重要な点を指摘してくださった方もいたのだが、当日はより一般的な実証的反証を提示できず、そういった場合の学者の常で強い反論は控えた。本稿はその補足の意味もある。

晩婚化・非婚化は、結婚後の育児と仕事の両立度の低さと関係している

ここで重要なのは、岩井氏の意見同様、期待形成の影響である。筆者は以前女性の労働力参加率の変化と出生率の変化の関係についてOECD諸国を対象に分析したが、そのとき用いた特殊合計初婚率(Total First Marriage Rate)の時代変化と筆者がそこで用いたワークライフバランス指標(総合指標とその2大要素である「仕事と育児の両立度」「働き方の柔軟性による両立度」)との関係を見てみた。結果は以下の表に見られるように、平均的には切片に見られるように初婚率は下がりつつあるが(晩婚化・非婚化が進んできたが)、ワークライフバランスの達成度、特に育児休業やその所得補填率、保育所・託児所の充実といった「仕事と育児の両立度」の高い国は晩婚化・非婚化傾向が有意に小さいという結果が得られた。変化率の分析では国々の観察されない異質性の影響は除いているが、見かけ上の関係を生み出しうる他の変化要因の影響を排除したより厳密な分析が必要であろう。しかし、ちなみに「仕事と育児と両立度」の高いOECD諸国とは高い順にデンマーク、スウェーデン、フィンランドの北欧3カ国なのだが、1980―2002年の約20年の間に多くの国は晩婚化を経験したのに、デンマークはこの間例外的に初婚率がむしろ増加し、つまり早婚化が起こり、スウェーデンとフィンランドも晩婚化・非婚化傾向は比較的小さかったのである。単なる見かけの関係でない可能性は高い。「育児と仕事の両立度」が晩婚化の進展に歯止めとなるのなら、結婚すればどのような状況に置かれるかという女性の期待形成の影響抜きには因果関係は考えられない。わが国では6割以上の女性が育児退職し、未婚女性はそれを見て結婚後の生活を想像する。晩婚化がワークライフバランスと無関係という前提は誤った政策対策を生むと考えられる。

表1:1980―2002年の初婚率変化率の分析
表1:1980―2002年の初婚率変化率の分析

必要なのは雇用者に新たな期待形成を生む政策ビジョン

筆者はわが国の男女共同参画の遅れについても、「女性はいずれ離職するから」という企業の先入観が、女性への統計的差別を通じて、結果として女性の高い離職率を生み、予言の自己成就となるということを繰り返し唱えてきた。この期待が上記のワークライフバランスと晩婚化との関係と異なるのは、「期待」は女性が自分の将来についてではなく、企業という他者が押し付けるものであり、それににもかかわらず、それが「期待どおり」の実態を生み出すという点であった。

現在わが国では、雇用制度改革の一環として整理解雇要件の緩和が議題に上がっている。一般論としては、雇用の流動化を促進することに筆者は賛成である。しかし、今までの正社員を特定の職務に限定しない従来型と限定するジョブ型に分ける、あるいは「限定社員」制度を設ける、などと聞くとき、本来雇用形態に関わらず機会を平等に開き多くの人材の活用の可能性を高めるのが望ましい社会のあり方とすると、何か重要な点が見落とされていると思える。それは「失業率の増加を見越したセーフティーネットの充実」というような重要ではあるが、従来言われてきたことではない。見落とされているのは、制度改革は多様な雇用者にどのような新たな期待形成を生み、またその結果社会をどう変えようとするのか、に関するビジョンである。企業による人材投資の主な対象とならない雇用者の労働生産性は雇用者自身の自己投資への意欲に大きく依存する。そしてその意欲は自己投資をする(新たな知識・技術を自ら身につける、キャリアの発展のために現在の仕事の質の向上に努める)ことに対して、たとえ不確定性があっても、将来見返りがあるという期待を形成できるか否かにかかっている。もし今後も日本企業が従来型の長期雇用・長時間就業の正社員を核として、他の雇用者を縁辺化していくなら、それは雇用における一種の身分制度の再編にすぎず、縁辺化された多様な雇用者の将来への希望を奪うだけである。雇用制度改革は、何よりもまず、従来型の正社員でなくとも多様な形態で働く多くの雇用者に「努力や自己投資は報われる」という期待の形成を生む社会にわが国を変えていくにはどうしたらよいのか、という観点から見直されるべきである、と筆者は考える。

2013年5月21日

2013年5月21日掲載