特別コラム:東日本大震災ー経済復興に向けた課題と政策

成長戦略から復興ビジョンへ

宮川 努
ファカルティフェロー

最初に、東日本大震災でお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りいたします。そして被災されたすべての方々に対して心よりお見舞いを申し上げるとともに、今なお復旧に向けて尽力されているすべての方々へ心から感謝いたします。

今回の大震災は、これまでバブル崩壊後の日本経済の低迷要因を研究し、新たな成長軌道への対策を模索してきた筆者にとって衝撃的な事件であった。この大災害によって、ここ十数年の日本経済に関する議論は大幅な修正を余儀なくされる。一方でこの大震災によって、これまでの日本経済が抱えていた問題点が浮き彫りになった側面もある。ここでは、震災後の復興過程の中で、これまでの議論の何を引き継ぎ、どの部分をあらためて考え直さなければいけないかを考えてみたい。

成長戦略の見直し

今回の大震災で明確なことは、震災前の延長で日本経済を考えることができないということである。すなわち懸命の復旧作業によって国内の民間設備や社会資本が戻ったとしても、経済全体の活動が震災前の経路に復する保証がなくなったのである。今回の震災のような歴史的な事件によって、経済が歩む経路がそれまでとは異なる経路を辿ることを、経済学では、自然科学の用語を借りてヒステレシス(履歴効果)と呼んでいる。

今回この履歴効果は、3つの分野で生じると考えられる。1つ目は東北地方を中心とした自動車部品、電子部品への影響である。こうした分野に対する需要は、今後日本から中国、韓国、台湾などの競合国へとシフトし、その需要は東北地方の生産設備が回復しても戻らない可能性がある。

1つ目の問題は、2つ目の日本の技術力に対する信頼性の低下によって、増幅される懸念がある。今回の福島原子力発電所の事故は、今なお多くの方々が、危険を顧みず事故の収束作業に尽力されてはいるものの、これまで日本産業が拠り所としてきた技術力に厳しい影響を与えると予想される。

私自身は、日本の個々の産業技術については、十分高い水準にあると思っているが、それをまとめあげるシステムや組織、人材については震災前から疑問視していた。昨年の新成長戦略では、原子力発電所や高速鉄道などのインフラ設備を海外に売り込む事が目標の1つとしてあげられていた。こうしたインフラ設備には、個々の技術水準だけでなく、それをまとめあげる能力が問われるが、今回の事故により、こうした巨大プロジェクトを管理する能力に対する信頼性の回復には相当の時間を要すると考えられる。

3つ目は、拡散している放射性物質に対する海外におけるマイナスの評価である。この評価は、風評被害の要素が大きいが、完全に払しょくするには時間がかかるだろう。このため、これも新成長戦略の中で重要産業と位置付けられている観光産業に与える影響は甚大である。それだけではなく、日本が積極的に誘致しようとしていた高度な海外人材も、日本を選択しなくなる可能性がある。

復興ビジョンの策定を

第2次世界大戦以来の国難に際して、私が思い出すのは、下村治博士が果たされた役割である。下村博士が、日本人の力量を信じ、戦後復興から高度成長期に至るまでの指針となった「所得倍増計画」の発案者となったことはよく知られている。これまでの成長戦略に代っていま必要なのは、こうした「所得倍増計画」のようなビジョンであろう。一方、下村博士は石油危機を契機に一転して「ゼロ成長論」を展開された。下村博士の転換の真意は、よくわからないが、竹内宏氏の回顧録「エコノミスト達の栄光と挫折」(東洋経済新報社、2008年)を読むと、博士は高度成長期の終わりころには、すでに日本経済は成熟期に入っており、エネルギー制約が日本の成長を制約すると考えておられたようである。現在の時点で、復興ビジョンを策定するとすれば、日本人の底力を信じつつも、石油危機時の制約条件と先に述べた履歴効果を考慮する必要があるだろう。

決め手はイノベーション

戦後復興を果たし、石油危機も克服した日本だが、中国、韓国という、似たような産業構造を有する競合相手が成長している現在、危機からの回復はより厳しいものとなるだろう。先ほどの履歴効果からも明らかなように、今回の震災によって、これまで日本に優位性があり、今後も成長が期待された産業でも難しい局面に立たされている。ここは覚悟を決めて、IT革命のような本当の意味でのイノベーションを生み出す土壌を構築していく必要がある。

IT革命のようなイノベーションがどうして生まれたかについては、経済産業研究所でも数多くの分析がなされてきた。2007年度から実施されてきた我々の研究では、単に研究開発費を積み増すだけでなく、人材育成や企業組織などより広範な環境(これらを我々は無形資産として総称している)が、最近のイノベーションに大きな影響を与えると考えている。日本経済が、IT革命のような最近のイノベーションに遅れをとり、長期にわたる低迷を続けてきたことは、こうした日本型の人材育成や企業組織などに限界があることを示している。そもそもイノベーションというのは、「想定外」と考えられてきたことを「想定内」として実現することを指している。バブル崩壊後、多くの場面で「想定外」という言葉が発せられてきたが、このこと自体、日本社会が前例踏襲型に陥り、イノベーションに積極的でなかったことを象徴している。しかしもはやそうした点を議論している余地はない。この震災を機に、大型のイノベーションを生み出すための企業組織の改編、人材育成方法や雇用制度の見直し、技術という無形資産を評価し、それに資金を供給する金融制度の仕組みに対して積極的な取り組みをしていかなくてはならないだろう。

震災前の日本人に大きな力を与えてくれたイベントに、サッカー日本代表のアジア大会優勝がある。しかしこの優勝も一朝一夕に達成されたわけではない。1990年代から地域に根差したクラブチームを作り、独自の育成システムによって個性的な選手を作り上げ、そして諸外国のチームとの競争によって戦術を学んだ末に勝ち取った成果である。その1つ1つが、従来の日本のプロスポーツの枠組からみれば革新的な試みであることを考えれば、経済の分野でもできない筈はない。真の復興に必要なのは、次代のイノベーションを生み出すためのグランドデザインである。

2011年4月8日

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2011年4月8日掲載