なぜ貧困解消が世界にとって重要か?-南アジアの事例から(I)

西水 美恵子
コンサルティングフェロー

今日、貧困削減は各国首脳が全員異議なく賛同できる数少ない課題のひとつのようだ。2000年9月、国際連合加盟国191カ国は「国連ミレニアム宣言(UN Millennium Declaration)」という国連総会決議を採択した。本決議を以って、国連加盟各国は一連の社会経済開発目標とその達成期限を設定し、これを達成することを誓った。一般的に「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals)」と称されるこのリストの一番上に掲げられているのは、「2015年までに1日1ドル未満で生活する人口の割合を半減するには…」という文言で始まる具体的な貧困削減目標である。

日本はこの国際決議の調印国であり、相当規模の政府開発援助(ODA)の供与国でもある。しかし、一般の日本国民のほとんどは、ミレニアム開発目標の存在すら知らないようである。さらに、国内経済が低迷するなか、ODAに対する国民の支持すらも弱まっている。ODAに対する個人の見解がいかなるものであれ、なぜ我々が世界の他の国々における貧困について心配しなければならないのか、日本人全体の問題として戦略的に理解すべきときが来ている。

意識の外の「アジア」

開発問題に関する世界レベルの政策協議や貧困撲滅キャンペーンでは、もっぱらサブサハラアフリカがその中心課題となっているが、これは、欧米各国の政治的・経済的利害に基づく欧米中心主義の表われである。その一方であまりにも見落とされ過ぎているのが、世界の貧困のほとんどはアジア、つまり、日本のすぐ側にあるという事実である。

将来、たとえば約50年後の世界を考えるとき、アジアが世界経済の重心になるであろうことは衆目の一致するところである。この将来像に示される「アジア」は、北半球から南半球まで、北は中国、日本、間に東南アジア、南アジア諸国をはさんで、南は「ダウンアンダー」と称されるオーストラリア、ニュージーランドまで、細長く伸びた一切れのリンゴのようなかたちをしている。このアジアの経済の原動力となるのは、世界で最も人口の多い2カ国、50年先には第1位となっているであろうインドと第2位の中国である。

この将来像は、日本の一般国民、政治家、経済界首脳が思い描くアジアとは異なる。南アジアに対する日本の関心は特に低く、ほとんどその視野に入っていない。しかし、世界の貧困が集中しているのは、他ならぬその南アジアなのである。世界の貧困人口の約半数が南アジアに生まれ育ち、5億人もの人々が1日1ドル未満で生活している。

もちろん、アフリカの貧困層の窮状について過小評価されることがあってはならない。しかし、世界の貧困問題に関する議題がアフリカに集中しているという現在の偏った状況は是正されるべきである。日本はアジアの貧困についてもっと真剣に考え始めなければならない。特に南アジアについてそうすべきである。

南アジアについて

南アジアは、インダス・ガンジス川流域を中心に古代文明が栄えた地として、そして、仏教をはじめとする世界の主要宗教が発祥した地として知られている。今日、南アジアには15億人が暮らし、世界で最も急成長している国々のいくつかがここに存在する。

「南アジア」とは、通常、南アジア地域協力連合(SAARC)を構成する7カ国のことを指す。SAARCは、1985年に設立されてから今日まで、自由貿易協定締結に向けた準備を含むさまざまな地域技術協力に活発に取組んできた。先ごろインド・パキスタン両国関係が改善しつつあるが、このこともまた、SAARCにとってその活動をさらに推進する政治的な追い風となっている。

南アジア諸国のうち、バングラディシュ、インド、パキスタンおよびスリランカの4カ国は、かつて英領インドの一部としてイギリスの統治下にあった。これらの国々はいずれも、イギリスの行政制度、法的理念・慣習、商制度という統治時代の遺産を受け継ぐとともに、民族自決をめざした長年の闘争を経て独立を勝ち取ったという大きなプライドを共有している。残りの3カ国、ブータン、モルディブ、ネパールはいずれも、近代史上、一度も植民地化されたことがない。これらの国々も、それぞれ恵まれた地理的条件に助けられながら、国民とその指導者の勇気と才覚によって外国勢力の攻勢を水際で食い止めたという、先の4カ国に負けないくらい強いプライドを持っている。

このように、南アジアの人々の最も知られざる特徴は、すさまじいほど強烈な自主独立の精神を持っていることである。もう1つの特性は、その多民族性である。シルクロード等、地上および海上の古代交易ルートの経由地であったこの地域では、ヨーロッパから中近東、東アジアまでさまざまな民族が入り混じって暮らしてきたのだ。

貧困をもたらす根本的な原因は悪い統治である

世界の貧困人口の半数が南アジアに居住しているが、その大部分はこの地域で最も人口の多い3カ国、具体的には、バングラディシュ(2005年の人口1億5000万)、インド(同11億)、パキスタン(同1億6100万)に集中している。しかし、貧困そのものの大きさ故に、貧困問題が日本と日本国民にとって戦略的重要課題となっているわけではない。

南アジアの多くの地域においては、貧困は何世代にもわたる抑圧と同義であり、おそらく他のどの地域に比べてもその傾向が強い(南アジアの国でこうした傾向及び以下に述べる特徴の見られないのは、ブータンとおそらくモルディブの2ヶ国のみである)。ときとして抑圧は、たとえばカースト、人種、宗教に基づく差別がそうであるように、社会的な性格を持つ。こうした社会的抑圧は女性に対して過酷であり、家庭生活や子供の幸せを左右するさまざまな世代間関係に対する影響をもたらしてきた。さらに、地主が君臨する政治構造、あるいは、汚職だらけの役人と不正な選挙によってもたらされる政治的な抑圧もある。

社会的なものであろうと政治的なものであろうと、貧困をもたらす根本的な原因は、あらゆる種類の悪い統治(bad governance)とこれに伴う職権乱用である。貧しい人々もそう考えている。

悪い統治の実態

悪い統治が具体的な問題として表面化したものとして、特に注目すべきものが2つある。貧しい人々の助けとなる代わりに、権力ある者たちをさらに豊かにするための仕掛けと化した公的保健制度と教育制度である。こうした制度における統治の問題は、南アジアの多くの国々において、貧しい人々の最悪の恐怖と唯一の希望を食い物にし、貧困が「戦略的リスク」となる事態を招いている(「選択」2005年1月号参照)。

男女を問わず貧しい大人は誰しも、何ものにも増して大きな1つの不安を抱えている。病に倒れ、貧しく粗末な生活すら立ち行かなくなるかも知れないという不安である。日々の畑仕事、あるいは、水汲みや薪、飼料を集めるのに費やす時間(1日平均6~8時間)を考えると、彼らは病に伏している余裕などない(「選択」2005年4月号参照)。貧しい家庭の稼ぎ手にとって、病に倒れることは人間としての基本的尊厳を失うこと、つまり、貧困生活から極貧状態に陥ってしまうことを意味する。

債務不履行による債務労働(現代における奴隷制度)、闇手術による臓器(腎臓、眼球)の売却、売春のための子供の売買、物乞い、犯罪、ときには餓死さえも、彼らにとってはほんの些細な不幸な出来事によって起こりうる紙一重の現実なのである。にもかかわらず、南アジアの多くの国々における公的保健制度は、こうした貧しい人々に救いの手を差し伸べるよりも、官僚や政治家のみならず看護婦や医師までも含む権力者たちをさらに富ませる仕組みになっている例が多い。こうした悪い統治によってもたらされる非道は、たとえば、以下のようなものである。

  • 病院・診療所の入札および建設における不正(リベート、収賄)
  • 医療器具、医療車両、医薬、その他の医療用品の調達における不正(リベート、収賄)
  • 公的医療施設の私的流用(農村部の診療所を穀物倉庫として使用する等)
  • 公的に調達された医薬品の横領及び売却
  • 違法な臓器売却(輸出を含む)
  • 「幽霊医者」(公的医療機関から給与を受け取っているにもかかわらず実際にはその機関で働かず、別の場所で個人開業している医者)
  • 無断欠勤(農村部の医療機関から都市部の医療機関に転任するために政治家に賄賂を贈る医者)

貧しい人々も、裕福な人々と同じ希望や願望を抱いている。貧しい大人たちは誰しも、ある1つの切なる願いのために苦難を耐え忍んでいる。自分たちと同じ苦労をしなくていいように、子供たちに教育を受けさせたいという願いである。

しかし、南アジアの多くの国々では、公教育制度もまた、貧しい人々のたった1つの願いを叶えるより、富める者をさらに富ませる仕組みになっていることが多い(「選択」2005年5月号6月号参照)。公教育における悪い統治の事例として以下のものが挙げられる。

  • 学校の入札および建設における不正(リベート、収賄)
  • 教科書、学校用家具、学校給食、その他の教育用備品の調達における不正(リベート、収賄)
  • 公立学校施設の私的流用(小学校の校舎を住居または政治活動拠点として使用する等)
  • 教科書印刷・配布における組織的な贈収賄
  • 「幽霊教師」(公立学校の教員として給与を受け取っているにもかかわらず実際には教えていない、主に好条件の年金を受け取る目的で教員資格のない者が教員ポストを買い取る等)
  • 無断欠勤(農村部の学校から都市部の学校に転任するために政治家に賄賂を贈る教師)

貧困は「戦略的リスク」である

以上、悪い統治がどのような手段で貧しい人々を直撃しているか、その代表事例を紹介した。公的保健制度がきちんと機能し、利用することができたら、基本的な人間の安全保障という大きな安心感をもたらすことができる。そして、貧しい家庭の親も子供も満足できるような無償の国民教育が行われれば、より良い未来への希望という大きな喜びを彼等に与えることができる。貧困を経験したことのない者にはなかなか理解できないが、公的保健制度や公教育がもたらす安心感と希望は、これまでずっとこうした「贅沢」とは無縁だった人々の暮らしに大きな幸福感を与えることができるのである。

その安心感や希望が職権乱用によって踏みにじられていること、そして、多くの場合において貧しい人々の声を政治の場で代弁すべき立場にある者が職権乱用の張本人であることは、南アジアの貧しい人々の知る事実である。保健や教育における悪い統治が問題となっている国々においては、これはもはや偶発的な事件ではない。長年にわたり組織的な不正が行われ、何百万人もの貧しい人々を苦しめ、その裏側で、さまざまな不正行為に絡む金銭の額はますます高くなっている(ある国では、教育担当大臣が交代するたび教科書の値段が1円相当額引上げられることで知られているが、これは選挙活動費用を賄って余りある額である)。いくつかの国々では政党に対する資金提供が日常的に行われるまでに不正が組織化しており、犯罪組織が関係している場合すらある。

このように、悪い統治が貧しい人々に与える心理的な影響、彼等の不満や怒りは、いかに誇張しても誇張しすぎることはない。すさまじいほど強烈な自主独立の精神を持つ南アジアの貧しい人々についてはなおさらである。

「開発」の結果、南アジア諸国では、人口の若年化(その多くは失業者)が進み、持てる者と持たざる者の格差が広がり、(テレビやその他の通信手段により)情報の入手が容易くなった。

こうした要因が重なり合うことによって、貧しい人々の不満と怒りはますます高められる傾向にある。彼等は、罠にはめられ、取り残され、二流市民の烙印を押されたかのような屈辱感と現状を変えることのできない無力感に苛まれているのである。

何世代にもわたり蔓延し、放置されてきたこの状況が政治的・宗教的過激主義者を生み出す絶好の温床となった。こうして貧困は「戦略的リスク」となった。そして、そのリスクとは国家が財政的又は政治的に混乱するかもしれないリスクなのである。だからこそ、南アジアの思慮深い指導者たちは貧困削減に戦略的に取組んでいる。そして、これがまさしく、全世界が貧困を心配しなければならない理由なのである。国際的なテロ組織を通してなのか、より良い生活を求めて国境を越える移民を通してなのかはさておき、いかなる国の安全保障も一国のみで確保しうるものではなく、他の国々の運命と密接に絡み合っている。9月11日に起こったことは、この事実を世界中の人々に思い知らせたのである。

次号以降、南アジア諸国が抱える国家レベルでの戦略的なリスクの分析やODAの姿勢等について、近日公開予定の私の連載コンテンツの中で具体的に論じていきたい。

本コラムの原文を読む(英語)

2005年6月14日

2005年6月14日掲載

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