輸出主導産業の海外移転と日本窮乏化の可能性

深尾 京司
ファカルティフェロー

標準的な国際経済学では、対外直接投資によって企業が得る利益は国内で失われる雇用者所得よりも大きく、投資母国は得をすると教えている。著者もこれまでこのような主張をしてきた。しかし悪条件が重なれば、投資母国が損をすることもありうる。電機産業のような日本を代表する輸出産業が、中国をはじめとする東アジア諸国に輸出拠点を急速に移転している最近の状況は、残念ながらこれらの悪条件に符合しているようにも思われる。以下ではこの問題を考えてみたい。

投資母国の利益:標準的な教科書の教え

製造業生産の海外移転は、企業の持つ技術知識ストックを始めとして、経営資源の投入場所が国内から海外に移動することを意味する。生産要素の国際移動に関する経済学が教えるように、経営資源という生産要素の海外移動は、国際移動できない生産要素(労働・土地)に対する報酬を低下させ、また経営資源以外の国際移動できる生産要素(資本等)の海外流出を引き起こす。海外移転により、経営資源の報酬(企業の利益)は高まる。自国が「小国」(自国の経済活動の変化によって国際価格が影響を受けないことを意味する)、完全競争、産業集積の利益なし等、一定の条件が満たされれば、経営資源の報酬が拡大することによるプラスの効果は実質賃金の減少によるマイナス効果よりも大きく、投資母国の経済厚生は増加する。

投資母国の経済厚生拡大のメカニズムを、できるだけ簡単な数値例で直観的に説明してみよう。仮に年30兆円の付加価値を生み出しているある機械産業が中国へ移転されたとしよう。この産業では従来、400万人の従業者が500万円の年収で働いており、雇用者所得は20兆円、残りの10兆円が利潤(営業余剰)であったとしよう。中国ではこの産業は円換算で年収25万円の労働者を(労働者の生産性が半分として)800万人雇用すれば、これまでと同じ生産が維持できるとする。仮にこの産業の売上や付加価値総額30兆円は不変とすれば、中国移転後の利潤は30兆円マイナス中国での労働コスト2兆円を引いた28兆円へと18兆円分拡大する。この場合、日本で職を失った400万人が年収50万円以上の新しい職を見つけられれば、労働者全体の損失は18兆円を下回るため、日本の経済厚生を規定する国民総生産(国内総生産プラス海外からの要素所得の受け取り)は拡大する。

以上の議論からは逆に、生産の海外移転によってどのような場合に投資母国の経済厚生が低下するかも知ることができる。海外移転した企業の利益が労働コストの低下に見合って増加せず、また海外移転した産業の代わりに雇用の受け皿になる産業の労働生産性が低い場合に投資母国の窮乏化が起きる。

日本の直接投資の特徴と窮乏化の条件

90年代以降の日本の直接投資は、海外市場で高い市場占有率を誇る電機産業をはじめとする輸出主導産業が、中国をはじめとする東アジア諸国に輸出基地としての工場を設置している、という特徴を持っている。実はこのような投資の特徴は、以下のように投資母国を窮乏化させる直接投資の条件と一致している。

(1)日本産業の高い市場占有率と企業間の熾烈な競争
先の数値例では、当該機械産業の生産量は海外移転後も不変であると仮定した。しかし、日本企業間で熾烈な競争が行われている場合には、産業ぐるみ生産が海外に移転し生産コストが下落するにつれ価格引き下げ競争が起き、生産量が拡大していく。一方、競争が日本企業間に限られる場合には、生産コストが下がっても市場を他国企業から奪うことができないため、産業全体の売上はあまり拡大しない。このような場合には中国の労働者と、価格下落によって潤う全世界の消費者(移転したのが部品産業であればそれを投入する企業も含まれる)のみが得をし、海外進出しても当該産業の利潤はほとんど増えないということがありうる(やや専門的な表現を許していただくと、たとえば、需要の価格弾力性が1に近く、一方企業間では独占的競争が行われマークアップ率が一定の場合には、このような事が起きる)。日本の海外現地法人における売上高経常利益率等の利益指標では、ここ数年は国内の不況を反映して、海外での収益率が国内のそれを上回るような場合も散見されるが、労働コストの削減がそのまま利潤増加に結びついているようには思えない。

以上の議論を標準的な教科書の想定と比較すると、日本がこの産業について「小国」でないために直接投資が窮乏化をもたらすことになる。なお、仮に日本の当該産業の市場占有率がそれほど高くなくても、日本企業だけでなく欧米企業もこぞって途上国に進出すれば、値崩れによって日本はやはり窮乏化する。この場合には、日本企業の直接投資それ自体ではなく、国際的な値崩れ(国際経済学の用語を使えば「交易条件の悪化」)によって日本は窮乏化することになる。

(2)輸出指向型直接投資
直接投資が、貿易障壁を回避し現地市場に参入することを目的とする場合には、市場が拡大するため利潤を増やすことができる。しかし輸出指向型直接投資でありしかも日本企業同士の競争の場合には、産業全体では市場がほとんど拡大しない場合がありうる。このような状況では(1)で述べたように利潤は大きくなりにくい。たとえば米国の対外直接投資は日本と異なり、現地市場指向の性格が比較的強い。

(3)輸出主導産業が海外移転することの意味
輸出主導産業が海外に移転される場合には、新たな雇用の受け皿となる産業はどこでも良いわけではない。たとえば、仮に医療・介護産業で将来、年収350万円の職が400万人分創出されるから、労働者の損失は6兆円(20兆円マイナス14兆円)だとはいえない。日本は食糧や原油といった輸入を続けないわけにはいかないから、輸出主導産業が失われた場合には、それに代わる輸出産業が現れる必要がある。

このような輸出産業の交代は、市場に任せておいてもやがては行われる。失業の増大は実質賃金を低下させ雇用者所得を減らす。また、輸出主導産業が消え貿易収支の黒字が減れば円安が起きる。円安は、他の条件を一定とすれば、輸入物価を押し上げ実質賃金を引き下げるから、実質上賃金下落と同様の意味を持つ。現在の輸出産業と比較してこれにとって代わる輸出産業の生産性が低いほど、賃金下落と雇用者所得喪失の規模は大きくなる。

問題は、現在の輸出主導産業に代わる輸出産業(今日ではサービス貿易が拡大しているから、米国のようにサービス産業が輸出産業となることもありうる)の労働生産性がどれほど高いかである。たとえば消失した当該機械産業と比べ、これに代わる輸出産業(たとえば素材産業)の労働生産性が半分だとすれば、実質賃金が半分になるまでこの調整が行われることになる。現在の日本では、高い労働生産性を誇る新たな輸出産業の出現は難しく、雇用者所得の喪失は大規模になる危険がある。

おわりに

著者は、以上の悪条件がすべて満たされ、対外直接投資によって日本が窮乏化しつつあると主張するつもりはまだ無い。上記のモデル分析は論点を明らかにするため、非常に単純化した想定に基づいており、現実に応用するには注意が必要だからである。たとえば値崩れによる利益を日本の消費者や部品購入企業がもっぱら享受すれば窮乏化は起きないであろう。

電機産業のような輸出主導産業の海外移転は、その影響を特に注視する必要がある。これが本コラムの主張である。

2003年1月21日

2003年1月21日掲載

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