新規ビジネスを芽吹かせる米公共図書館

菅谷 明子
客員研究員

ある土曜日の昼下がり。マンハッタンのエンパイアステートビルほど近くで、起業家セミナーが行われていた。ビジネスコンサルタントら数人が、さまざまの角度からプレゼンテーションを行い、その後パネルディスカッションへと移行した。約40人の参加者のほとんどは、ベンチャー起業家かその予備軍。質疑応答では、各自のビジネスに直結する具体的な質問が次々と飛び出し、セミナーが終わっても情報交換とネットワーク作りに余念がない。

意外に思われるかもしれないが、このセミナーを主催したのは、公共図書館である。日本で「図書館」といえば、せいぜい本を借りたり、新聞・雑誌を読むか、あるいは受験生の自習室といったイメージしかない。しかし、アメリカの公共図書館は、やる気とアイデアと好奇心あふれる市民を豊潤なコレクションに浸らせ、新しい価値を生み出すために惜しみない援助を与えるなど、いわば孵化器としての側面を持っている。なかでも、個人の経済的自立を促し、地域経済を活性化させるビジネス支援は、図書館の規模を問わず広く行われているサービス分野の1つで、景気が低迷する時ほど重要な役割を果たす。

ニューヨーク公共図書館からは、アメリカを代表するビジネスが数多く巣立っている。たとえば、ゼロックスのコピー機は、特許関係の弁護士であったカールソンが、「膨大な数の特許を複写する機械があれば書き写すたびに間違いがないかを確認する手間が省ける」との漠然としたアイデアをもとに、図書館で資料を読みあさり、ある文献をヒントに静止写真画像の特許を取得したことに始まる。航空会社の草分けであるパンアメリカン航空は、飛行機好きの創設者が地図部門でハワイとグアムの間の島を発見、そこを給油基地にすればグアムまで飛行機を飛ばせると考えたことが世界初の太平洋線開設のきっかけとなった。ほかにも、ポラロイドカメラ、『リーダーズダイジェスト』誌をはじめ、図書館を活用してビジネスを生み出した人は少なくない。

冒頭のセミナーが行われた、ニューヨーク公共図書館の調査図書館の1つである、科学産業ビジネス図書館(通称シブル)は、世界でも最先端を行くビジネス図書館である。シブルは、マジソン街に面した百貨店を改装して建てられた図書館で、ステンレスをふんだんに使った内装で近未来的な雰囲気を漂わせる。オープンは、1996年にさかのぼる。総費用一億ドルの約半分は、企業と個人の寄付金でまかなわれた。開館準備を進めてきた、ウィリアム・ウォーカー研究図書館代表は、ビジネス図書館の構想のきっかけは、図書館サービスを充実させるために、市民を対象に行った大規模なマーケットリサーチの賜物だったと振り返る。調査を通してわかったのは、市民の側にはビジネス関連の資料に対するニーズが高いにも拘わらず、図書館がそれに対応してこなかったというものだ。

シブルのコレクションは、マーケティング、広告、企業年鑑や各国の貿易統計、法規制に関する資料、商標登録、特許、さらにビジネス応用科学やテクノロジーに関するものなど広範囲で、取り揃えた情報資源はきわめて実践的である。また電子情報も積極的に公開しているが、地下一階には70台のコンピュータが並ぶ電子情報センターがあり、インターネットの提供は勿論、ダウジョーンズなどをはじめとした高価な商業データベースも無料で開放されている。さらに、金融関係者にはおなじみのブルームバーグの情報端末も3台置かれ、ウォール街の企業をやめて投資会社を興した人たちや、金融業界に就職を希望する人、また個人投資家などにも活用されている。ちなみにこの端末は、ブルームバーグ社創業者兼最高経営責任者(CEO)のマイケル・ブルームバーグ(次期ニューヨーク市長)自らが寄贈したもので、彼自身ふらりと図書館に立ち寄ることもあるという。

こうした資料提供に加えて、「中国で帽子を製造するビジネスをしたい」というような漠然とした質問にもすぐに答えてくれる専門司書やリタイアしたビジネスマンがアドバイスを行ってくれる相談室も充実している。さらに、冒頭のような起業家講座をはじめ「事業計画書の練り方」、「スモールビジネスのための会計」、「会社の売り込み方」といった各種セミナーの開催。また、電子トレーニングセンターでは、インターネットやデータベースを使った貿易や特許、商標などの情報の探し方から、求人情報の集め方、情報を評価するための情報リテラシー講座まで、連日さまざまな講習会を行っている。さらに、図書館カードがあれば、自宅や職場のパソコンからでも、図書館のホームページを通じて、一部の商業データベースにもアクセスできる。そして、ここに挙げたいずれのサービスもすべて無料で提供されている。

図書館の利用のされ方は実にさまざまだ。会社帰りや週末に通っては起業準備をする人、リストラされ就職活動をしている間に起業を思い立った人、中小企業に勤めていて情報環境が整備されていない人、リタイアした後に、もう一度ビジネスを始めることを思い立った人、出世の限界を感じたり、家庭と仕事の両立のために起業を考える女性など。もちろん大手企業のビジネスマンが調べ物をしていたり、学者が研究に活用したり、ベンチャー精神溢れる学生が情報収集にやってきている例などもある。また、インターネットに接続できるサービスもあるため、パソコンを持ち込んで図書館をオフィス代わりに使う人もいる。

図書館の電子情報担当者は、シブルの狙いはスモールビジネスを支援し、競争力を高めることにあるといった。今やビジネスを成功させる鍵の1つは、いかに最新の情報を多角的に収集し、分析するかにかかっているといっても過言ではない。ところが、商業データベースは非常に高価で個人経営や中小企業ではなかなか購読するのが難しい。ニューヨークの経済を支えているのは、多くの中小企業であり、誰もが情報を手に入れ易くすることで、情報のハンディをなくすことが図書館の役割だというのだ。

取材中、まさに図書館のリソースをフル活用して、しかも図書館を拠点にビジネスを展開している50代の男性と知り合った。特に学歴や専門分野があるわけでもない彼は、自分の最大の趣味である競馬に目をつけて、競馬情報のニュースレターの発行を思いついた。図書館のインターネットで情報を収集し、分析し、80人の顧客に無料の電子メールからニュースレターを送る。経費はもちろんゼロである。図書館の担当者に彼の話をしたところ、面白い答えが返ってきた。つまり、彼がホームレスになって福祉にお金をかけるよりも、図書館の資源をどんどん使ってもらって、得意分野で「才能」を伸ばし経済的に自立してもらったほうが、彼自身にもニューヨーク市にとってもメリットが大きいというのだ。一方、元大手投資会社に勤めていた男性は、現行の金融商品のあり方に疑問を持ち、より市民や社会のためになる金融商品を開発したいとの思いから独立を決め、在職中から図書館に通って周到に準備を進めてきた。現在は自ら投資会社を経営するが、彼の日課は毎日図書館にやってきてブルームバーグの端末などを使って情報収集することで、まさにシビルは彼のオフィスと言える。

シブルのオープニングセレモニーで、ジュリアーニ市長は、「科学・産業・ビジネスの分野でニューヨークは世界の中心的な役割を果たしています。図書館建設には莫大な資金がかかっていますが、我々が得られるものに比べれば些細なものにすぎません」と語っている。こうした発言は、市民の潜在能力に賭け、個人が力をつけることが、長期的には社会全体を潤すことにつながるであろうことを明確に意識ものなのだ。

現在、ニューヨーク経済は、同時多発テロの影響を受けたこともあり、景気後退による企業の倒産や失業者の大量発生という苦しい状況にある。しかしだからこそ、こうした図書館の存在がますます貴重になるのだといえる。そして、閉塞した経済状況が長引き、倒産する企業や失業者が増えつづけ、新規ビジネスの展望もなかなか見い出せない今の日本の現状を考えた時、我が国にとってもビジネス図書館というインフラは、個人が持つ様々なアイディアや能力を最大限引き出し、経済を活性化させる上で、一考に価するものといえるのではないだろうか。

2001年11月16日

2001年11月16日掲載