構造改革の先にあるもの-ITとリスクとモノ作りの精神-

小林 慶一郎
研究員

小泉政権は「聖域なき構造改革」を掲げ、経済、行政の様々な分野において既存の政策体系に大きなメスを入れようとしている。しかし、構造改革の結果としてどのような経済社会がもたらされるのか、という将来像について確信を持って言うことができないために、構造改革を実行した場合の目先の「痛み」を心配する議論が、大きな不安とともに日増しに強まっている。ここでは、100年単位の超長期の歴史的パースペクティブにいったん立ち返って、構造改革の意義を検討してみたい。

21世紀のフロンティアはリスク制御産業

1992年に村上泰亮は、世界経済の発展について次のように述べている(「反古典の政治経済学」)。まず、産業革命以前は農産物や手工業製品の自給自足的生産とその余剰産物の交易が経済活動の基本形態だった。産業革命を経て、内燃機関の発明がもたらしたのは、人間のメカニカル(機械的)な動作が「機械」に置き換わり、人間が構造物や自然物、空間を機械的に制御する可能性が爆発的に拡大したことである。この機械的制御可能性の拡大が、産業革命後の「価値」の源泉となった。この時代(18世紀後半~19世紀後半)は、内燃機関を利用した軽工業、交通機関(船舶、鉄道)が主要な産業であった。

19世紀の後半以降の100年は、物理・化学など自然科学の発展に伴い、化学反応を利用した物質変換や、電磁気現象等の活用によるエネルギー変換が、新たな経済価値を創造するフロンティアを拓いた。自動車産業、重工業、化学工業等がこの時代の主要な産業となった。この時代の産業は村上のいう「費用逓減」(または収穫逓増)という特性を強く有し、生産の大規模化と組織化が経済的に有利に働くという技術的条件(規模の経済性)を有していたと考えられる。全体主義や共産主義による統制経済やケインズ経済政策(公共事業による生産基盤整備)による経済介入は、いずれも生産活動の大規模化・組織化を進めることで、規模の経済性の利益を最大限発揮するための社会・政治上の適応だったという側面もあったのではないだろうか(柄谷行人)。だからこそ、20世紀の前半において、これら三つの社会システムが各国に伝播したといえよう。

そして、20世紀後半以降に「情報化」が始まり、1990年代以降にその変化が本格化したと考えられる。19世紀が機械的能力(古典力学の世界)の拡大、20世紀がエネルギー・物質制御の能力(現代物理、化学の世界)の拡大、21世紀が情報制御の能力の拡大、と特徴付けられるとすると、現在進行している「情報化」が拓く「経済価値の源泉」は具体的には何なのだろうか。映像、音楽、ゲームのネットを使った配信や、ネットオークションなど新形態の通信販売は、20世紀システムに既に存在したものの変形でしかない。

そもそもシャノンの情報理論で「情報量」というとき、それは「エントロピー(=不確実性の尺度)の減少」として定義される。つまり、経済用語でいう「リスク(の減少)」が情報理論の扱う「情報量」なのである。具体的には、株価等の価格変動のリスク、物流に関する輸送変動のリスク、また、研究開発投資などのリスク、などが経済活動において主要な「情報」になる。実際、ここ20年ほどの最近の経済学では、情報(=リスク)を効率的に制御し、社会厚生を高めることが一つの大きなテーマになっており、その一分野として確立しつつある「金融工学(FT)」は、狭義の証券取引というより、広くリスク全般の制御の学として、その真価を発揮することが期待される。

つまり、「情報化」の最大の意義は、経済社会に潜む様々なリスクを、リアルタイムで効率的に制御する能力をもたらし、「リスクそのものを経済的商品にする」という点にある、と言うことができるのではないだろうか。

また、たとえば通常「新産業」としてイメージされるバイオ関連産業でも、技術的ブレイクスルーと同等またはそれ以上に産業化のボトルネックとなっているのは、バイオ関連の研究開発に本質的に内在する巨大なリスクを一般投資家に分散できないことだと考えられる。しかし、今後、IT(情報技術)の進展によって、リスクをより細分化してスピーディに分散できる金融商品が開発されれば、国の研究開発予算の決定を待たずに、よりスピーディに、より大規模に、一般投資家から資金を集めてリスクの高い研究開発を実施することが可能になるはずである。つまり、リスク制御能力の拡大は、通常の意味での新産業の創出のためにも今後不可欠といえる。

さらに「リスクそのものを主要な商品として扱う経済」の形成は、それ自体としても、人類の経済生活に様々な革新的な利便と変化をもたらす可能性を秘めている。「財貨の消費」と「所有」の概念的分離や、雇用形態の根本的な変化は、19世紀末から20世紀前半に起きた社会構造の変化に匹敵する社会・政治的変化をもたらすのかもしれない。

こうした意味で、21世紀の世界経済を牽引するフロンティアは「IT+FT(情報技術と金融技術の融合)」によるリスク制御産業の発展だと筆者は考える。

IT、FTにも「モノ作り」の精神を

現在の世界経済が、こうした超長期の発展過程の途上にあると考えた場合、日本の構造改革の意義はどのようなものになるだろうか。

まず第一に、不良債権処理を伴う金融セクターの立て直しは、今後の日本経済の長期的発展に不可欠の条件である、という点がある。「将来性のある新産業(借り手)がいないから金融業が再生しない」という見方があるが、これはあまりに静態的であろう。リスク制御の新手法を開発して高リスクの投資を実現することによって、「金融業そのものが、今後の日本経済をリードする新産業になる」ということ以外に、日本経済が前進する方途はないのではないか。新手の産業が勃興することで金融システムが安定的な借り手を確保できるのではなく、今後は広義の金融産業がリードするリスク制御能力の拡大が、他の新産業の発展を可能にするのである。

第二に、日本の「モノ作り」の精神についてである。現在の先端的な金融技術の世界は、巨大なカジノ資本主義になっており、集団で整然と行う作業を得意とする日本人に不向きな分野だという見方がある。しかし、現在の日本企業が得意とする製造業も、その黎明期は山師が横行するギャンブルのような世界だった。日本人は、製造業の生産様式が確立した後に、農耕民として培ってきた「モノ作り」の精神を製造業で発揮し、きめ細かく配慮された製品群を供給することで、世界の顧客満足度を向上させてきたといえるだろう。同じことを「リスク商品」の分野で実現することが、21世紀の世界経済の発展において日本が果たす役割と言えるのではないだろうか。しかし、そのためには、「IT+FT」の生産様式が確立し、日本人の「モノ作り」の精神が発揮されるようになるときまで、常に先頭に向かってキャッチアップを続ける必要がある。現在の構造改革は、まさにそうしたチャレンジをしようとしているのではないか。

2001年7月10日

2001年7月10日掲載

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