フェローコンテンツ: 対談・経済政策の選択肢

第3回「深刻さを前提に、漸進的に構造改革を進め、諸問題を総合的に解決する選択肢」

池尾和人(慶応義塾大学教授)氏との対談

池尾和人 (いけお・かずひと)
慶應義塾大学経済学部教授。京都大学経済学部卒業。岡山大学助教授、京都大学助教授などを経て現職。日本ファイナンス学会会長、金融審議会委員、財政制度等審議会財政投融資分科会委員、産業構造審議会産業金融部会長、日本郵政公社理事(非常勤)等を併任。主な著書に『日本の金融市場と組織-金融のミクロ経済学-』(東洋経済新報社)『銀行はなぜ変われないのか-日本経済の隘路-』(中央公論新社)などがある。

日本経済の認識

飯尾:
最初に現在の日本経済の状況に対する認識を簡単にお話いただけますか。

池尾:
同時代的に判断するのは非常に難しい事象というものがあります。要するに10年ぐらいたって振り返れば明らかになっていっても、現時点で分かるかどうかというと、非常に難しいケースがあって、今の日本経済が置かれている状況はその種のものに属していると思います。少し大仰な言い方になってしまうかもしれませんが、戦後ずっと続いてきた戦後型日本型経済システムといいますか、そういうシステムの枠組み自体がおかしくなっているのか、システムの枠組みが一応成立している上で、そのシステムの中での問題なのかという認識がまず分かれてくると思います。

戦後システムがそろそろ耐用年数を迎えていて、見直さなければいけないというレベルの認識は、かなり共通にあると思います。しかし、当面の経済、景気対策などを優先すべきだという考え方の人々は、根本のところで今のシステムを取りかえなければ解決のしようがないというような意識は乏しいと思います。傷んではきているかもしれないけれども、基本的にはシステムの枠組みを前提にした上で、その中での問題だということであれば、それは数年で片がつくとか、もっと早く片がつくというような可能性につながります。

だから、本当に今あるシステムが駄目になっていて、システムが置きかわろうとしているんだといったことを、同時代的に見極めるのは非常に困難ですから、ある程度、それぞれの論者の経済思想とか世界観とか、過去の経験とか、その人の趣味とか、そういうところで判断が分かれてくる部分があって、通常の狭い意味での実証研究をやれば白黒がつくとかいうわけではありません。

飯尾:
政治の世界では、選択肢をつくることが大切なことで、その根本には価値判断とか世界観みたいなものがあり、基本的には現行の制度を修理していきながら進めていくのか、違うシステムを目指すのかということは、一番深い部分であるだろうと思います。ただ、普通に経済関係の方とお話をすると、経済理論の中からはそれはなかなか出てこないものですよね。

池尾:
例えば、小宮隆太郎先生とかははっきりおっしゃっていますけれども、経済理論で説明がつくというか、まっとうな経済学者であっても経済政策を語るときに、経済理論に基づいてほんとうに根拠を持って語れる部分というのは4割ぐらいですね。あとの6割ぐらいは、実は、その人のいろんな経験とか、先ほど申し上げたような要素が入って初めて政策論になっているのであって、本当に科学としての経済学みたいな形で言い切れる部分というのは4割ぐらいではないでしょうか。

ところが、経済理論ですべてが説明できるかのようにいう人も世の中にはいます。そうした人たちはどうしてそこまで自信が持てるのかとかいうと、教科書に書いてある世界を現実だと取り違えているんじゃないかとすら思わないでもありません(笑)。ときどき、実証科学のはずなのに、理論と現実が食い違ったら現実が悪いように言う人がいますね。

飯尾:
そうすると、いつの間にか教科書が規範と化しているわけですね。

池尾:
そうですね。理論と現実が食い違っていたら、間違っているのは理論に決まっているのに、現実のほうが悪いかのように言いかねない人がいますから、そこはそういう判断の違いみたいなものが基本にあるのかなと思います。

飯尾:
それを前提としますと、先生自身はどちらかというとシステムの転換期だと見ておられるわけですね。かなり長い、四半世紀とおっしゃいましたが、10年、20年とかけて調整が続いていくような、そういう大きな過程の1つだという認識ですか。

池尾:
その辺になると、本当に理論は4割もなくて、ほとんど当たるも八卦のほうに近くなってくると思いますが、そういう気がするというのが正直なところですね。

そうしたときに、経済システムの転換の経験というのは、日本は過去に1つぐらいしか持っていないと思います。もちろん、明治維新以前の江戸システムなどを考えればもう少しありますが、近代になってからということで言えば、戦前の日本型システムからの転換というものが唯一の経験としてあります。それは、戦後の日本型システムとはかなり正反対のものだったと思いますが、明治の中期か後期ぐらいに一応確立して、大正期にピークを迎えたというか、一番繁栄を極めたようなシステムというのがあります。

大正期に繁栄のピークを迎えていたということから、一橋大学の寺西先生なんかは「大正システム」という呼び方をされています。その大正システムが確立して、一応成果を上げて、その後、駄目になっていきます。大正システムというのは戦後の日本型システムに似ているというよりは、強いて言えばアングロサクソン型の自由競争資本主義みたいなシステムだったわけで、日本には、戦前にはちゃんとブルジョアジーがおり、しっかり労働者から搾取していたわけです(笑)。

寺西先生の分析だと、要するに、戦前を2部門経済として考えると、農業部門と工業部門がある程度歩調をそろえて成長していた時にはよかったのですが、農業部門の成長が停滞してきて、工業部門だけが成長し、部門間不均衡が出てきてからシステムがだんだんおかしくなってきました。農業部門が停滞していきますから、それで農村は疲弊していて、なのに都市のブルジョアジーは優雅な生活をしているといったような感じで、資本主義は駄目であって統制経済のほうがいいんだみたいな理論が出てきて、戦時体制に突入するわけです。

そのときシステムが崩れて、戦争になって、戦後新たなシステムが構築されます。戦後のシステムが一応形を整えてくるのは、50年代の半ばぐらいではないかと思います。そして、60年代、70年代ぐらいに成果を上げてきました。80年代をどう見るかですが、私は80年代は、実はすでに下降期に入っていたと考えています。

飯尾:
凋落が始まっていたと。

池尾:
表面的には一番繁栄していたような時期ですが。極めて単純な比較をすると、それこそ戦時体制に転がっていくようなああいう時期に、今が対応するような時期で、なかなかつらい時期をもう少しくぐることにならざるを得ないのかなというような気がしています。根拠はないですよ。これは、経済学者としての発言というわけではありませんから。

飯尾:
判断の背景にある世界観的な認識である、こういうことですね。それを前提にしますと、今、一番不適合を起こしている経済問題というのは何でしょう。

池尾:
それは、逆に言うと、次のシステムというのは、どういうふうなものとしてイメージされるのかということになると思います。すごく乱暴極まりない議論なのですが、単純弁証法じゃないですけど、正反合的に考えると次のシステムは、これまでの戦後の日本型システムに似ているというよりは、戦前の、今申し上げた大正システムにむしろ近いものになるのではないでしょうか。

一般的にはアメリカナイゼーションじゃないかとか言われていますが、私は大正システム復興なんだと思っています。アメリカナイゼーションと言うから反発する人がいるので、実は日本の大正システムを復活させるんだと言ったりすることがあります。

そういうことを考えた上で、私は今の日本の一番の問題だと思っているのは、官民関係のあり方といいますか、要するに政府の民間との関係のあり方が一番の問題として、根底にずっとある気がしています。

飯尾:
これは経済問題としてもそうだということですか。

池尾:
そうです。今言ったシステム転換とは別に、経済発展段階として見たときに、70年代のどこかで転換点があるわけです。それは、明治以来100年以上かけて「追いつき型」の経済発展をしてきたのだけれども、その「追いつき型」という経済発展が完了した時期というのが70年代のどこかにあるわけです。

飯尾:
それは追いついたということですか。

池尾:
実質的な意味での完全雇用を初めて達成したのがその時期だと言ったほうがいいかもしれません。それ以前の時期というのは、農村部とかに、いわゆる潜在的過剰人口がいて、都市の工業セクターというのはその労働力プールから労働力の供給を受けることができたわけです。そこで、人口増加率以上のスピードで雇用を増やしたりすることも可能だったわけですが、農家にはおじいちゃん、おばあちゃんしか残らなくなったというような時点で、歴史上初めて潜在的過剰人口のプールを使い尽くして、そういう意味で、本質的な意味での完全雇用を初めて実現したというのが70年代のどこかだと思います。そのことをもって、追いつき形の経済発展が終わったと、私は言っています。

だから、例えば、労働生産性は平均するとアメリカの6割ぐらいしか日本はないから、それは全然追いついていないじゃないかとか言って批判する人がいますが、そういう意味で言っているのではありません。

つまり、その時点で追いつき型の経済発展「構造」は終わったわけです。「追いつき型」の時点では、それ自体議論がありますが政府部門がある種の指導性を発揮して、民間を引っ張って経済発展を加速化させるという「開発主義」的な経済運営に一定の根拠というか、それを正当化し得るような条件はあったとは思います。もちろん、本当に開発主義という政策をとることが正しかったのかどうかというのは議論の余地があると思いますが、現実的には開発主義をとってきたわけだし、その現実にとってきた開発主義的なやり方を正当化するような条件はあった。

ところが、70年代にはオイルショックが2回来て、いろいろガタガタしていましたから、どこが転換点だったかというのが、それこそ同時代的にはわからなくて、今から見ればわかるみたいな感じになっていると思いますが、その時点で転換を迎えて、政府が主導して民間を引っ張ってというような形の官民関係のあり方は、その時点で見直されなければいけないということになったと思います。ところが今申し上げたように、転換自体、同時代的な認識が難しかったということから、官民関係の見直しという課題に関して、事実上、一切手がつかないままに80年代、90年代に来てしまった。そして、従来型の官民関係が持続してしまったということがあると思います。ただ、持続したと申し上げましたけれども、基本的な条件が変わってしまっていますから、むしろ、変質しながら持続したと言ったほうが適切な表現でしょう。政府が主導して民間を引っ張っていたということから、事実上変質して民間が政府にぶら下がってというように変わっていった。

そのような形で、官民関係の持続的変質が起こった。それがさまざまなところで問題解決を困難にしているし、本質的な問題解決を妨げている要因になっていると思っており、官民関係の見直しという、本当は四半世紀前にやっておかなければいけなかった課題ができていないわけですから、これが第一義的な問題だと思っています。

飯尾:
それは、今の経済の不調にも関係しているのでしょうか。

池尾:
何かあったら政府に期待するというのは、この間さらに強まったような気はします。それは、経済の不調がある意味では影響しているということは言えると思うんですが、私がいつも思うのは、政府が何とかしなければと言っている間は駄目なんだろうということです。

飯尾:
基本的に、政府の役割を減らして官民関係を整理しないといけないのに、政府にもっと期待せよと言っていては、行く方向が逆になってしまうので、さらに事態を悪化させるという理解ですね。だから、その点から言うと、特に90年代しばしば言われる経済の不調というのも、現状に合わないシステムを維持しているから起こっている側面と、何か別の側面というのもあるのでしょうか。

池尾:
経済低迷が長期化しているということの結果で、現状に対するいらだちが日本社会全体ですごく強まっている。問題を早期に解決してほしいという思い──私は「一挙的解決願望」と言っているんですが──その一挙的解決願望が非常に強まっており、何か特効薬とか、逆転ホームランのようなものを待望する雰囲気というのが非常にあり、従来型の官民関係が変質的に持続している中で、政府部門がそういう国民の思いに対して政治的に答えざるを得ないということになっています。変質的に続いていく官民関係の中で、民間がお上に頼っているということを言いましたが、そのカウンターパートとして、日本政府というのも、ノーと言えない政府になっています。「これは政府の仕事ではありません」とか、そういうことは口が裂けても言えない政府で、そういう意味で言うと意気地なしだと思ってしまうのですが。

だから、通常考えればそんなことまで政府がやらなくてもいいはずだと思われることについてまで、言われれば「善処します」というように、要するに性格が弱い、そういう政府だというところがあります。そこで、国民の側が一挙的解決願望を強めている中で「逆転ホームランを打て」とみんな言っているわけです。そうすると、「逆転ホームランを打ちます」と言うわけです。そんなの、例えに使っている今の野球の場合でもそうですけれども、「逆転ホームランを一発打って来い」と言われて、「じゃあ、打ってきます」と言って打てるケースというのはそれほどないし、本来的にはどんな名選手であったって、必ずホームランを打てるなんていう保証は全くないわけです。

それにもかかわらず、答えざるを得ないから無理をしているわけです。だから、本当にもっと地道に少しずつ、最初から時間をかけるつもりでやっていけばもう少しは成果があったはずのことを、今の状況だと3カ月ごとに何かやったという形をとらないと、国民も、それから新聞も全部批判しますよね。だから、3カ月ごとに何かしているふりをしなければいけないわけで、3カ月ぐらいのペースで政策をやって、1つも結果がなかったらまた別のことをやるみたいなことをしているわけです。本来有効性のあることだとしても、3カ月で成果がぱっと出るなんていうことは、経済の中でそんなにあるわけないんです。そうした愚行を繰り返してきた結果、政策的に動員できるさまざまな資源を、ほとんど使い尽くしてしまったというのが、現在行きついた状況かなと思っています。

不良債権問題について

飯尾:
それでは、各側面について伺いたいのですが、例えば、しばしば言われる不良債権問題。これについては、同じメカニズムで物事を悪化させたということになるわけでしょうか。あるいは、これはもう解決に向かっているのでしょうか。

池尾:
日本における銀行セクターの比重の大きさというのがあって、私は不良債権問題というのは、日本経済の問題そのものだというような形になっていると理解すべきだと思っております。金融と産業の一体再生が不可欠なんだとか、そういうことが、以前よりは多少言われるようになりました。そういう意味では、認識が少し深まっているのかもしれませんが、不良債権問題は経済全体というよりも銀行問題だという認識が一般的だと思います。

飯尾:
銀行の問題だと言っても、銀行からお金を借りている人たちがいるということですよね。しかし、基本的には金融機関の問題だと考えてしまう。

池尾:
実は、預金者という名前の国民にとって、本当は他人ごとのように語れる問題ではないんですよ。しかし、普通の一般の国民は、97年の危機なんかのときにはすごく身近に、悪影響が自分のところにも累が及びかねないように受けとめたときがありましたが、そういう局面を除くと、一貫して「あれは銀行の問題で、だから悪い銀行をたたけばいい」という感じのとらえ方で、自分たちは安全地帯にいるという感覚が日本国民一般には非常に強くあると思います。

飯尾:
不良債権というのは、不良預金だということが認識されていないということですか。

池尾:
そうです。だから、1,400兆の個人金融資産なんかがあると言っているけれども、国民経済計算的に言って、企業が過剰な債務を抱えているのだとすると、裏側にどこか過剰な資産があるはずで、それはあなたの預金のことなんですよと、それが認識されていません。

飯尾:
国民が持っている預金は何割掛けかしかの値打ちがないのに、あるかのような幻想を抱いているということですね。

池尾:
そういうことをしているうちに、日本経済全体の中に占める割合が高く、もともとサイズの大きな問題であったのが、ますますいろんなところとの関係がごちゃごちゃとつながってきて、ほとんど日本経済全体と不良債権問題は裏腹の問題のような構造に今はなっています。不良債権問題に果敢に取り組むなんていうことを言いますが、私だったらたじろぎますよ。果敢に取り組むということは、日本経済全体を生体解剖する覚悟があなたにはあるのかという感じになりますから。昔は、私はハードランディング論者であって、「癌なんだから手術しない限り治らない」と、まだ癌も初期と思われる頃にはずっと言っていたんですが。

本当は、問題解決に取り組むためには、国民負担の覚悟というのが最低の準備として必要なんです。いろいろ不満はあって、文句はあるでしょうけれども、数十兆円の純粋の国民負担を許容して下さいということに関する国民的な合意を取りつけるというのが、問題解決に本格的に取り組むための前提条件だと思います。

飯尾:
例えば、税金というのが一番わかりやすい負担ですね。もちろん、インフレとか何とかということも、あるいは借金の棒引きというようなこともあるかもしれませんが。その負担というのは、数十兆円とおっしゃったら60兆円とか70兆円とかそれぐらいの規模ですか。

池尾:
そこまではよくわかりませんが、要するに、グロスで必要になる公的資金の額と、それから最終的にロスになる部分とは異なりますから、グロスでとりあえず必要になる金額ということで言えば、よく世間で言われているように100兆円とかの規模になるのではないでしょうか。もちろん、それが全部ロスになるとはさすがに思っていなくて、最終的に国民負担として、完全に返ってこないお金として覚悟すべきなのは、20兆とか30兆という額じゃないかと思っています。

しかし、正面切って国民負担の必要性を国民に訴えるというようなことは全くできていませんね。

飯尾:
そうすると、どんな形で負担というのはあらわれるのでしょうか。

池尾:
今まで申し上げてきたことと雰囲気が反転しますけれども、要するに、預金とか金融資産を日本の家計部門は抱えているわけじゃないですか。使わない部分ってあるわけでしょう。だから、使わないんだったらあってもなくても実はあまり関係がない。安心感の問題に過ぎないみたいな感じで。

飯尾:
100万円を預けているけれども、いつも預けっ放しのうち20万とったところで、別にみんなからとりゃ大丈夫だという話ですね。

池尾:
そこが、日本経済の危機感のなさのゆえんというか、やはり日本経済って余裕があるんです。それは要するに、京都大学の吉田和男教授が「貯蓄率の高さが七難隠す」とか、そんな言い方をされていたことがありますが、貯蓄率が高いことによって多くの問題が露呈しないで済んでいるということですね。露呈しないから、逆に言うと解決への切迫した危機感が生まれない。貯蓄率が高いだけで、その貯蓄は結果的には浪費されているにもかかわらず、実態としては高い貯蓄率の結果、年々資産が形成されているつもりでいるわけです。ところが実態は形成されていない。

だから、一旦現実を認識してもらうという調整が必要で、その認識に伴う心理的ショックはものすごく大きいものだと予想されるし、そのショックに伴ってどんなパニックが起こるかわからない。これだけあると思っていたら実は半分しかないんだということを知ったときの怒りとか、反発とか、そういうものは1つか2つの政権ぐらい飛ばしてしまうものかもしれない。

飯尾:
経済学者、エコノミストの中に心理的ショックが経済を冷え込ませて問題解決をさせないと言っている人がいますが、それは、基本的にはこのシステムを修理しながらやっていこうと思っているので、問題を隠しているうちに景気回復して、税収増でまかなえるとか、そんなことを考えているわけですよね。ところがそれは、池尾先生のお考えだと、程度が違う問題を一緒にしていて、システムの問題と目先の景気の問題を混同しておられるから、問題解決をさらに悪化させるということですか。

そうすると、この不良債権問題、長期的に腰を据えるとしても、どういうふうにすれば解決できるのでしょうか。時間軸も含めてお話しいただけますか。

池尾:
戦前のように、もっと粗野なやり方が許される時代であれば、預金カットです。

飯尾:
それが一番合理的ですか。

池尾:
合理的というか、先ほど申し上げたように、銀行と企業の問題という認識になっていますが、実際には異なる側面があるわけです。

今の理解は、企業の過剰債務は銀行の不良債権、そういう対応だという理解ですが、実は、銀行というのは本質的には仲介者に過ぎませんから、そこを飛ばしてしまえば、企業の過剰債務は家計の過剰資産だというのが、問題の本質なんです。過剰債務と過剰資産を相殺するというのが、最終的な解決の姿なわけです。それを一番直截に、乱暴に、粗野なやり方でやるとすると預金をカットするということになります。経済的実質としてはそういうことなのですが、今の文明社会において、そんな粗野なことはできません。

飯尾:
どうしてできないんですか。

池尾:
より洗練されたとは言いませんが、より粗野ではないやり方があるからです。

それは、過剰資産の部分を公的債務で置き換えて、公的債務に対する負担義務という形で、国民の正味資産を実質的に減少させる。預金が20万円カットされるのと、将来的な納税義務の現在価値が20万円増えるのと、経済的には本質的に同じはずです。フィスカルイリュージョン(財政錯覚)がなければですが。

本当に洗練されたものかどうか知らないけど、不良債権問題処理の現代的なやり方は、このように公的債務に一旦置きかえて、それを国民負担という形で償却していくというやり方です。それが基本です。

だから、公的資金を入れないで不良債権問題が解決できるなんていうことはあり得ないんです。経済原理的に言うと、公的資金の導入と最終的な国民負担ということを抜きにして解決できないはずの問題を、現在の政治状況では、それなしに解決できるというような嘘を言わざるを得ない。この問題についても、官民関係が歪んでいるということが一番の根本のところにあると思っています。

ただ、現在は公的債務を膨らませすぎたので、この方法は困難だと思います。

飯尾:
それは、財政赤字の問題からそれだけの赤字国債が出せないということなのでしょうか。追加で国債を発行したら国債価格がもたないということですか。

池尾:
すごく問題先送り論者みたいな感じの印象になってしまうのですが、金融システムの危機と財政システムの危機がそれぞれあるわけです。今言ったようなことを、不用意に入念な準備とか戦略性を抜きにやると、この2つの危機を解消するためには、大規模な公的資金の導入が必要だということが出てきたときに、では、それだけの公的資金の調達に今の財政が耐えられるのかということにならざるを得ない。それについて考えると、あらためて財政システムの存続可能性に関して疑義が生じて、国債相場が暴落するというようなことになってしまう可能性があります。そのときに、金融の危機と財政の危機が、一応今は両方とも存在しつつも分離しているものが、共鳴し始めるという危険があります。

よほどの戦略性とかがあれば、今、不良債権処理に乗り出すということはできるかもしれませんが、それは非常に能力の高い人がいたとしても、かなりギャンブル的だと思います。とりあえずは、財政のほうの危機を少し遠ざける努力をまずすることによって、金融問題の解決のために、財政に多少の負荷をかけてもいいような状態に持っていくことが先ではないでしょうか。

飯尾:
財政危機にならないような状況まで待たないといけないということですか。

池尾:
そういうふうに考えています。

飯尾:
しかし、待っている間に不良債権問題がもっと悪化することはないんですか。

池尾:
それはあるかもしれませんが、できないものはできないわけですから。「してほしい」とか、「そうすべきだ」とか、「必要がある」という話は山ほどできますが、できないものはできないという現実を見ないといけません。

どんな財政的ショックが来るかわからないし、今みたいなスケジュールを立てて皮算用をしていても、本当にショックが来て、金融危機が目の前で顕在化してしまうというリスクは常にあるわけです。目の前で顕在化すれば、政府は出動せざるを得ないわけですから、今、一番懸念していたような金融危機と財政危機の共鳴現象が起こって大変なことになるというリスクは常にあります。日本経済にとって不都合なショックが今後10年間一切来ませんなんていう保証はどこにもないわけですから。

飯尾:
では、財政的に改善したとして、打つべき手はどういうものがあるのでしょうか。どういう手段が一番いいでしょうか。

池尾:
先ほど申し上げたように、国民負担の同意をつければ、後は何とかなります。別に経済問題として考えた限りの不良債権問題は、それほど複雑な問題ではないわけですから。穴を埋めればいいわけで、財政負担を経由してか直接かは別にして、国民負担が解決には必要なだけの問題なのです。本来そういう単純な問題を、国民負担が必要でないかのように言うから、やたら難しい、わけのわからない議論になってしまうわけです。

財政の問題について

飯尾:
それでは、次に財政についてお伺いします。財政が今、危機だということでしたが、これは今の延長線上には破綻が見えるという状況だという認識ですか。

池尾:
普通に考えればそうだと思います。ただ、政府というのは無限に生きる存在ですから、政府の予算制約というのは無限期間にわたる歳入の現在価値の合計と、無限期間にわたる歳出の現在価値の合計が一致するというものです。したがって、ある一時点とか、あえて言えばある100年間について大幅なギャップがあったとしても、それは別に構わないという可能性は常にあります。要するに、この100年間すごく大きな財政赤字が出ていても、次の100年間でそれを埋め合わせる財政黒字が出るのであれば、別に何も困らないという可能性はあります。だから、本質的に政府の予算制約が満たされていないのか満たされているのかという議論をやっても水かけ論になってしまうでしょう。ただし、90年代以降のデータで見ると、サステナビリティー(維持可能性)が失われているという可能性が高い、そういう話はあります。

飯尾:
それは、今破綻がないから100兆でも用意できるとさっきおっしゃらなかったのは、破綻しないという論理ではなくて、いずれ国債金利が急騰し、あるいは国債価格が暴落するという事態がネックになる可能性があるとお考えだからですか。

池尾:
寝た子を起こさなければもつとは思います。ただ、ちょっとショックを与えるようなことをすると、そのような形で財政破たんが顕在化する可能性があると思います。

飯尾:
寝た子を起こさなければ大丈夫なんですか。

池尾:
少なくとも、現在、国債市場はそういう評価をしているわけです。今の日本国債の流通市場の状況をどう解釈するかということで、論理的には3つぐらい解釈があり得ます。1つは、財政破綻の危機が差し迫っているにもかかわらず、様々な制度的理由とか様々なことがあって、日本の国債市場はそれを価格に織り込めないでいるという解釈です。例えば、日本銀行が買い支えてとか何か財政危機の可能性があるのに価格に織り込めないでいるというのが1つです。2つ目は、財政危機の可能性はないというふうに認識して、その結果が織り込まれているという解釈です。それから、3つ目は、バブルなんだと。基本的にそういう情報を織り込むとか織り込まないというノーマルなシチュエーションじゃなくて、バブルが起こっているんだと。お金がたくさんあるのにもかかわらず、貸し先がないために、みんな国債を買っているという解釈です。

その3つの解釈があって、これも逃げるようですけど、同時代的にはどれが正しいのかを言い切るのは本当に難しくて、私の同僚の深尾先生はバブルだという認識です。政府債務の価値が実質的にはどんどん落ちているはずなのに、政府債務に対して人気が集まっているというバブルなんだ、と。そして、バブルは早めにつぶしたほうがいい、と。深尾先生のおっしゃる政府債務は日銀券も含めてですから、国債を買って日銀券にするというのは意味がないというわけです。それは、同じ政府債務の中の入れかえですから。だから、実物資産だとか、外貨建て資産だとか、そういう政府債務でないものを買って政府債務を供給するという政策をとるべきだ、と。だから、一見インフレーションターゲッティングとかで同じようなことを皆さんおっしゃっているようですけど、深尾先生の主張と、ほかの長期国債をどんどん買えという主張とは、認識が全然違います。

そのバブルの可能性も捨てきれませんがが、ただ、その可能性を全面的に受け入れると、深尾先生のおっしゃっている政策提言が正しいことになるから、それはちょっと抵抗があるなという気がします。(笑)危機があって制度的な理由で織り込めていないのか、危機が本当にないのか、どちらの可能性もやはり無視しきれません。

とはいっても、織り込めていないという可能性もあるけれども、日本の国債市場、これだけの規模で純粋の国債市場以外に、先物市場とかスワップの市場だとかがありますから、それ全体を考えれば、これだけ大きな市場を何か人為的に操作して価格を支えているという見方にはかなり無理がある。そうすると、市場参加者のかなりの部分が財政危機を回避できる可能性を見ているという仮説──それは冒頭のほうで申し上げましたが、現実と理論が食い違っているようなときには現実のほうが正しいんだということでまず考えるとすれば、そういう可能性を無視して議論するのはおかしいと思います。

飯尾:
おかしいから、現実にその価格が暴落していない以上、これは正しい判断だと考えるのが自然なことだということですか。

池尾:
少なくとも自然なことではないでしょうか。それを無批判に受け入れるという意味ではなくて、それが正しいとしてという仮説のもとで、少し物を考えてみることは必要だということです。

飯尾:
そうすると、危機が回避される可能性を織り込んでいるとおっしゃっているのですが、財政危機が回避されるとはどういうことなのでしょう。

池尾:
国債の増発というか消化が続けられるということです。ふたをあけて中身がないということを見せつけるようなことをしなければ。

飯尾:
あると思ってみんなが信じていれば、お稲荷さんの中に石ころが入っておっても、拝んでありがたいと思っているうちは大丈夫なので、扉を開けなければいいということでしょうか。(笑)しかし、これは普通に考えると、国債残高はどんどん増えつづけますよね。理論的には幾らでも買えるものなのでしょうか。

池尾:
それは、幾ら金利が低くても金利は払いますから、金利の払う額が大きくなっていきます。

飯尾:
それが、税収を超えてしまったときに、絶対止まりますよね。

池尾:
止まります。ただ、今のプライマリーバランスが真赤の状態で、来年なんかだったら80兆円の歳出に対して、歳入40兆円、借金40兆円みたいな世界です。そんな状態が、これから何十年も続けられるという話をしているわけではもちろんないですけど。その辺のところを、まだまだ可能性があると見ているのか、バブルなのかどっちかだなという感じです。

デフレについて

飯尾:
次に、デフレとはどういうことかについてなのですが、これがまた意外と経済学者の方々の中でも意見が違っているように感じるのですが。

池尾:
デフレという概念については、今の内閣府なんかの定義では物価の下落だけになっていますが、物価の下落だけで考える場合と、伝統的には、デフレというときには単に価格が下がっているというよりは、経済活動自体のレベルが落ちているということを意味しています。だから、伝統的なイメージでデフレを語っているときと価格だけで語っているときがあるから、混乱があります。

それと、今のデフレというのは、率直に現実を見たときに、過去のデフレとは違います。スパイラル化していません。こういう話も、すぐ30年代の経験とかに飛んで、30年代のときのデフレはどうやって克服したとか言いますが、少し違うと考えています。そんなに粗雑に議論しないで、もうちょっと緻密に現実をみて議論すべきではないかという気がしています。スパイラル化するという脅しは随分前からありましたが、なぜ緩やかなデフレが持続し得るのかも、きちっと説明しないといけません。現在の経済学は、そのことをちゃんと説明できていないんですよ。

飯尾:
そうですか。そのことを説明すると、皆さんアービング・フィッシャーを出されて、私もそうかなとは思っていたのですが。

池尾:
フィッシャーのデットデフレーションの議論と現実は、一見似ているようなところもありますが、違うのではないかと思っています。

飯尾:
デットデフレーションというと、イメージとしては、今現在、不良債権問題が大きいから同じように見えているけれども、違うのではないかということですか。

池尾:
はい。

飯尾:
どのように違うのでしょうか。

池尾:
スパイラル化ということが起こっていないということと、フローの財・サービスの価格下落と、資産価格の下落のスピードがぜんぜん違うということです。

全てが合理的に起こっているとすると、緩やかなデフレがそれこそ100年ぐらい続くということを資産価格の形成は読んでいるというような感じです。だから、現実は合理的なのか、バブルなのかということの判断をしなければいけないのですが。ただ、弾けてみなければバブルだったと分からないということもありますが、バブルというか、要するにみんながおかしいことをしているんだ、という議論をするというのは、社会科学者の態度として本来とりにくいスタンスのはずじゃないでしょうか。

何度も言っておりますが、現実と理論が食い違っていたら、自分の理論のほうが正しいように思っている人もいる。それだけの自信を持っていて、その自信を裏付けるだけの研鑽を積んで来られているのだったらそれでもいいのだと思いますが、私はそういう研鑽も積んでいないから、現実のほうが正しい可能性が強いと考えています。現実が正しいという仮説に立ってものを少し見てみるという作業を、絶対にしてみる必要があると思います。

飯尾:
では、そうすると、緩やかなデフレがあり得るとしても、緩やかなインフレはなぜよいと言われるのですか。

池尾:
多くの価格には、いわゆる下方硬直性のようなものがあります。それは単なる貨幣錯覚と言われるようなイリュージョンから生じている面もあるかもしれませんが、もう少し実体的なコストというか、実体的な根拠を持って、価格を下方に改定する方が経済としてやりにくいということがあります。そういう事情を考えると、数%のインフレの状況の方が調節しやすいということは言えます。

具体的に、最大のポイントは賃金です。賃金の名目収入を下げるということについて抵抗感があるし、1つの考え方として、それが維持されているから緩やかなデフレが続いているということがあります。それを考えると、緩やかなデフレの下で名目賃金を止めておくとすると、その緩やかなデフレに見合うだけの労働生産性の上昇が全く発生していないと、それは経済全体としてはつらくなる。

そういう意味で、マイルドなインフレーションの状況のほうが経済調整がやりやすいから、そういう状況がさしたるコストなしに実現できるのであれば、私もその方がいいと思っています。

飯尾:
それでは、デフレを止めることはできるのですか。

池尾:
デフレが続いているのは需給ギャップがあるからです。需給ギャップがあるから、価格が弱含みで推移しています。その需給ギャップの大きさというのは、幾らなんだということがあり、それは推計されているものだと、30兆円から50兆円程度の需給ギャップです。GDP比率で言って、6%から10%ぐらいのギャップがあると言われています。このギャップは大きい。というのは、通常の意味のマクロ安定化政策、財政政策とか金融政策で調整すると言われている需給ギャップの大きさというのは、GDPの1%前後のギャップなわけですから。

だから、通常の意味のマクロ政策でどうこうするという話であれば、最大5兆円ぐらいのギャップなわけです。それが、少なくとも30兆円のギャップが現実にはある。そのとき、どうするかという話になります。1つの考え方は、通常のレベルの財政政策を6倍の規模でやればいいんだという議論が当然出てくるわけです。金融政策も、通常の緩和政策の6倍の規模でやればいいんだと。乗数が10のときは1兆円でいい。そうすると、乗数が1になったら10兆円やればいい。乗数が0.1になったら100兆円やればいい。乗数が0.01になったら1000兆円やればいいんです、というような議論です。財政についてはそんな感じで、金融政策についても、どんどん国債を買っていけばいいんだ、と。幸か不幸かたくさん国債があるわけですから。どんどん買っていけば、いずれインフレになるでしょうということなのですが、私は、そういうのは経済政策だとは思わないし、そういうのを本当にまじめに議論できる人というのは幸せだなあ、とか思ってしまいます。

つまり、通常のマクロ経済政策で埋めるという話を超えた需給ギャップがあるわけです。それは産業構造調整で埋めるしかないわけで、産業構造調整は、マクロ安定化政策なんかと異なり、時間がかかります。産業調整と簡単に言いますけど、生身の人間が何十万、何百万単位で職を変わるというような話ですから、そんなに簡単ではありません。そういう意味では、産業構造調整がない限り解消しない需給ギャップを抱えてしまっているのですが、その当の産業調整には、短くたって5年、10年とか20年とかの時間はかかる。そうすると、その間緩やかなデフレが続くという予想をするのは、整合的ですよね。

飯尾:
しばしば言われる「デフレは貨幣的現象だ」という話と今の話は、どういう関係になるのでしょうか。

池尾:
インフレ、デフレは貨幣的現象だというのはレトリックで、ロジックではありません。何といえばいいのか、現実のインフレとかデフレに貨幣的要素とか、貨幣的な側面がないなんていうことは、絶対にあり得ないわけです。必ず貨幣的側面はあり、貨幣的な要因があるわけです。でも、現実のインフレとかデフレは、1から10まですべて貨幣的要因だけにかかわる現象かと言われたら、それは違います。普通に、まじめに考えたらそうじゃないですか。

飯尾:
これは結局、貨幣的な面と実物的な面が混ざり合って起こっているというのが正しい理解だということですか。

池尾:
そうです。だから、貨幣的側面がかなり大きいということは言い得るとしても、ピュアに貨幣的現象であると聞こえるようにおっしゃっている方がいますが、それはレトリックでしかない。その辺のところの経済論議に関してだけ言えば、70年代の頃のほうがもっと真面目に議論していたような感じがあって、70年代の頃はもちろんインフレについて議論していたのですが、インフレにはコストプッシュかデマンドプルかの区別があって、どちらかの理由で価格が上昇し始めたときに、金融的な拡大のサポートがなければ、それは持続できないというような議論でした。金融的な拡大は必要条件ではあるけれども、インフレを引き起こすのはとにかく需要サイドが膨張するか、供給低下の中で起こるという議論をしていました。

飯尾:
そういえば、最近そういうことをあまり聞かないですね。

池尾:
だから、金融的な拡張のサポートがなければインフレにならないというのは、私は今でも正しい命題だと思いますけれども、金融的拡張だけをすればインフレになるという議論はむかしは誰もしていなかった。だから、それはレトリックだとしか思いません。

飯尾:
そうすると、グローバリゼーションとデフレは関係するものかしないものか、どういうふうに見たらよろしいのでしょうか。中には、近代経済学では説明できない現象が、グローバリゼーションの中で起こっていると主張なされている方もいるようですが。

池尾:
何回か申し上げましたが、まだしっかりと説明がついていない現象というのがあるわけです。今、起こっていることの1から10まで、すべて既存の経済理論が説明し尽くせているという状況でないことは明らかです。そのときに、説明できていないことを説明する努力をしなければいけないし、解明する努力をしなければいけないのだけれど、解明するという作業にとって、問題は従来の経済学のパラダイムとか枠組みそのものを変えないと、そもそも無理なのかどうかを考えなければいけません。

ただ私は、伝統的経済学の枠組みの強靭性というのをむしろ信じているほうなので、少し時代が変わると、いつも「従来の経済学が死んで、新しい経済学をつくらなければいけない」という議論はありますが、そういう議論がされた後に結局生き残ってきたのは、何か気がついてみたら伝統的理論だったというのがこれまでの経験則ですから、今回もその経験則の範疇からそれほど外れていないと思っています。

飯尾:
今、起こっているデフレについて、一番説明できないポイントというのはどういうことですか。

池尾:
今までの議論と逆で、急に傲慢になりますが、大枠で不思議なことがあるという気はしていません。細かいところで、もっといろいろと説明しないといけないなと思っていることはありますが、大枠としては、私なりの理解の構図はあって、私自身が日常不安になったり、不思議でちょっとわけがわかんないとか悩んだりすることは、とりあえずありません。

飯尾:
そうすると、いろいろ未知のものはあるけれども、一応は理解できる現象としてデフレということも起こっているということですね。先ほどのお話しだと、10年ぐらい続くことも覚悟しながらやっていかなければいけない、解消した方がいいけれども、手段がそんなにあるわけではないから、時間をかけて手段を講じていくということですか。

池尾:
わざわざゆっくりやる必要はありませんが。できる範囲の中で最良のことをすればいいのです。

飯尾:
デフレ解消のためには、何が一番よいのでしょうか。

池尾:
需給ギャップの解消のために、今の日本の産業構造というのは、潜在的な需要構造とミスマッチを起こしている部分が非常に多いと思います。全体としては超過供給という形になっていますが、実は、目に見えない超過需要がいっぱいあります。

それは、財ではなくてサービスで、例えば医療ですね。ある病院なんかひどいところで、外来患者を平気で3時間待たせるわけです。誰も好き好んで3時間も待ちたいなんて言う人はいないはずで、3時間も待っているということは行列ができているということですから、それを超過需要と言わないで何と言うんだという話になります。アメリカの例なんかを見たって、医療、介護、福祉が雇用をつくりだす大きな分野になっています。よく言われますけれども、総人口の10%ぐらいの雇用者数を、アメリカは、今言った医療、介護、福祉とかいう部門で、日本の建設業の雇用者に割合的には匹敵する雇用をそこで生んでいるわけです。だから、日本だってアメリカ以上に高齢化するのですから、医療サービスに対する医療福祉需要があるはずです。

需給ギャップを調整するために産業構造調整が必要だと申し上げたのは今言ったような意味で、スクラップとビルドの両方が必要で、既存の産業に関しての過剰能力をカットしていくというスクラップはもちろんやらなければいけないわけですが、サービス産業のところで雇用を生み出すようなビルドを基本的にやっていく必要があります。そういうことをしたって、労働が移動するのはなかなか難しい。必要とされている労働移動というか、産業構造の転換のイメージは、過去の日本の経験で言うと、石炭産業から石油にエネルギー資源が切りかわったときに石炭産業で働いていた人を他に移していったくらいの規模の産業構造調整が必要です。でも、それも大変でしたよね。だって、高度成長期で成長率が高かったときでも難しかった。それでも結局、最終的に移れなかった人がいますよね。炭鉱で、当時40歳以上とか。

日本全体がそういう話で、移りたくない人は移りたくないし、全体として高齢化しているから、それでいろいろ理由をつけて、新しい産業の拡張は止まっていますから、そういうのは仕方がないよなと思います。

飯尾:
そのことと関連してですが、国際経済の情勢と日本の経済というようなことで言うと、基本的に国内的なことをご説明いただいたのですが、そういうことは、国際経済の文脈でも変化というのは起こっているのでしょうか。

池尾:
起こっていますよ、もちろん。1つは、なぜ日本が産業構造の転換が必要になったかということについて、国内要因があると思います。人口構成も変わった、高齢化が進んでいるということで、需要構造が変わってきていますから、それに対応しなければいけないということがあります。もう1つが、冷戦終了以後の世界的な供給構造の変化に伴って、日本の比較優位の構造が変わってきているという国際的な変化です。これは、90年代以降の冷戦終了以後の世界経済の変化の影響がもろに来ているんだと思います。だから、日本の苦境に関して、今でもバブル崩壊から語り始める人が多いですけれども、バブル崩壊という国内的要因が本当に一番大きかったのかということについては、大いに疑問です。

飯尾:
冷戦の終焉、中国の世界市場参入ということも考えないといけないということですね。これとデフレとは関係ないんですか。それとも、これはさっきの話から言うと、構造調整が遅れれば、デフレ要因になるということですか。

池尾:
やはり、中国の参入も供給関数をシフトさせたとは思います。ただ、為替レートというファクターが間に入ります。為替レートが間に入るから、中国から安いものが入ってくると言ったって、円がどんどん安くなればデフレは避けられるはずだということになりますが、それはその通りで、紙の上の経済学としては、そういう面はあります。けれどもその場合に、日本の輸出産業とそれ以外の産業との間の生産性ギャップのようなものが、世界的平均よりもより大きく開いているという事情があります。

飯尾:
それはどういうことですか。大きいとどういう問題があるのでしょうか。

池尾:
物価というのは平均だから、平均が下がらないように為替レートを調整すると、よく言われている話です。購買力平価から言ったら1ドル150円ぐらいが妥当だとよく言いますよね。ただ、150円になったら、日本の自動車産業は、多分北米のビッグ3を全部駆逐してしまうのではないでしょうか。にもかかわらず、平均が150円になってしまうということは、200円でも成り立たないような産業が他方に山ほどあるということです。100円の輸出産業と200円のそれ以外の産業の平均が150円になる、大雑把に言えば、こんな感じなわけです。

飯尾:
為替レートで裁定されないというのは、基本的には、生産性の格差が大き過ぎると、平均値で動く為替レートというのは実態を十分に反映し得ないし、問題解決の手段として幾らかの機能は果たしても、十分な機能は果たし得ないということですね。

池尾:
為替は、要するに、貿易の対象になっているものの間で裁定されますから、円レートを決めているのは輸出財産業の競争力なんです。だから、円安にしたいんだったら、トヨタに業務停止命令をかけりゃいいんだって僕は言っているんですけどね(笑)。

飯尾:
円安になれば全て解決とかいう類のことを言う人もいらっしゃいますが。

池尾:
ただ、円安になるということは、明らかに生活水準を落とすことだというのはちゃんと認識しておく必要はあります。インフレになるということも購買力が失われて、資産の実質価値が失われることだと認識しておくべきだと思います。だから、雇用そのものが失われてしまうより、少し購買力が失われるほうがいいだろうというふうなことで言っているわけで、だから、雇用を失う恐れのない人たちにとっては――私なんかもそれに近いと思いますが――、デフレはウェルカムだみたいな実態もあるわけです。

逆に言うと、そういう立場にいる限り、あまり人の痛みを顧みないようなことを発言するのは止めた方がいいと思います。何と言うのかな、断定的な政策提言をする人は、私の趣味にはちょっと合いません。

飯尾:
日本人としては、みんな一緒に購買力も失って、落ちていったら意外と文句も言うまいという政治的可能性がやや危惧されるので、これをどう捉えるのか、少し考えておかないとと思うのですが。

池尾:
今、1つの社会経済システムが耐用年数を終えつつあって、それが機能しなくなる前に次のシステムがすぐ姿を現してくれるならそれに超したことはないけれども、実際はそういうことはあり得ないから、システムが不安定になる時期が来ますよね。そうすると、そういうことを含めて、移行過程は25年間ぐらいはかかるということですから、その25年間の正念場にそろそろ日本は突っ込むのではないかという感じのイメージです。そこで、結局、いろんなことを言う人がいるので、何か一発逆転的なことの候補が残っている間は、それらを試してみないことにはみんなが納得しないのではないでしょうか。例えば、イギリスも最初から合理的解決には向かわなくて、ひとつひとつわらをもすがるような感じのことでもあれば全てやって、それで失敗して失敗して、それで最後砂をかむような気持ちで「これ以外にない」ということでたどり着いた。それがサッチャーが出てくるプロセスだったわけですから。

2002年12月18日採録 / 2003年9月22日掲載

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総括

池尾教授との対談では、ずいぶんと現実的な政策判断の話が出た。経済政策の実現性を考え抜くと慎重にならざるを得ないとして「一挙解決願望」を強く批判されるのは、政治学者として共感するところが多かった。

そのため、全般的に日本経済の状況不適応を指摘して、構造改革が強く主張されるが、たとえば不良債権問題の処理、それを支える財政の持続可能性の維持について、現在のいわば無知ゆえの安定を崩すことの危険性が強調され、慎重にしかし確実な方法を模索すべきだということになる。

その延長線上にデフレへの処方箋があり、デフレ・スパイラルが起こっていない以上、時間をかけて構造改革を行うことで、需給ギャプを埋めるしかないという結論になり、元に戻る。一見、総論としての構造改革と各論における慎重姿勢が乖離するように見えながら、実際には全体としてはきわめて整合的な議論であると感じた。

2003年9月22日掲載