中国経済新論:中国経済学

自由主義者による新左派批判
後編:如何にして社会不公正を是正するか

劉軍寧
ハーバード大学客員研究員

新左派と自由主義者との間には、理念の違いもあって、貧富の格差、腐敗の蔓延、国有資産の流失といった現在の中国社会の問題に対する病因の診断が違う以上、両者によって提示された解決の方案も根本的に異なっている。

まず、新左派は財産の公有の維持、国家権力の強化を通じて、人為的に財産の平等的分配を行うこと主張する。これに対して、自由主義者は公有財産が現在のように一部の権力者によってほしいままに支配されるのではなく、普通の人々に着実に行き渡らせ、あらゆる人々に本当の自由と公平な競争の機会を与えることを最も重視している。そして、公正な分配を実現するために、市場化改革を中止しなければならないとする新左派の主張に対して、自由主義は、むしろ市場化改革をより一層加速化していかなければならないと考えている。さらに、新左派は、中国における自由化と自由主義を抑制し、官僚達の無私の努力によって、ユートピアのような社会の実現を目指しているのに対して、自由主義者達は、政治民主化を加速させ、小さな政府、法治と憲政を実現することによって、腐敗、権力の濫用、そして貧富の格差を作り出す原因をなくそうとしている。

新左派は、貧富の格差と不公正の分配を解消し、弱者集団の現状を改善するために、政府の再分配機能を大いに拡大しなければならないと主張する。それを実現するために、政府は民間から富を吸い上げる力を強化し、財産を民間から政府に移転しなければならないと考えている。新左派が、不公正な分配の問題に注目していることは良いことだが、その原因に対する診断と処方箋は間違っていると言わざるをえない。

自由主義は急激な貧富の格差を容認はしないが、しかし、強制的な「貧富の格差の平等化」にも反対している。自由主義によって提示された解決案は、競争ルールの公正性を改善し、経済活動の自由を深化させることによって、社会の異なる階層間における財産の再配分を図ると同時に、政府の規模、権力及び支配する資源に対する制限を主張している。自由主義を標榜する人々は、まず中国における弱者集団に対して、それまで与えなかった自由と権利を与えるべきだと主張している。すなわち、「人民の奉仕者」や名目上の「国家の主人公」達も含めて、あらゆる人々が政治的にも経済的にも等しい基本権を持つべきであると主張している。従って、自由主義者はある特定の集団のみが特別な権利を独占する事態はあってはならないと考えている。もし貧しい人々と弱者の権利が保障されなければ、貧しい人は永遠に貧しく、弱者は永遠に弱者の地位に留まるであろう。そして、市場メカニズムの中での公平競争は政府主導の計画経済よりはるかに優れており、政府の役割は、市場を代替することではなく、むしろ市場競争の公平性を懸命に維持することにある。さらに、自由主義は、富が官にあるのではなく、民にあるべきで、貧困の解消にあたっては、政府の介入を最小限にとどめ、民間は自分の意志で慈善活動を通じて取り組むべきだと主張している。

政府は一旦、再分配の権力と資源を獲得すると、社会の関心が財産の生産からその再分配へと移るだろうと、自由主義者は確信している。その中で、効率の低い企業は、政治の保護を求め、効率のより高い企業からの競争を回避するであろう。大きな政府の場合、政治、経済の各分野の意思決定を独占する集団と既得権益を持つ集団がそろって結託し、国家政策の策定及び資源の配分を支配するであろう。したがって、政府は担うべきではない機能や権力を減少し、政府再分配の権限と資源を縮小させ、さらに政府の過度に拡大された規模を制限するために、国家権力に対する監督と制限を行う制度の整備をしなければならない。それは、各レベルの選挙における自由度、競争性と公平性を向上すること、人々が政治へ参加するための制度的なルートを提供すること、そして人々の政治における諸権利を確実に保証すること、さらに民衆の利益が政府の政策策定と意思決定に反映されることなどが含まれる。その上、政府行為の透明性を拡大し、政府が民衆に対し責任を持つようにした上で、世論による監督を強化しなければならない。

現在、経済改革に関する論議の中で、国民の利益に密接に関係している国有資産の私有化問題が回避されてきた。当局は、私有化政策を認めようとしないが、各レベルの官僚が国有資産を私有化する行為を阻止しようとしなかった。このような現象は、本来「国家の主人公」であるはずの普通の人々が国有資産の私有化の過程から排除されていることを意味する。このように、現状では、一部の特権者達こそ、こうした「公有」資産の所有者であり、彼らこそ、民衆から何の監督も受けず、こうした資産を実質的に所有している。このような社会現象は、計画経済及びその基礎である社会政治体制における極度の不公正性を反映している。

新左派は、財産権と経済活動の自由は単に金持ちの人達の関心事であり、普通の人々にとって、それは殆ど無関係であるという見方を持っている。「金持ち」達に対する不満の満ちたこうした主張には、権力者の味方として、財産権と経済活動の自由を統制する意志が暗黙のうちに含まれているだけではなく、統治者と富豪達がそれを特権として継続的に独占することへの容認を包含している。これまでの人類の歴史の中、民衆達は私有財産権を求めるために展開された困難に満ちた追求から見る限り、財産権と経済活動の自由は、普通の人々にとって、最も重要な権利であるが、特権を維持しようとする統治者達はこの二つの権利を民衆に与えることを極端に嫌がる。仮に民衆に財産権を与えることが、国王や統治者の特権に何のマイナスの影響もなければ、統治者は財産権と経済活動の自由を普通の民衆達に与えることに躊躇することはないだろう。その場合、十七、十八世紀にイギリスやアメリカにおける私有財産権と経済活動の自由を求める激しい革命運動は民衆達によって起こされなかったであろう。さらに、新左派は、社会公正と貧しい人々の利益のために、中国経済の市場化進展を抑制あるいは中止し、私営経済の発展や国営企業の売却を止め、財産権と経済活動の自由を取り締まらなければならない、と主張している。

自由主義は、統治者や金持ちだけが財産の特権を独占することに反対し、財産権をすべての人々に行き渡る普通の権利になるよう努力している。貧しい人々は、一部の新左派の革命言論に惑わされず、財産権、政治参加権を含む権利、そして経済、政治面の自由を求めるべきである。革命の目的は、財産を奪うことにあり、民衆に自由と権利をもたらす制度を確立させるものではない。一旦、地主、資本家が全部消滅し、土地も全部分配されると、奪った財産がただちに消費され、民衆達が財産権と経済活動の自由を失い、最終的は極限の貧困状態に陥るであろう。もし政府があらゆる人々の福祉を保障する名目で資源の全部を支配する計画経済時代に逆戻りしても、その行き先は失敗に決まっている。もし非自由的で、不公正な、歪んだ市場の状態が分配の不公正をもたらしたとすると、すべての人が市場の中で公平の機会に恵まれ、十分な財産権と経済活動の自由を享受できるように、中国の市場経済をより自由かつ公平的なものに変えなければならない。そして、市場経済において、人々が正当な方法によって自らの正当な収益を獲得することを奨励することも大事である。政府は、人々の合法的な収入を確実に保護し、憲法と法律の形で人々の財産権を認め、私有財産の不侵害性を保証しなければならない。これと同時に、透明かつ公平な計画をベースに、国有企業の改革を加速させる一方、すべての土地を農民達に戻し、彼らの自らの意志による土地の使用、継承と売却を許可すべきである。

一部の人々は、金持ちから金を取ることが貧富の格差を解消する最も有効な方法であると考えている。具体的には、金持ちに対して、利子税、多額の相続税、株取引所得税、累進所得税といった再分配政策による非暴力的略奪を行うべきだという。こうした略奪論には強烈な「金持ちに対する憎しみ」の心情が含まれているが、しかしその考えは決して賢いわけではない。その原因は非常に簡単である。不当な手段による成金達は確かに憎むべき存在であるが、しかし、権力に対する有効な監督体制と制度がいまだに形成されておらず、腐敗者はほしいままに権力を悪用している現在の中国社会では、以上のような税収措置は真面目に法律を守る人々の利益を損害する代わりに、法律の隙間を悪用する人々をかえって保護することになる。言い換えれば、最終的に、不当な手段で成金となった人々の利益は保護されるが、損害を被っているのは、むしろ合法的な手段で富を手に入れた人達である。実際、依然として権力を握っている「陳希同、王宝森」()達にとって、腐敗による非合法収入は公にされることがないため、当然、納税の対象範囲に入らず、あらゆる徴税の手段も彼らと関係がないのである。

一方、こうした税金を重くする手段は、間違いなく多くの「陳希同、王宝森」達に不当な収入を獲得する機会をもたらす一方で、普通の人々(都市部に野菜などを売りに来る農民達)への税負担を拡大させ、結果的に、貧富の格差をさらに拡大させるであろう。仮に税収の殆どを国に納めることが出来ても、その使用過程の中に、「陳希同、王宝森」達は依然として無限と言ってもいいほどの横領の機会がある。新聞さえ読めば分かるように、貧困解消の基金、災害救済の基金、そして退職者への年金や補助金に関わる汚職や横領の記事は数えきれないほどに多い。従って、現在の体制の下で、上述した「金持ちから財産を奪い、貧しい人々を助ける」ことを目指す措置は、最終的に「貧しい人々から財産を奪い、金持ちの人々を助ける」という結果をもたらしかねない。「貧富の平等化」という目的が達成されるどころか、逆に、莫大な利益が腐敗した官僚達のポケットに送られてしまうのである。従って、問題だらけの税収システムに対する有効な改善を行う前には、民間からの財産の徴収を強化するよりも、むしろ緩和すべきである。有効な監督メカニズムを形成してから、健全な税収制度がはじめてその役割を発揮できるのである。しかし、社会の各集団間の収入における不公正を克服するには、高い所得税を頼りにすることは避けるべきである。同じ理由で、地域間の経済格差を解消するには、単純に「一部の地域から財産を奪い、それを他の地域に補填する」発想も当てにならないのである。

自由主義によれば、貧しい人々に自由を与える時、独占権力を持つ利益集団あるいは政府機関だけは、従来の利益に対する独占を失うという損失を負うことになる。これに対して、政府が貧しい人々に提供する物質と福祉はまさしくほかの一部の人達から奪ったものであり、仮に政府は一部の人々に物質と福祉の提供を約束する時、それはその分だけ、社会からより多くのものを徴収する機会が増えることも意味している。従って、貧しい人々に自由を与えることによって、政府は損失を被るが、貧しい人々に福祉を与えることで、政府は損失を被るどころか、各レベルの政府はより多くの利益を受けることになる。一部の新左派の学者達は、まさしく政府の立場に立って、経済活動の自由と財産権を大いに批判している。彼らは、政府が民間から財産を獲得する度合いを高め、貧しい人々に経済活動の自由ではなく、むしろより多くの福祉を提供すべきだと主張している。その結果はまさしくわれわれが目のあたりにしたように、官僚がますます金持ちとなる一方、貧しい人々がますます貧しくなるのである。

官僚システムに腐敗がなく、行政の効率が非常に高い国家においても、貧しい人々を助ける善意は、決していつも良い結果に導かれるとは限らない。例えば、最低賃金を強制的に規定する法律の意図は、間違いなく社会的弱者の集団を助けることであるが、ノーベル経済賞を受賞したダグラス・C・ノース、そしてロジャー・L・ミラーは、The Economics of Public Issues(邦題『経済学で現代社会を読む』)の中で、「最低賃金に対する研究によると、最低賃金法は、所得分配で最も低い段階の労働者達の経済的地位を一層低下させた。(中略)ある意味で言えば、最低賃金が有効的、強制的に実施されたことは、一部の人々の就職機会を減少させたのである。こうした人々の生産性があまりにも低いため、彼らの限界生産価値は法律で決められた最低賃金を下回る。従って、最低賃金の規定は、訓練を受けたことがなく、技能の持たない労働者、すなわち、少年労働者、少数民族、老弱の労働力にとって、失業そのものを意味する」と分析している。

不当な貧困解消政策は、貧しい人々の増加と金持ちの減少をもたらすかもしれないし、貧困を解消する政策が結果的に貧困を大いに拡大させてしまうのである。例えば、政府は家計年間収入が一定のレベル以下の家計に補助金を与えることを宣言すると、本来、その線を越えた家計は、意図的に仕事を減らし、収入を減少させることによって、補助金を獲得しようとするであろう。その結果、そうした補助を必要とする家計の数量が急激的に増えるであろう。仮に、政府は、財産が一定のレベルを超えた家計に対して重税を課すと、そのような家計が間違いなく急激に減少し、その財産はすばやく移転され、あるいは隠されるであろう。

一部の社会公正の問題に関心を寄せる人達は、中国が社会民主主義の道を歩むべきであると考えている。確かに、社会公正の問題は、現在、そしてこれから長い間、中国にとって大変重要な問題の一つである。それは、中国における貧富の格差の深刻さが、世界的にも有数であるだけではなく、しかも、仮に中国が本当に民主化を実施しても、相当な数の人々がいくら勤勉に働いても、貧困から脱出することができないためである。従って、これから、相当の長い期間にわたって、不公正な分配の解消は最大な政治、経済と社会の課題の一つになることが考えられ、社会民主主義の主張は中国において、多くの支持者がいるはずである。社会民主主義は確かに人々の社会的公正の問題に対する注目度を高めることができるが、しかし中国現在の情況では、政府の再分配の度合いを強化しようとする社会民主主義的な措置は、逆に官僚の汚職を助長するのみである。従って、社会の不公正を拡大する可能性のある方法で社会の不公正を解決してはいけない。一方、西側諸国における社会民主主義の動向は、中国とは全く逆であることも注意する必要がある。

西側の民主国家では、社会民主主義者がますます自由主義寄りの趨勢を見せている。民主政治制度の下での社会民主主義者は、もはや社会主義の主張にこだわらなくなり、むしろできるだけ与党になり、福祉政策を通じて、社会公正の実現しようとしている。民主社会では、経済の自由と分配の公正は、対立関係にあるが、いずれも絶対的優位を持つことがなく、両者の間でのバランスを求めるしかないのである。与党が選挙のために民衆の要求を考慮して政策を調整したり、あるいは経済政策の主張は完全に異なる政党が交替で政権を握り、政策上での行き過ぎを是正したりするかたちでバランスがとれたのである。社会民主主義が比較的主流となっている西欧諸国の根本的な制度は、自由主義の原則に基づいて確立されたものであり、憲政民主と分権法治を実行するにあたって、与党の権力が監督、そして制限を受けており、従って、強制的な再分配政策の度合いは、限られたものである。

しかし、中国では、社会民主主義の観念を持つ一部の人々は、収入格差と腐敗が市場経済及び改革によるものであると考えており、依然として分配における絶対的平等を望んでいる。中国の特定の政治環境と歴史を考えれば、このような主張は伝統的な社会主義に結びつきやすく、社会民主主義の拡大と発展は、客観的に伝統社会主義の残存勢力を強化するかもしれない。しかも、民主制度が存在せず、権力が監督と制限を受けないという中国の現状では、政府に資源に対するさらに大きな支配権を与えると、その結果は、軽ければ、構造的な腐敗の発生、重ければ、中国の六十年代初めあるいは現在の北朝鮮のような大飢饉が再現されるかもしれない。また、今日の中国では、公平と公正が完全に欠如している。仮に腐敗と貧富の格差に対する民衆の不満が爆発し、民間から腐敗を調査ならびに取締を強化し、腐敗した官僚を罰することを求める機運が高まる時、社会と経済に巨大な破壊力を与える革命が再び到来しかねない。仮に、不幸なことに、そのような局面が本当に発生すると、中国は長期にわたる混乱期に突入せざるを得ないであろう。社会民主主義を主張する人々は、真剣にこの問題を考える必要がある。

自由主義によって提唱された自由市場経済と憲政民主制度ほど貧しい人々の利益を考慮した経済制度が存在しないことは、歴史の経験によって実証されている。その中で、最も明らかな証明は、民主政治と市場経済が比較的によく整備された国から、貧しい人々が決して計画経済国家や第三世界の独裁国家に移民しようとしないことである。どのような体制は、貧しい人々にとって有利であるのか、人々の「足による投票」がすでにその結果を十分に示している。自由経済政治体制を実行している自由社会は、あらゆる非自由の社会よりも、貧しい人々の物質と精神の要求を満足させることができる。このような自由社会は、絶対多数の貧しい人々(移民された貧しい人々と難民を含む)が貧困から脱出する機会を与えている。誰でも法律によって保証される財産権と経済活動の自由の力を借りながら、自らの勤勉さと創出性を通じて、自らの生活状況を改善し、中産階級あるいはもっと高い社会階級への仲間入りを果たすことができる。市場経済と自由民主は、あらゆる経済体制よりもっと有効な経済制度と政治制度であるだけではなく、あらゆるその他の経済制度、政治制度よりも貧しい人々にとって、公正的、利益をもたらす制度である。

2003年4月21日掲載

脚注
  • ^ 王宝森:当時の北京市常務副市長であり、高額の公金横領や個人的流用事件が発覚すれることを恐れ、1995年4月に自殺した。さらに、当時の北京市市長、共産党中央政治局委員を務める陳希同氏がそれに対する重大な責任を負うことによって、解任、そして逮捕され、後に懲役16年の有罪判決を言い渡された。
出所

「自由主義与公正:対若干詰難的回答」、『当代中国研究』2000年第4期より抄訳
※和文の掲載にあたり同誌より許可を頂いている。

関連記事

2003年4月21日掲載