中国経済新論:日中関係

歴史の回顧と展望
― 中国の歴代指導者の論述に啓発されて ―

馮昭奎
中国全国日本経済学会副会長

最近、私は「日中国交正常化三十周年画集」(人民画報社、2002年7月出版)の編集に携わった。その際、中国の歴代指導者の日中関係に関する論述を掲載するため、毛沢東、周恩来、鄧小平、江沢民という4人の指導者の日中関係についての論述からそれぞれ言葉を選んだ。本文ではこうした中国の三代にわたる4人の指導者の論述を通じて、日中関係についての私の感想を述べたいと思う。

一、毛沢東:「われわれ二つの民族は、今や平等となった」

1955年10月15日、「日本国会議員訪中代表団」との談話の中で、毛主席は、「われわれ二つの民族は、今や平等となり、(われわれが)二つの偉大な民族である」と日中関係を簡潔かつ的確に指摘していた。

毛主席のこの言葉は、二千年にも及ぶ日中関係の歴史を高い見地から総括しているといえよう。

日中両国が交流を開始してから現在に至るまで、両国の関係には三つの状態があった。一つ目の状態は、紀元57年に倭奴国の国王が東漢に使者を送ってから、1868年の明治維新までの間である。この間、中国の歴代王朝の盛衰の結果による交替があり、チンギス・ハン、フビライ・ハンによる日本への攻撃や、江戸幕府による鎖国などを経験しながらも、日本は中国文化を吸収していった。中国は東方文化の中心であり、日本は積極的に中国文化の導入を図った。日中関係は「弱強型」(日本が弱く中国が強い)ではあったが、友好交流が両国関係の基礎としてあった。

二つ目の状態は、明治維新から1972年の日中国交正常化までの間である。この間、1894年の日清戦争や、1931年から1945年までの日本の中国に対する侵略戦争があった。この時期の日中関係の特徴は、日本がアジアにおいて唯一の工業化国家となり、一方の中国は半封建・半植民地国家となり、1949年になって、ようやく「立ち上がった」ということである。日中関係は「強弱型」(日本が強く中国が弱い)となり、両国は長い間戦争状態にあった。

1949年に中華人民共和国が成立し、1952年には日本も独立を獲得したが、このことは、こうした二つの独立国家の間における平等な交流の必要条件を提供した。しかし、50年代から60年代にかけては、両国における一部の民間交流を除けば、日中関係は基本的には対立・断絶の状態にあった。そして1972年、日中国交正常化が実現したことによって、両国はようやく平等な交流のスタート・ラインに立つようになったのである。まさにこうした背景を考慮すると、毛主席の「われわれ二つの民族は、今や平等になった」という言葉はさらに重みを増して感じられる。

両国の実力を比較すると、日中関係は二千年にわたる「弱強型」「強弱型」からようやく三つ目の状態―「強強型」の関係に向かうようになった。しかし、この二つの国家が強大になるプロセスにおいて、中国は経済の実力において日本と大きな格差をつけられてしまったため、日中関係が成熟した「強強型」の関係になるまでにはまだしばらくの時間が必要である。

そのため、日中関係が初めて「強強型」の関係に向かうようになったことに関し、日中両国はいずれも国民感情と外交の思考において調整を行う必要がある。特に、百年にわたり一貫してアジア地域において一人勝ちをし、「周辺国がいずれも弱小国」であるという状況に慣れ、さらに経済面において中国を一貫して凌駕し続けた日本にとって、認識上の調整が必要である。特に、思想感情においてアジアが工業化を通じた現代化へと加速しているという新しい事実を認め、日増しに台頭するようになってきている周辺諸国に「適応」することに励み、それらの諸国との平等な付き合いを行うよう取り込むべきである。

しかし、人口が多く、領土面積が非常に大きい中国がますます強大になろうとすることは、日本にとっては素直に受け入れがたい事実であろう。したがって、日中関係が第二次世界大戦後のフランスとドイツのように成熟した「強強型」の関係になるまでは、しばらくは難しい局面が続くであろう。おそらく両国の間には、協力し合う面と摩擦し合う面が同時に存在することになるであろう。こうした摩擦が、両国の国民、そしてアジア地域全体に巨大な利益をもたらす相互協力を破壊するほどの悪い影響を与えないようにコントロールすることが、両国の外交の中心課題の一つになるであろう。

二、周恩来:「日中両国の工業化こそが、平和な共存共栄への唯一の道である」

1954年10月11日、周総理は日本の客人と会談した際、次のように述べた。「おそらく皆さんはこのような質問をするでしょう。中国が工業化を実現した。日本も工業化を実現した。それでは衝突が生じるではないか、と。物事とは変化するものです。仮に日本が永遠に工業国で中国が農業国だとしたら、両国関係はよくならない。・・・日中両国の工業化こそが、平和な共存共栄への唯一の道なのです。」

周総理のこの言葉は、日本の明治維新以降の百年間にわたる日中関係の歴史を高い見地から総括したものといえよう。

1868年の明治維新以降、日本は工業化の道を歩み始めた。そして第二次世界大戦以降、戦争による廃墟の状態から、民間技術を利用した発展路線を大いに推進してきた。そのため日本の工業化は、「人々の生活に入り込む」(例えば、電話、自動車及びテレビなどの家庭用電気機器の発明と普及など)という20世紀の工業化の主流に見事に合致し、どの国よりも早く成功にたどりついただけではなく、魚が水を得たように自由自在に使いこなすレベルにまでになったのである。

5、60年代の高度成長期を経て、日本は真の意味での重化学工業化を実現した。1983年、日本の機械製品の輸出がアメリカを抜いて世界第一位となったことは、日本が名実ともに「世界の工場」となったことを意味している。

しかし、1990年のバブル崩壊以降、日本経済は10年以上も続く低迷期に突入した。国内需要の低迷と生産コストの高さによって、日本の製造業の活動が徐々に海外へと移転するようになり、日本国内の工場はやむを得ず合併したり、あるいは閉鎖するまでに追い詰められていた。いわゆる「産業空洞化」の問題が生じたのである。

これに対し、日本にとって「失われた十年」であった90年代は、改革開放を実施した中国にとってはまさしく「収穫の十年」であった。中国国内における改革を求める力(内圧)と外資による推進力(外圧)の総合作用の下で、中国の工業化が大いに進められ、「メイド・イン・チャイナ」の輸出品が世界各地に流れ込むようになった。WTO加盟を実現したおよそ半年前の2001年末には、中国に対する海外直接投資の増加は新たな記録を作った。その結果、日本の一部の人々は、中国が世界の工場になるのではないかと主張し、そして中国の製造業の台頭によって日本人の雇用が大量に奪われるのではないかと懸念し、中国の工業化を「中国脅威論」と絡めて考えるようになったのである。

これがまさしく周総理が50年前にすでに洞察し、予見した問題である。「中国が工業化を実現した。日本も工業化を実業した。それでは衝突が生じるではないか」。しかし、もし具体的に中国の工業化と日本の工業化との関係、さらには両国の「衝突する」具体的な領域を分析してみると、周総理が述べた「日中両国の工業化こそが、平和な共存共栄への唯一の道である」との言葉が先見性に満ちていることに感心するだろう。

第一に、経済のグローバル化時代は、企業にとって世界に進出する時代である。中国における工業化の進展は、日本などの先進諸国の製造業企業に新たな発展の舞台を提供した。ある日本の大企業の責任者が、「現在、日本の製造業の舞台は中国である」と語ったように、多くの日本の企業が中国で経営活動を展開し、獲得した利益を日本国内で将来性のあるハイテク産業に投入している。

第二に、中国などの発展途上国が日本に安価な工業品を輸出することは、日本の消費者に利益をもたらすだけではなく、日本の構造改革を促す側面も持っている。結局、それは日本のためになる。日本の物価は非常に高いが、安い「中国価格」の衝撃を受けることは、日本がその「高いコスト・高い物価」の経済構造を転換させることにとって有益である。

第三に、仮に日中両国の工業化がいくつかの分野で「衝突」をしても、そうした「衝突」は主に「衰退産業」の分野に発生するものである。こうした「衝突」は、日本にとって、一時的で局部的な痛みをもたらすかもしれないが、一方で、日本国内の経営資源をこれらの「衰退産業」から成長分野へと移転させ、日本の産業構造の高度化を推進させることにより、日本のハイテク製品・高付加価値製品・部品などの中間財の「世界的な供給地」としての地位を強化する役割を持っている。

第四に、日本は自身の力で改革を断行する国家ではないということである。明治維新は、欧米の列強が日本に対して開放せよとの圧力をかけた結果である。その象徴が黒船の到来である。戦後の改革も、主にアメリカによる占領という外部の力によるものであった。現在の日本の改革を推進させる外圧は、まさしく経済のグローバル化による衝撃であり、日本の生産者の一部から「21世紀の黒船」と見なされた「中国の安い製品価格」はまさしくこうした衝撃の一つである。

したがって、日中両国が一貫して改革開放路線を維持し、特に日本が今以上にアジア諸国に対して開放し、中国を始めとするアジア諸国との協力体制を強化することができれば、周総理が述べた日中両国間の「平和な共存共栄」は必ず実現されるだろう。

一方、『中国工業発展報告(2002)』で指摘されているように、欧米や日本など、これまでに工業化を実現してきた主要工業国の総人口は7億しかなく(しかもこうした国々は工業化を実現した頃、人口はそれぞれ数千万に過ぎなかった)、世界総人口のわずか12%である。それだけの工業化は200年という時間軸の中で、わずか7,8ヶ国によってしか実現されなかったのである。これに対して、中国の総人口は13億で、世界総人口の五分の一以上を占める大国であり、わずか数十年のうちに一気に高度工業化を達成しようとすることは、人類史上ではかつてない現象である。それが全世界に巨大な影響(環境に対する影響も含む)を与えるのは当然である。したがって、われわれは「自己認識」を正確に行い、中国の台頭がアジアないし世界にもたらす新しい現象と問題を客観的に評価する必要がある。われわれは周総理の指摘を真剣に聞き、日本を含むアジア近隣諸国との「平和な共存共栄」の方針をよく把握し、日本をはじめとするアジア近隣諸国との関係に対処すべきである。

三、鄧小平:「日中間の『友好』の重要性は、あらゆる『問題』のそれを超えている」

1984年に鄧小平が日本の中曽根康弘首相と会談した際、こう語っていた。「昨年、私たち両国の指導者は、東京で非常に先見性に満ちた決定を行った。すなわち、日中関係を長期的視野の下で発展させ、まずは21世紀、そして22、23世紀と、日中友好の方針を永遠に貫くことである。この重要性は、われわれの間のあらゆる問題の重要性を超えている」。

こうした鄧小平の言葉は、日中国交正常化以来の30年間にわたる日中両国の関係を高い見地から総括したものといえよう。

1972年の日中国交正常化以来、両国は、経済、政治、文化などの領域における交流をさらに深化させてきた。そして1994年以降、日本が中国にとっての最大の貿易相手国となり、中国が日本にとっての第二の貿易相手国となった。

しかし、30年間という日中関係の発展の中で、問題も決して少なくなかった。特に歴史認識に関して両国の間に一連の摩擦が発生した。そして2001年には、ネギなどの農産品をめぐる貿易摩擦問題、さらに今年になって、瀋陽総領事館事件が起こった。

その中で、一部の日本の政治家による、侵略戦争の歴史を否定しようとする発言や行動は、中国の国民感情を著しく傷つけた。しかし、日本の右翼の侵略戦争を美化する発言や行動に対する中国側の反論は、逆に日本国民に様々な反応を引き起こした。その結果、非理性的な要因が日増しに拡大し、両国の正常な関係に悪影響を及ぼした。

こうした状況の結果、日中間の外交はひたすら両国間で多発している問題への対応に追われ、またこうした問題を対処する際、国民感情と理性の間でのバランスをとらざるを得なかった。

外交政策における意思決定者にとって、日中間の「問題」は具体的なものであるが、「友好」はますます「抽象的」になってきた。そして、日中間には各種の問題が多発しているため、日中両国の間でより重要なのは、果たして「問題」の解決か、それとも「友好」かという判断の障害となっている側面がある。

しかし、日中国交正常化後30年間の歴史が、鄧小平の発言の正確さを物語っている。すなわち、日中間で「永遠に友好関係を続けなければならない。このことの重要性は、われわれ間のあらゆる問題の重要性を超えている」ということである。両国間の「友好」があらゆる問題より重要である理由は以下のとおりである。

第一に、日中関係、特に経済関係は、先進的生産力が国境を越えて発展することを意味する経済グローバル化という潮流に乗って発展してきた。先進的生産力、先進的文化、さらには民衆の利益を代表している中国共産党(「三つの代表」)も、日中間の交流、特に経済交流の重要性を十分認識している。

第二に、これまでの事実は、日中両国が「協力すれば共に利益を得、闘えば共に損をする」という原則の正確さを物語っている。戦後、日本で広く展開された日中友好運動は、「日中再び戦うな」、そしてそれによって日中関係を「共に利益が得られる」ようなものにすることを目標としたものである。逆に、「日中友好」に反対する右翼は、「好戦」という一面を持ち出して、核武装を発展しようとすら宣言している。しかし、二回にわたって原爆を経験してきた日本国民は、「日中再戦」が何を意味しているのかをよく承知しているはずである。軍事技術が日々進歩する現代において、日中両国は「闘えば共に損をする」だけではなく、「共倒れになる」可能性が非常に高い。従って、日中友好が「われわれ間のあらゆる問題の重要性を超えている」との鄧小平の発言には、深い意味合いが含まれている。言い換えれば、どんなに大きな問題であっても、両国間の平和という大局に従うべきである。先日、鳩山由紀夫民主党代表が中国を訪問した際、「二度と戦わないアジアの共同体」を提案し、かつての人間の悲劇を再び起こさない決意を表明した。

第三に、「友好」が最も大事であるもう一つの要因は、日中間の諸問題が、日中友好をひたすら推進し、両国の関係を絶えず発展させることを通じて初めて解決できるということである。問題に直面した際、すぐ日中友好を放棄するということであれば、結局は問題の解決にはならない。

第四に、もし日中間の問題が「局所的」で、日中関係を発展させることが「大局的」であるとすれば、さらに重要な側面が存在する。日中関係を発展させることがアジア全体の利益に関わるということである。言い換えれば、日中両国が協力すれば、両国が利益を得るだけではなく、他のアジア諸国も利益を得る、逆に両国が戦えば、共倒れするだけではなく、他のアジア諸国も道連れになってしまうのである。慶応大学の榊原英資氏は、「アジアの時代を決めるカギは、日中間の歴史的和解である」と述べた。日中両国はアジアにおける大国同士としてアジアの富強を担っているという責任を自ら認識し、良好な両国関係を築き上げる上で、アジアの地域協力の基軸となるよう努力すべきである。

四、江沢民:「日中友好は結局、両国民の友好に尽きる」

2000年5月20日、江沢民主席は、日中文化観光使節代表団との会談で、次のようなことを述べた。「日中友好は結局、両国民の友好に尽きる。」

江沢民主席のこの発言は、今後の日中両国の関係を発展させていくカギを含んでおり、かつ日中関係の発展の本質と基礎を正確に語っており、非常に重要な意義を持っている。

第一に、日中関係の未来は、結局は両国の国民の努力によって作らなければならない。なぜなら、「人民こそ歴史を作り出す原動力である」からである。

第二に、日中友好を掲げることと、それに反対する勢力と戦うことは同時に進めなければならない。日中関係に、いかなる問題、紆余曲折があっても、「両国民の友好」という基本さえ把握できれば、日中友好を破壊しようとする勢力は、結局、失敗の運命をたどるだろう。つまり、われわれは一部の人に利用されてはいけない。そういう人は、日中友好の流れとそれに反対する勢力との対立を、両国民間の対立にまで拡大しようとしている。そして「相手に強い態度を見せつけるほど、政治的に有利な立場になる」という歪んだ局面を作り出すことを望んでいる。

第三に、日中関係を発展させる最も有効な方法は、両国民の間の交流を拡大させ、相互理解を深めることである。日中友好に反対する勢力が最も恐れるのは、日中両国民間の友好が拡大されることである。うそつきの人が最も恐れるのは、真相が人に知られてしまうことであるということと同様である。従って、こうした人々は、ひたすら日中両国の民族間の対立の気持ちを煽ろうとしている。両国民間の交流を完全になくすことが彼らの狙いである。これに対して、日中両国の友好を強化し、両国の交流を拡大させることは、日中両国民がお互いの理解と友情を築き上げるということで有益である。

第四に、「友好」と「協力」を日中関係を推進させる二つの「車輪」と位置付けるべきである。要するに、「友好」によってもたらされる精神的なものを強化できれば、「協力」によってもたらされる物質的な利益をも享受することができる。「物質」と「精神」の両面から、日中関係をさらに深化させるべきである。また、ヨーロッパの経験が示しているように、国と国との経済協力を深化させることは、安全保障の面においても、良い影響を及ぼすであろう。

第五に、「日中友好は結局、両国民の友好に尽きる」との言葉は、両国の外交において、できるだけ草の根まで気を配るべきであることをわれわれに示唆している。われわれにとって、「普通の人の感覚」で人の本音を常に理解しようとする姿勢は非常に重要である。特に、現在はインターネット時代であるため、人々はより多くの情報を簡単に把握することができ、また自分の意志をより自由に表現することもできる。「国民の力」を重視するならば、「インターネットの力」を十分認識し、情報化時代における民間交流の役割を活用できるように努力すべきである。

結論として、日中両国の友好を強化し、両国民間の交流を促進させることは、中国の外交にとって非常に重要なカギとなることは間違いないであろう。

2002年8月12日掲載

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