最近多くのメディアにおいて、中国のユーザーと日本企業との矛盾が盛んに報じられている。メディアの報道によれば、日本企業数社の製品とサービスには問題があり、批判されるのは、至極あたりまえのこととされている。しかしながら、筆者は、一部の感情的な報道には注意しなければならないと感じている。
一例をあげれば、ある論者による次の記事である。「最近、日本企業のある種のやり方に人々の関心が注がれているようだ。東芝のノートブックパソコンから、三菱自動車のパジェロ、さらには2001年1月27日の日航機JL782事件に至るまで、日本のビジネスマンは、中国のユーザーに対して、一貫して別の基準を執行してきたのである。ある専門家によれば、こうした"ダブルスタンダード"の存在は貿易上の差別であるという。自らの製品とサービス上の欠陥のために、中国のユーザーに対して不都合、さらには肉体的、精神的な損害と人格への侮辱をもたらしながらも真摯に反省することなく、むしろこれをごまかして一時しのぎをし、欠陥を指摘されれば、屁理屈をこねる。日本企業のこうしたやり方と、彼らが誇りとしている「敬業」の精神や職業道徳とは、大きく食い違っていると同時に、こうしたやり方は、国際的な商業規則に対する、一種の無視であり破壊行為であるともいえよう」(某夕刊2月17日付記事参照)。
上述のいくつかのユーザーによる提訴の状況は千差万別であるが、中国ユーザー(いくつかのメディアを含む)の日本企業に対する批判は似かよっている。
東芝のノートブックパソコンには、設計上の問題があり、メディア報道によれば、東芝は、米国のユーザーに対して10億ドルの賠償金を支払ったという。さらに「東芝は、米国のみに賠償金を支払い、中国のユーザーにはこれを行わなかった」とのことであるが、なぜ東芝は、中国のユーザーを侮辱するようなことをしたのだろうか。
日航機が天候の都合で大阪の関西国際空港に足止めされたときに、日本人と他の外国人には便宜がはかられたが、中国の旅客に対しては、充分な食料と宿泊場所が提供されず、中国人の人権を傷つけ、中国人は精神的な損害を被ったとのことであった。日航側は、なぜ中国人に対して、民族的な差別をしたのであろうか。
三菱自動車が、日本の国内市場を含めて約40万台の潜在的な欠陥のある車について、リコールを実施した。リコールの対象となった車種は、パジェロ、ディアマンテ、ギャラン等がある。しかし、我国にある7.2万台のパジェロV31とV33の四輪駆動車はこれに含まれていない。ある記者によれば、「何と言おうと、三菱から日航にいたる出来事を含む、中国ユーザーに対する日本の差別は否定できない」という(某朝刊2月22日付記事参照)。
実際のところ、既に公にされた事実に基づけば、上記事件の実際の状況と中国メディアの報道の間には多くの相違点があり、この相違点によって、我々のなかでも、上述の観点とは異なる見方が出てきているのである。
東芝は、米国のユーザーに対して賠償金を支払ったが、中国のユーザーにはこれを行わなかった。しかしながら、ヨーロッパのユーザーにも賠償していないばかりか、自国日本のユーザーに対してもこれを行っていないのである。我国のメディアは、こうした実情を知らなかったのだろうか。もし、こうした事実を知らずに、東芝が中国のユーザーを差別したと責めるのであれば、これは明らかに無知によるものであり、また、事実を知りながら、東芝が中国のユーザーを差別したと責めるのであれば、これは、ユーザーを煽動しているという疑いは避け難い。東芝が中国人に賠償しないとすれば、それは中国人への差別であるが、それならばヨーロッパ人と日本人に賠償しないのは、これもヨーロッパ人と日本人を差別していることになるのだろうか。ヨーロッパ人と日本人は、なぜ、東芝に国による差別をしていると抗議しないのだろうか。
日航機が、関西空港に足止めされて、約100名の中国人乗客が、空腹と寒さに苦しめられたというが、このほかにいた1500人の外国の乗客も、同じような目にあっているのである。違いはといえば、中国人乗客は空港の入国検査所の外にあるホールにいて、他の乗客は入国検査所の中のホールにいた、ということである。中国人は、入国検査を受けなければ通関できなかったのであり、これは、日航側の問題ではなく、日本の入国管理の問題ではないだろうか。日航側のサービスは、中国人と他の外国人に対して、同様の問題を生じていたのだが、なぜ一部の中国人旅客は、「民族的差別」を受けたと感じて、1000万円の損害賠償を要求したのだろうか。そして、なぜ他の外国人は、日航による「民族的差別」を訴えて、日航または関西空港に対して損害賠償を要求しなかったのだろうか。
我国の一部のユーザーとメディアが、繰り返し「民族的差別」であると非難して、民族としての尊厳を強調するということの本意自体は、悪いことではない。しかしながら、ここで考えてみる必要があるのは、どのような民族が、他の民族からの尊重を勝ち取ることができるのかということである。
他の民族からの尊重を勝ち取ることができる民族とは、すなわち、自らを高め、自信を持った民族である。
日本を含む世界各国には、中国に対していささかの偏見があることも事実である。しかしながら、多数の日本人を含む多くの人々は、我々に対して友好的であり、かつ我々を尊重している。問題は、我国の一部のユーザーは、なぜ、ひとたび外国企業との間に問題が発生すると、これをすぐに民族的差別を受けたと感じてしまうのか、ということにある。なぜ侮辱された、または差別を受けたという意識が、常に先進国に向けられてしまうのだろうか。人は、自分が侮れば、人から侮られることになるのである。これまでの100年にわたって、我々は、世界の民族の中で自立すべく努力を続けてきた。新中国の建国は、中国人民が立ちあがったことを象徴するものであり、改革開放から20年、中国の人民経済は、基本的に貧困を脱して、富裕と強大へと向かっている。中国の発展と進歩は、世界から注目されているのである。中国は、既に世界人民から尊重されているのであり、なぜ、我々は、自らが獲得した、尊重されているという地位に対して、自信を持てないのだろうか。
他の民族からの尊重を勝ち取ることができる民族とは、何事にも公正な民族である。
一部の日本企業の製品とサービスには確かに問題があり、我々が批判、提訴、クレームを行うことはできるが、日本の1社または数社の企業の問題を、「日本のビジネスマンは」、はては「日本人は」といったような問題にまで発展させるべきではない。また、企業経営上の問題、すなわち品質とサービスの問題を、ネット等のメディアで民族感情の問題や政治上の問題とすべきではない。日本には、中国侵略の歴史を否定し、反中国のいざこざを引き起こしている人物が存在するのも事実であるが、我々は、非難の矛先を、これらの反中国派や、軍国主義者に向けるべきであって、火の粉を中国とビジネスをしている、または中国に投資している日本企業の頭上に振り撒くべきではない。もし、我々中国の企業が海外に進出して、外国人からこのような態度をとられたら、我々はどう思うだろうか。
他の民族からの尊重を勝ち取ることができる民族とは、自分に厳しい民族である。
米国の消費者は、問題が発生する「可能性」から生じる損害について、東芝に賠償を要求することができ、ヨーロッパ、米国、日本等の先進諸国は、三菱自動車に対して欠陥車のリコールを求めることができる。先進国、特に米国と比較すると、我国の法律は、消費者の権益保護能力の点では、遠く及ばない。法治国家においては、必ず法に基づいてことを行わなければならない。我々は、自らに厳しくあるべきであり、まずは、我国の法律の問題を明らかにして、今後如何にこれを改善していくべきかを検討すべきである。
中国のWTO加盟に伴って、我国は、経済のグローバル化の潮流に乗り出していくことになる。我々の意識と観念は、はたして経済のグローバル化に適応しているのだろうか。我々はこれを自らに問い返してみるべきであろう。
2001年7月30日掲載