Special Report

中国のWTO加盟20年とその評価

荒木 一郎
横浜国立大学大学院国際社会科学研究院 教授

津上 俊哉
津上工作室 代表

2001年12月の中国WTO加盟から20年が経過した。この20年で中国は急速に経済発展を遂げ、2001年に日本の3割だったGDPは、2021年には日本の3倍となった。
WTO加盟当時の経緯はどのようなもので、中国のWTO加盟の成果をどう考えるか、日本の今後の対応はどうあるべきかについて、横浜国立大学の荒木一郎教授と津上工作室の津上俊哉代表にお話を伺った。当時、経済産業省通商政策局において、荒木氏はWTO加盟交渉を所管する公正貿易推進室長として、津上氏は中国を担当する北東アジア課長として、それぞれ中国加盟に携わっている。

中国WTO加盟の時系列

荒木:
私は中国のWTO加盟交渉時は公正貿易推進室長でしたが、加盟問題にはジュネーブのWTO事務局に勤務した 1995年〜1998年から関わっていました。

中華民国は、1944年のブレトンウッズ会議に参加していて、GATTの原締約国(設立当初の加盟国)でした。ですが 1949年の10月に中華人民共和国が成立したので、翌年に中華民国はGATTを脱退してしまいます。1971年に中華人民共和国は国連の代表権を獲得しますが、その時にはGATTの締約国にはなりませんでした。

大きな転機は1986年で、この年の7月に中国は「GATT締約国としての地位の回復」を求めてきます。それで1987年3月にGATTに中国加盟に関する作業部会を作りました。この時点では米国は中国のGATT加盟を支持していました。当時は冷戦の真っ最中で、米国もソ連との関係で中国を自分の味方にしておきたくて、米中が蜜月の時代だったのです。

ところが、1989年6月に天安門事件が起きて米中の蜜月が終わり、中国のGATT加盟交渉もしばらく中断されてしまいます。その後も中国はGATT加盟を求めたのですが、ウルグアイ・ラウンドの妥結までは認められませんでした。

このためWTOの原加盟国になる道は断たれてしまい、1995年1月1日のWTOの成立後の7月に改めて加盟を申請しました。このため、GATTなら加盟には関税交渉だけでよかったのですが、WTOになるとサービス交渉もしないといけなくなるなど、ハードルが高くなってしまったのです。

WTOへの加盟交渉にあたり、中国は主要国との二国間ベースでの交渉を並行して進めました。中国との二国間交渉をまとめたのは日本が最初と言われています。特に橋本総理は中国との関係改善に熱心で、日本はかなりがんばって中国からかなりの品目について無税にするとか税率を引き下げるとかを得ています。米国の交渉者からは「日本は中国と甘い条件で交渉を妥結しておいて、いい顔をする。それで厳しい交渉は全て米国にやらせて、最終的な利益は全部MFN(最恵国)で持っていってしまう」と文句を言われましたが。

1999年4月に朱鎔基総理が訪米してビル・クリントン米国大統領と直談判することになり、交渉妥結の雰囲気が盛り上がっていました。ですが、米国側が強硬に要求を引き上げて交渉が決裂してしまい、その後5月にベオグラードの中国大使館の米軍機誤爆事件があってかなり暗いムードになっていたところ、日本がサービスについて合意したことは交渉に弾みをつける効果があったと思います。

中国のWTO加盟に対して恐怖心を持っていたのは、米国や日本より、むしろ途上国です。米国と中国が合意したけど、どうマルチ化するか、議定書なり作業部会報告書なりの文書をまとめるか、なかなかうまくいかなかったので、結局分野別に交渉しましょうということになりました。貿易権交渉とか、補助金交渉とか、いくつかグループができまして、私も知的財産分野の交渉グループの議長になりました。

最終的にはメキシコと中国の間の二国間合意ができて、交渉の障害が全て取り除かれ、加盟作業部会で最終文書が採択されました。ちょうど9.11のあたりです。2001年11月のドーハ閣僚会議で中国のWTOの加入が認められ、2001年12月 11日にWTOに加盟したのです。

中国WTO加盟を振り返る

津上:
私は1994年に公正貿易推進室でWTO発足と中国の加盟問題を担当し、1996年から2000年の春まで4年間北京の大使館経済部で勤務をしました。

中国のWTO加盟交渉の最大の障害は、米国のクリントン大統領が、貿易と人権をリンクして中国には厳しくあたると選挙公約として当選した経緯でした。このため、朱鎔基総理が 1999年4月に訪米して、トップ交渉で局面を打開しようとしたのです。私は当時北京で見ていたので非常に印象が深いのですが、米国政府は朱鎔基総理が大変な決意で訪米したという認識が薄かったのです。今回で交渉をまとめないといけないという緊迫感がないので、交渉は当然のごとく不調に終わったわけですが、それだけでなく、朱鎔基総理が持ってきた提案を USTR(米国通商代表部)が不用意にもホームページで全部公開してしまいました。これは朱鎔基総理が国内に相談せずに持ってきた譲歩案だったので、中国は大騒ぎになりました。

一方、USTRのホームページで中国側の提案を見た米国のビジネス界は「この大幅譲歩案を蹴ってしまったのか?」と驚いて、今度は米国国内も大騒ぎになった。ホワイトハウスはようやくミスに気がついて、帰途に就こうとしていた朱鎔基総理に「もう一度ワシントンに帰ってきてくれ」と連絡しましたが、時すでに遅し。朱鎔基総理は帰国後、「独断で勝手な交渉をした」と国内でサンドバッグのようにたたかれました。

その直後5月7日には、米軍機が当時のユーゴスラヴィアの中国大使館を爆撃して、館員3人が亡くなる事態が起きました。このニュースは土曜日の午前中に北京に伝わり、お昼ぐらいから街が騒然となってきます。デモ隊が組織され、米国大使館への抗議デモが行われました。しかも、投石も認めたのです。私は日曜日の午前にデモ隊に紛れて米国大使館に行ったのですが、もうその時は米国大使館の窓が全部投石で破られていました。大変な中国人の怒りがあったわけです。

朱鎔基総理のトップ交渉の失敗と、大使館の誤爆事件と、この2つで、中国では「WTO加盟はもう死んだ」という感じになりました。事態を憂慮した谷野作太郎駐中大使の指示を受け東京へ意見具申をしました。そして、主要国として初の二国間交渉を妥結したという宣言を出して中国のWTO加盟促進派を励まそうという案が出て、結局7月に小渕総理が訪中する際に、その通りになりました。後に次官になった商務部の易小準氏がその後日本に来たとき、私に「あの訪中は本当に助かった。あれでようやくWTOの話を政府の部内で再開できるようになった」と言っていました。

実は、最初の頃は中国のWTO加盟交渉は、日本政府部内でまったく重視されていなかったのです。「どうせ米国が最後に交渉で決めるのだから、米国に任せておけばいいんだ」というのが政府内の多数だったと思います。外務、通産、大蔵、農林の通商担当4省でも、中国の加盟問題はちびっ子管理職の担当でした。ですが、1994〜95年の4省の管理職が意外と馬が合って、その4人で「この話は大事だ。日本にとって中国は加盟させるべきだ」とそれぞれが役所の中で説得していた記憶があります。こうした声がなぜか橋本総理の耳に入り、「うん、これは大事だ」とサミットのたびに「中国をWTOに加盟させないといかん」と話しておられました。こうした流れから、中国の国家指導者が日本の要人と会うときには、「WTO加盟交渉を支援してくれていることに対して感謝する」と必ず言うようになったのです。

中国のWTO加盟の動機は極めて明快です。改革・開放はしたのですが、その副作用で、昔の中央政府の国家財政が破産寸前だったのです。昔の中央政府の歳入は、農村からの収奪と国有企業の上納金の2つが支えていたのですが、1980年代に改革・開放を進めた結果、農産物を農村から安く買い上げて都会で高く売って得る差益が取れなくなった。そして 1990年代の後半に朱鎔基総理の下で国有企業改革という荒療治をしたため上納金も取れなくなった。主要財源を2つとも失って非常に苦しい時期だったのです。経済成長したいが国庫には金がない、じゃあ外資と民営企業にがんばってもらうしかない。加盟の動機はここに尽きると言ってもいいと思います。

私は「中国は振り子だ説」を唱えていす。中国では国際協調的で改革志向の人たちが右派で、マルクス・レーニン主義、ナショナリズムの人たちが左派です。中国は、この右と左の間を揺れる国だというわけです。そして、懐が苦しくなると右に振れ、国際協調的になり、改革志向になる。懐が潤沢になると、 DNAに刻まれた左の方に振れていく。

実は財政の懐具合以外に、もう1つドライバーになっているのは、西側との心理的な関係です。昔は「中国は遅れていてダメな国だ」というのが中国人の一般的な感覚でした。ところが、その後中国が出世する一方で、西側が失敗を繰り返すため、西側を仰ぎ見ていた仰角がどんどん小さくなりました。

要するに、素寒貧のときには言うことを聞く。豊かになると言うことを聞かなくなる。「西側ダメじゃん」と思うと、ますますつけあがる。このように、中国自体の変化によって中国のわれわれへの態度が変わってきたのだと思います。

Q&A

Q:
中国がいま何を狙っていて、われわれはどう対処すべきなのかについてぜひご示唆をお願いします。

津上:
WTO加盟は中国にとって「あれで改革が進んだ」という成功体験だったのです。1990年代の後半に国有企業改革を断行できたのは、「WTOに加盟しなきゃいけないから」という外圧が非常に大きかったと思います。CPTPPへの加盟も、いま一度改革を加速するための格好の外圧だととらえているのでしょう。

もう1つの動機は、中国は「今後はルールのフォロワーではなくルールメイカーの方へ出世をしたい、ルールを作る側に回りたい」ということだと思います。

日本の選択ですが、中国のCPTPPへの加盟を拒否するのはあまり賢くはないと思っています。

理由は3つあり、1つはCPTPP加盟交渉の場は、中国の内政問題にも踏み込める、非常に貴重な外交ツールになるということです。TPPの条文に『強制労働はダメ』と書いてあるから、内政問題であっても協議せざるを得ないでしょう。中国とそういう場を持てる国はTPPメンバー以外にはないのかもしれません。特に英国が入ってくると、ますますおもしろいことになっていくでしょう。

もう1つは、台湾有事の問題とか、敵基地攻撃能力とか、弾道ミサイルを配備するかとか、今後の日中関係は波風立つ「負債項目」がめじろ押しですが、バランスを取るために前向きなテーマを話し合う「資産項目」の準備もしないと二国間の外交が成り立たなくなる。TPPの加盟交渉は、数少ない「資産項目」の候補ではないかと思います。

3点目は日本の孤立回避です。実はTPPメンバーは中国の加盟を歓迎する国が多数派です。日本がかたくなに中国をブロックしていると、日本を蚊帳の外に置いて中国と話し合いを進める国が増え、TPPを引っ張ってきた日本のリーダー国の立場が損なわれてしまいます。

荒木:
われわれは中国が長期的な戦略で動いていて、すごく怖く見えることがありますが、実際の動機は、もう少し単純なところにあるのではないかと思います。途上国を借金漬けにして中国の影響下に置こうとか、スリランカの港を99年間リースしたのは中国の陰謀だとか言われることがありますが、中国にも右派も左派もいるわけで、一枚岩で1つの組織として百年計画を進めているとは思えません。

Q:
中国は今後どうなると思われますか。

津上:
経済的には、国家財政がこれからどんどん苦しくなると思います。90年代の再来のように。

大きなファクターは2つあり、1つは過去の過剰投資です。中央政府は借金で首がまわらなくなってきている。もう1つは年金債務みたいな問題ですね。

習近平主席の評判は、実は上がったり下がったりしています。2018年には国家主席の任期制限を撤廃する憲法改正をして評判を悪くしました。2020年にはコロナをいち早く押さえ込んで、中国はすごい、習近平はすごいと信任が高まったんです。ところが2021年は「権力が集中すると役人が忖度して、こういうバカなことが起きる」みたいな事案が次々と起きました。今後「今のままではどうにもならない」という危機感というか閉塞感、これが2020年代にどんどん大きくなっていくでしょう。それが臨界点にいつ達するのかは分からないですが、振り子はやがて戻ります。それもあまり手遅れにならないうちに戻ってほしいと思っています。

Q:
中国のWTO加盟の意義は何だったのでしょうか。「マーケットアクセスの改善」「公的安定性と透明性の向上」「紛争解決メカニズムで中国を縛る仕組みができた」「中国がWTOに加盟することでWTO自体の普遍性が高まった」とも言われていますが、米国の一部の方たちからは「中国のWTO加盟は失敗だった」との意見もあります。

荒木:
日本にとっての意義は、日本が中国のWTO加盟に貢献したという事実です。易小準さんはついこの間までWTOの事務局次長をしていたわけですし、その後任者の張向晨さんも同じように加盟交渉に加わっていた人たちなので、彼らは覚えているわけですよ。

また、中国のWTO加盟で中国の関税が大幅に引き下げられたわけだし、透明性も昔よりは多少ましになっています。そして中国が貿易に参加したことによって、世界全体の富は増えたわけですよね。世界経済全体にとってポジティブな効果はありました。

津上:
1990年代に「中国がWTO加盟すれば、最大の受益者は日本になる」というレポートが世界銀行から出ましたが、まさにその通りになったと思います。過去20年間、中国が飛躍的な経済成長を遂げなかったら、日本の「失われた20年」はもっと悲惨になっていたでしょう。

WTOルールを遵守しない中国と米国が言いますが、米国も日本に対する鉄鋼やアルミの通商法301条に基づく関税も、バイデン政権になって1年たっても撤廃していない。WTOの上級委員会の人選もブロックしたまま。そんな米国が人のことをあげつらう資格があるのかと中国は見ているのです。そういう不公平な部分を作ってしまっている西側諸国にも反省すべき点がある。もう一度尊敬をもって見られるように西側も努力しなければいけないと思います。

2022年6月1日掲載

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