周知のとおり、WTOでは2000年から農業とサービス貿易についての交渉が既に開始されている。これらの2分野は、ウルグアイ・ラウンド協定において継続交渉が義務づけられているので、11月のドーハ閣僚会議で新しい包括交渉ラウンドの開始が合意されるか否かに関わらず、各加盟国は交渉のテーブルにつかなければならないのである。もちろん、これら2分野(「ビルトイン・アジェンダ」と称される)の交渉の成否が新ラウンド全体の帰趨に左右されるであろうことは、容易に想像できる。だからこそ、先のAPEC上海首脳会議でも確認されたように、多くの国が新ラウンドにおける「バランスがとれ、かつ十分に広範で到達可能なアジェンダの必要性」を強調しているわけである。
ところで、筆者としては、日本政府は包括的な新ラウンドの必要性を世界に向けて説き続けているものと信じてきたのであるが、どうも米国政府はそのようには見ていないようである。報道によれば、9月24日、ゼーリック通商代表は、新ラウンドの準備の足を引っ張る国として日本とインドを名指しで批判したという(注1)。同代表は、ある演説会で次のように述べたとのことである。「私を一番失望させ続けている国は日本だといわざるを得ない。私の見るところ、日本は国内の麻痺状態と同様に国際的にも麻痺状態に陥っている。国際貿易・経済にあそこまで依存している国であるゆえ、私としては日本にもラミー(欧州委員会通商担当委員)と私が果たしているような役割を期待したいところだが、現実はそうなっていない」インドは依然として包括ラウンドの開始に反対しているのであるからまだしも、なぜ日本がここまで批判されなければならないのだろうか。1999年12月のシアトル閣僚会議までは、日本とEUが包括的な新ラウンドを積極的に支持し、米国はむしろビルトイン・アジェンダを中核とする小規模なラウンドを目指すという対立の構図が明らかに見られた。それが今では、米国とEUがともに包括的な新ラウンドを目指しており、日本がそれに抵抗しているかのようである。
もちろん、どこかの演説会で米国の通商代表に批判されたからといっていちいちムキになる必要はなく(注2)、日本政府としては静かに反論するとともに、別の場で米国の交渉姿勢の問題点を指摘しておけばよいのかもしれない。また、ゼーリック代表とラミー委員がワシントンポストに連名の投稿記事(注3)を書いて包括ラウンド支持の論陣を張るなど米欧の蜜月状態を殊更に強調しているのは、それまでの米欧通商関係がEUのバナナ輸入規制、ホルモン牛肉規制、米国の輸出優遇税制(FSC)等の諸問題の処理を巡って険悪になっていたことへの反省という一面もあるので、この点を若干割り引いて考える必要もあろう。しかしながら、交渉担当者の間で日本が新ラウンドに前向きでないという印象が広まっていることは否定できないのではないか。
筆者の考えでは、その最大の原因は農業交渉に取り組む日本政府の姿勢にある。日本の農業交渉提案は、農林水産省のホームページに詳細に紹介されており、このこと自体は行政の透明性向上の具体的現れとして賞賛に値すると思うが、問題はその内容である。日本もビルトイン・アジェンダとしての農業交渉には誠実な対応を期しているとしつつ、「多様な農業の共存」を基本的哲学とし、1)農業の多面的機能への配慮、2)各国の社会の基盤となる食料安全保障の確保、3)農産物輸出国と輸入国に適用されるルールの不均衡の是正、4)開発途上国への配慮、5)消費者・市民社会の関心への配慮の5点を追求するとしている。そして、個別の提案を見ると、農産物に限って「自動的かつ迅速に」セーフガード措置を発動できるようにする等裸の保護主義としか言いようのない提案がずらりと並んでいる。
案の定、WTOの農業委員会における議論では、農産物輸出国側から、日本の提案は将来の自由化と何ら関連性がなく、保護範囲の拡大以外の何ものでもないといった批判が出されているようである。先のゼーリック代表のコメントは、「このような提案が出てくるのは、日本がまじめに新ラウンドに取り組むつもりがないからだ」という意識の現れであろう。いったんそのような疑惑の目で日本の交渉姿勢を見るようになると、「日本がアンチダンピングの規律強化にこだわるのも、米国議会や産業界が絶対に受け入れられないとしていることを知った上で、『アンチダンピングの規律強化が受け入れられない以上、農業貿易の更なる自由化は受け入れられない』という駆け引きの材料に使おうとしているのだ」というように見られていくであろう。
これは、多角的貿易体制の最大の受益国の1つであり、また、新ラウンドを通じた貿易・投資の更なる自由化によって利益を得るところが大きい日本にとって誠に不幸な事態である。しかし、このような事態は、農業提案をもう少しうまく構成すれば、避け得たのではないか。というのは、上記の基本哲学や1)から5までと同様の論点は、実はEUの農業提案にも含まれているからである。どこが違うのかというと、EU提案はウルグアイ・ラウンドで合意された長期目標である「根本的改革をもたらすように助成及び保護を実質的かつ漸進的に削減する」ことを所与の前提とし、農業貿易自由化のための提案だという体裁をとっているところである。日本提案にはここの視点が欠けているために、(保護主義的な各論と相まって)実際以上に後ろ向きの提案と受け止められがちである。
一大農産物輸出国でもあるEUと日本とでは若干利害状況が違うとはいえ、フィシュラー農業担当委員の演説などを見ると、一見米国との立場の共通性を言いながら、「非貿易的関心事項」その他のEUの要求をうまく織り込んでおり、そのレトリックの巧みさには感服させられる(注4)。なぜ日本はEUと同じように立ち回ることができないのだろうか。
その答えは、「仕切られた多元主義」(注5)にあると思う。農業団体の結束は固く、その政治的発言力は強い。日本の農業提案は、その細部に至るまで自由民主党農林水産物貿易調査会の審査を受けている。調査会の席上で提案内容を説明するのは農林水産省の幹部であり、それに対し「その方針で徹底して戦え」と発破をかけるのは自由民主党の議員であるが、列席している外務省や経済産業省の代表も当該方針への同意を求められる。とても反論などできる雰囲気ではなく、それを農業団体の代表が黙って聞いているという構図である。日本の農業提案には、「これらは7500万人分に相当する食料を輸入する最大の食料純輸入国である我が国国民の総意に基づくものである」と高らかに記されているが、その成立過程はこのようなものであった。
また、シアトル閣僚会議の際には、農業交渉の節目ごとに農林水産省・国会議員・農業団体による「三者協議」が開かれていたそうである。おそらくドーハでも同じことが行われるのであろう。さらに、自由民主党の議員は、行政府だけには任せておけないとの考えからか、積極的に「議員外交」を展開し、WTO事務局長に日本の農業提案について説明したりしている。このような事態について、農林水産省の職員にはやや自嘲気味に「これもセンセイ方の教育プロセスですから」などという者がいるが、そうだとすれば我々国民は(知らないうちに)随分高い授業料を払わされていることになる。
このように一挙手一投足まで政界や農業団体から監視されている状況の下で、(ただでさえ語学力にハンディキャップのある)日本の交渉者にEU並みの柔軟性を期待する方が無理であろう。いかにフィシュラー委員とて、フランスの農民団体が作った対処方針から一言一句たりとて逸脱してはならぬという訓令をもらっていたら、とてもあのような演説はできまい。
問題は、これでよいのかということである。多くの国民は、一般論としては農業団体の主張に同情的である。このことは、農林水産省のホームページに紹介されているアンケート結果からも看て取れる。また、ねぎ等に対するセーフガード措置に対する意見表明で(畳表以外については)発動に反対する意見が1件もなかったことにも表れている。ただ、これは農業保護がもたらすコストの全貌を知らないからだとも解釈できるし、各人が仕切られた多元主義の世界に暮らしていて、仕切りの外の話には無関心だからだとも解釈できる。少なくとも、国民の「総意」だなどとして国際交渉の場に裸で持ち出せるほど立派なものではなさそうである。いずれにせよ、今問われているのは、「政治のドメインにおける投票者の選択」であり、「自己責任感に富み、活力に富んだ民間経済を支える個々の投票者の市民意識」である(前述:青木昌彦コラムより)。