Special Report

論理的帰結たる世界経済混乱――あいまいさ再考――

小野 五郎
上席研究員

昨今数多の閉塞状態打開策が提言されているが、いずれもデジャブかつ根本治療から程遠い。その訳は、思いつき先行、可能性に無関係な「望ましい」目標設定、自然法則ほどの科学的普遍性などない理論への拘泥などである。特に政策の前提に置くべき論理性・科学性では、(抽象的な論理・数式等とは違い)対象たる実在には最後まで除去しえぬあいまいさが残るから、それをも完全否定した論理・数式体系を用いればかえって致命的なあいまいさが残ってしまう(注1)。

逆説的だが、多種多様な要因に言及する新議論が総て表面的・技術的考察に止まり、本質に迫ることなく逆に混乱を増幅している理由は、昨今無数の情報・ツール類がアクセス・取得・操作可能となったことにある。なお、この種傾向は政官財各界リーダーの議論、官僚の理屈づけ、エコノミストの持論展開用経済理論群などに広く認められる。

なぜなら、多くが、それらの利用に際して、経済統計数値はそれ自体科学的数値ほど精緻ではないこと、カオス理論のバタフライ効果により初期値の微細な違いが時間経過とともに想定外の結果を生ずること、数値自体現行制度・慣習下での人為の結果だから現行政策持続上は有用でも政策パラダイム転換には無力なことなどに留意していないからである。特にバタフライ効果では、実績値により修正可能な過去はともかく将来予測については信頼度が低くなり、超長期的には信頼度ゼロに収斂していく。ただし、予測無くしてはリスク管理も不可能だから、予測そのものは不要ではなく、計量手法の重要性は些かも低下しないが。また、経済学は元々「人々の厚生極大化」が目的だから、必然的に厚生=価値を扱う学問となるが、その際、経済が社会の一要素に過ぎぬ以上「非経済効用」の絶対的重要性、「効用の不可測性」に伴う序数モデルと計量モデルとの峻別、個々の効用追及に起因する「合成の誤謬」、モデルとしての計量数値と実体経済数値との相違等も認識せねばならない。

一方、貨幣価値は数量化が容易なため科学的と錯覚され、計量経済学など現代経済学主流が重用した結果、貨幣価値以外の視座が希薄となり、さらに主観的な「価値」とか「べき」論は「非科学的」として否定的見解が強まった。が、この価値観の介在を否定することが「科学的」という錯覚は本来「価値」を扱う経済学の自殺行為であり、べき論なくして政策論はありえない、というより「価値観排除」それ自体に潜む価値観にこそ危険性を孕む。かくして貨幣数量やその計量的分析に重心が移行し、貨幣そのものへの研究はヒックス以来希薄化し、かつ、現代理論は元々財市場で理屈付けされたものを単に生産要素市場に演繹しただけとなった。だからこそ、米国御都合主義の下、自由化と知財保護強化とが並立させられた結果、完全自由主義論者のハッカーとの衝突も起きたのだ。ましてグローバリゼーションの名の下に、多様性を排除し欧米型一元化を追求すれば、単一化=エントロピー増大から破局に向かうのは科学的必然となる。

ここで、現下の混乱を整理する上で、計量化された現代経済学を「厚生極大化」へと媒介するために再度貨幣論が重要となるが、その場合、伝統的貨幣論だけでは不十分である。なぜなら、貨幣価値は質量両面を同時に扱えるがゆえに、利便性とともにあいまいさも潜むからである。かかる認識下、関係子としての貨幣(注2)、すなわち不可測な効用を測定可能な貨幣価値に転換し、非可逆な実体経済に可逆的な数式を採用せしめ、市場という試行錯誤過程で時間軸と数量軸との互換性を演出するといった役割を担うものとしての貨幣という、より本質論に進めば、財市場で生じた自由競争理論を貨幣市場に演繹することの無理が露呈し、金融工学の空虚さも分かろう。すなわち、実在としての兌換貨幣ならぬ記号的信用貨幣さらには貨幣そのものを取引対象とする現行市場経済では科学的絶対尺度など存在せず、あるのは市場での弁証結果たる相対価格だけであり、一方、貨幣を取引するということは実在としての扱いすなわち金本位的理解であるから、金融工学は虚構でしかないことになる。

次に、論理式にあいまい記号(同記号はパソコンには無いので∫で代用)を組み込んだ思考実験を行うと、「あいまいさ」は当然∫あいまいさ∫であり絶対的|あいまいさ|ではないから、逆に「非あいまいさ」も∫非あいまいさ∫となる。これは直ちに、あいまいさを除去・削減するためには、まずは∫非あいまいさ∫を|非あいまいさ|として確定する必要があることを意味する。すなわち、本来あいまいさや暗黙知の多い政策領域を科学的に処理しようとすれば、科学的論理や計量手法により「非あいまいさ」を確定させ「あいまいさ」を浮き彫りにすることが先決となる。ただし、その前提として、連続体すなわち∫あいまいさ∫非あいまいさ∫という全体像把握が求められるから、ケインズ的意味で「物事全般に通暁する」ジェネラリストが必要となる。なぜなら、スペシャリストの限定的専門知識を幾ら寄せ集めたところで暗黙知とか「際」部分を含む全体知は扱いえないからだ。

先進国財政再建の難しさも次の簡単な論理式から読み取れる。すなわち、個人的利益の集合をI、非個人的社会厚生の集合をSとすると、社会的総厚生はI+Sなる。ここで増税・緊縮により見掛け上の個人的利益喪失に伴う1人当たり非厚生を-i、財政健全化に伴う1人当たり社会的厚生をsとすると、増税緊縮後の社会的厚生はI+S+∑(-i+s)となり、i<sであれば増税・緊縮が、i>sであれば非増税が正しい。ところが、個々人にとってプラスのsは認識しにくくマイナスの-iばかりが意識されるため、民主的手続きを踏む限りは常に非増税・バラマキが支持されやすく、それに合った政策が採用されがちとなる。

結論 危機回避のためには、有識者たちが、「耳に心地よい」目標に迎合しそれに裏付けを与えるのではなく、「耳に逆らう」本音で大衆を啓蒙する必要がある。

2012年5月10日
脚注
  1. ^ 「「あいまいさ」について」、埼玉大学経済学会『社会科学論集』第86号、1996年2月。
  2. ^ 「市場経済における「関係子」としての貨幣についての試論」、同第95号、1998年10月。

2012年5月10日掲載

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