新経済科学再考―政策現場の留意点―

小野 五郎
上席研究員

環境経済学・文化経済学・行動経済学・経済物理学等の新経済学が次々登場している。それらは「生態学的分業関係」「進化論から見た競争原理」(『産業政策研究会報告書』1972年)、「文化産業論」(昭和48年度通商産業省新政策)、「負の価値」「エントロピー価値」(『生態主義』1993年)、「ニュートン力学系からの離脱」(「成熟社会にケインズ政策は効かない」『エコノミスト』1993年)、「科学体系としての経済学」(『通産ジャーナル』2000年)、「複雑系的視点からの新古典派体系批判」(「市場経済における『関係子』としての貨幣についての試論」『埼玉大学社会科学論集』1998年)、「文化・環境・価値観等をも包含した社会総体の再構築」(『ホロニック工学論』2006年)等を提唱する筆者には心強い援軍である。

そもそもマーシャル「微分方程式は経済学の有力ツールになる」「経済学は化学さらに生物学に近い」、ケインズ「経済現象を解するには、統計数値や経済理論だけでは不十分で、歴史・文化・哲学・法学などから工学系技術、物理学・化学、数学など理科系知識まで幅広く要する」からも、ニュートン力学と貨幣価値で成り立つ現代経済学批判は必然だった。

しかし、一部に自然科学を後追いするだけで旧パラダイムに「木に竹を接いだ」ものがあり、それらが「科学」の名の下に政策形成に関わる弊害は大きい。なお、その一因として、経済学徒の理系コンプレクスから「○○科学」を無批判に受け入れたことがある。 ところで、政策研究は、現行制度下の実証研究・政策評価、政策形成までと幅広い。このうち実証・批判的研究は完成体系をもって臨む必要はないが、政策形成にはそれ自身まだ十分に批判に晒されていないものを先端知識かのごとく扱うことは将来に禍根を残す。

政策論から見た新経済学の限界

この懸念を払拭するため、政策形成の立場から新経済学の幾つかを取り上げ、導入に当たっての留意点を指摘したい。特に新経済学研究者および元々非経済学分野から経済学域に参入した者の多くが、経済学=新古典派という先見的誤解の上に立っていることに十分注意し、政策現場までがそうした先見的誤解に巻き込まれないようにしなければならない。

(1) 環境経済学や文化経済学では、経済活動が全集合たる環境、部分集合たる文化活動の一要素にすぎない点に留意すべきである。一要素(経済)を扱うツール(経済理論)をもって集合(環境・文化)を分析対象としうるのは、予算問題などに限定されよう。

(2) 行動経済学では、パラダイム・ベースの心理学や経営学のごとく多数のケースの積上げが困難である点に留意すべきである。「社会現象に実験を取り入れた」と言っても、その結果には化学実験室のような再現性はない。また、そもそも経済行動に心理学的手法を用いることは、対象たる特定母集団の価値に対する感応度を測定するに等しいから、貨幣本位主義の米国等で経済(貨幣)統計上有意というのはトートロジーである。最近言われはじめた「行動は伝統的経済学が軽視する文化により差異がある」のは元より当然の話で、そこから伝統経済学を批判するのは自身が設定した「経済学」の批判にすぎない。

(3) 金融工学では、真物の「工学」とは全く違う単なる虚構であることに留意すべきである。すなわち、市場参加者全員が機械部品のように同一であれば全員同一行動を取ることになり、金融商品そのものの存在意義が否定される。まして工学上の「リスクの分散が総リスクを軽減しうる」という「フェイルセーフ」は成立せず、むしろリスクの所在があいまいになる分リスクを増大させる。それが今次金融危機を招いたのである。なお、想定外に対応することこそフェイルセーフであるから、「想定外」という弁解は見苦しいだけである。

(4) 複雑系以来の新経済科学では、マーシャル的発想に非線型モデルや無限循環ゲームを導入し実態たるアナログをデジタル化していることに留意すべきである。たとえば、要素が有限種類×相当数かつ無限循環および高頻度生き残りルールなどといった前提は、現実社会には該当しえない。また、モデルにインプットされるデータや前提論理は、モデル・ゲーム操作主体の知見に限定され、将来の試行錯誤過程まで組み込んだものではない。

経済物理学に焦点を絞ると、自然法則の経済現象への比喩的使用と実在への応用や実証との混同、先行研究の看板の単純書換えなどが見られる。筆者の提唱する「科学的洞察」は、自然現象と社会現象との差異を弁えた上で「ニュートン力学系経済学」の超克を狙うものであり、比喩的用例を別として実証抜きに自然法則を経済現象に適用してはいない。

筆者の用いた比喩例には「現実世界はミクロ宇宙の電気力による粘性や量子的不確定さが支配し、慣性方程式や微分方程式を無条件適用する現代経済学の想定とは違う」「利子率引き下げは、若年層の消費性向を高め、中高年令層の老後資金用貯蓄率を高めるから、重力のような加算的ではなく電気力の+-のように打ち消しあう」(「成熟社会にケインズ政策は」)、応用例には「製品の便益の源は投入エネルギーが生み出すある種の秩序であるが、それと等量のエントロピーも発生する。したがって、製品が破損すると便益を失うだけではなくエントロピーとして負の価値が残ることになる」(『生態主義』)、実証例には「情報集積・経済圏集積等でも、競争力は集積に比例し距離の二乗に反比例するという「ライリーの小売引力の法則」的思考が成立する(「ストロー効果」「メトカルフェの法則」「グラヴィティの法則」等はそこから派生したもの)」(「科学体系としての経済学」)などがある。

計量分析=経済統計というツール使用上の留意点

経済学界や政策現場で新古典派が主流を占めて以来、科学=数値化という誤解や数式・計量偏重等の弊害が目立つ。その結果、見た目には精緻だが、実在としての「あいまいさ」の前では全く無力となっている。

もちろん経済現象にも統計的有意なものが存在するが、それは全体のごく一部で、かつ、物理現象ほどの再現性はない。しかも経済統計は恣意的に作られたものであり、かつ、与件も人為を越えた「神の手」で設定されたものではなく、主観的人為(制度)下かつ不変という前提(セテリスパリブス)が置かれている。したがって、統計的有意性からの仮説も、あくまで過去の一定期間の限定的体制下での事象であり自然法則並みの普遍性はない。

まして「あいまいさを完全除去しえぬ社会システムでは試行錯誤過程や遊びを必要とする」(『ホロニック工学論』)から、効率性一点張りで想定外時に不可欠な「遊び」を欠く精緻な現体系は今次震災・原発事故に対応できなかった。過去の震災の都度指摘されたジャストインタイム部品調達システムの欠陥が再び露呈した事実は、「過去の教訓」が「遊び」の採用はおろか「試行錯誤過程」としても活かされなかったことを実証したに等しい。

また、自然法則は観察結果から人為的ノイズ等を除去して得るのに対して、すべてが人為たる社会現象で人為をノイズとして除去したら何も残らない。人為的ノイズを除去するため理想的人工空間を設定し実験する一部自然科学と、人為現象そのものを扱う社会科学とは違う。しかも、経済統計には単なる誤差脱漏等に加え、調査項目・時点の偏り、時間的非連続性、与件設定上の作為の修正自体までがノイズとして登場する。

さらに、経済統計の過半は貨幣表示の抽象量であり現象そのものではない。付言すると、貨幣表示で情報化された質と数値化された量さらに数式そのものは磨耗・変質しないのに対して、実物や設備は転々流通・使用を繰り返せば減耗し変質する。

その辺を理解せぬまま、「効用の不可測性」が軽視され、本来抽象概念にすぎない無差別曲線やフロンティアなどが数式化され、それをもって計量的実証と嘯くケースも多見される。なお、以前から先見的に受け入れられている序数としての効用表示にしても、一定の留保条件を付す必要がある。たとえば、観念的幸福感に近似する充足度は分母・分子双方に支配され、いくら分子が増大しても分母がそれ以上に増大すれば低下する。新しい欲望を生み出して「成長」と称する現代資本主義的発展への誤解もそこから生じているのである。

経済学が扱う「価値」の尺度たる価値観は、国家・民族・社会の哲学・理念等によって決まり、米国価値観から出た現代経済学が主として用いる貨幣尺度で示せるものではない。「人種の坩堝」として多用な価値観が併存する中で国家の結束を保つため貨幣価値を共通価値観とした米国流価値観は、世界全体から見れば極めて異質であり、米国が覇権国なることをもって世界共通価値観として扱うのは「科学的」態度とはいえない。

つまり、現代経済学は、先見的な哲学・理念から演繹されるパラメトリックな暫定解を受け入れた上で、選択肢の組合せを提示しうる一ツールにすぎない。逆から言えば、構造変化等により大本の価値観に遡って変更が求められるケースでは、現代経済学から直に解ないし暫定解を求めようとすることはナンセンスである。

その辺の誤解に基づき作られた「経済法則」が制度・政策に反映され、それに合うよう制度・政策が設定される結果、計量的実証分析が法則的な有意性を示すことがあるのは当然である。換言すれば、それは「トートロジー」であって「実証」したことにはならない。

計量的実証分析の有用性は否定しないが、それが「事後的評価」の域を越え「政策形成」に及ぶことは危険である。また、政策評価は、短期的な終了時評価、長期的な事後評価、波及効果を含むインパクト評価などに及び、最終的評価での計量の役割は一部にすぎない。

端的に言うと、美しい経済モデルは比喩的使用に止めるべきであり、実務者までがのめり込んではならない。たとえば、元々観念的存在にすぎぬ無差別曲線を、実証抜きに直角双曲線として数式化し、それを用いて「計量的実証」だとするのは詭弁である。また、大震災以後「ベキ分布」が頻出するようになったが、元より非正規分布が多いことは昔から分かっていたことであり、勝手に「正規分布」として議論展開したことにこそ問題があった。

政策現場において留意すべき諸点

にもかかわらず、一部の官庁エコノミストの間では、社会現象との相互干渉などを全く無視したまま機械的理論体系が一人歩きしている。たとえば、社会科学や制度・政策の実社会に及ぼす量子的撹乱・不確定性は、当該理論体系に基づく推計に対して確率論的に容認しているにすぎないのに、社会システムでは主体と客体(=観察者と観察対象)とを完全に分けること自体無意味だという認識の無いまま適用している例が多い。逆から言えば、両者を峻別した世界においては、「神」を前提とするか、あるいは、「死んだ姿」(ミクロ経済学の超長期)で考えるほかはないのである。

また、社会現象の頻度は無限に繰り返される量子世界の現象とは異なり有限でしかありえないから、量子的「大数の法則」も成立しない。そうした社会現象において、個々の推計値を持ち寄ってみたところで「合成の誤謬」を招くだけである。

さらに、経済理論・計量分析・ゲーム類は、同一事象であっても論者の恣意によって正反対の結論に誘導ないし論証しうる場合も少なくなく、政策実務家にとって自身の政策目標に向けた理屈の後付けツールにすぎない。比喩をもってすれば、道具箱の中身がいくら豊富かつ優れていようとも、それらだけでは機械を分解できても組み立てられず、別途、用途に合わせた設計図が必要である。政策現場もそれと同じである。

一方、非定常状態への対応や新パラダイム・理論構築に当たっては、事前予測能力のみならず目指す方向を設定する価値規範こそが必要となる。その点、新古典派体系以来の経済学が「実証経済学」を標榜し「規範経済学」とは一線を画している上、定常状態下を前提とし静態的な事後的結果分析・評価はできても動態的な将来設計・予測能力を欠く以上、それらによって新政策体系を組み立てようというのは矛盾でしかない。

以上、政策現場と研究者という二足の草鞋を履いてきたものとして、極めて辛口の論陣を張ったが、元より新古典派体系や新経済学研究そのものを否定する意図は毛頭ない。むしろ本稿で述べた問題を捨象してこそ純粋な研究成果が得られる。逆から言えば、この種の問題の存在そのものは認識した上で、学徒としての研究姿勢はそれに引きずられるべきではない。すなわち、政策との関係は、あくまで研究対象として客観的立場から観察するにとどめ、政策現場からの依頼事項に対する第三者的分析・評価・ツール類の提供等以外、たとえば観察者たる客観性を害い不確定性を生む政策現場への提言等は行なうべきではない。

対して政策現場では、純学術的なものからは距離を置いて経済学を単なる一ツールとして活用するにとどめ、基本的な理念に基づき政策を形成し実行すべきである。政策実務家として最重要なのは理屈抜きで「先を読む力」であり、逆に一理論を教条的に振り回し精緻な理屈付けを行なった結果が引き起こす弊害は限りなく大きい。

なぜなら、一見同じに見えても、常に同じ政策ツールないし経済理論が適用できるわけではないからである。たとえば同じ需給ギャップ対策でも、景気低迷下の需要過小ケースに用いられるべき有効需要政策をバブル崩壊後の供給過大期に導入すればバブルを再発させるだけだし、震災後の供給過小ケースに用いれば供給力再建需要が満たされず復興を遅らせるだけである。

といって、もちろん実務家が、理論家が現実から学ぶべきであると同様、専門家・研究者の知見、理論・研究成果等を学び活用することまで否定するものではない。むしろ理論家と政策現場との交流は、前者の研究に必要な情報を得るためにも、後者の政策の改善のためにも必要不可欠なことである。ただし、そのための交流の場においては、前者は研究に必要な以上には政策現場に口を出すべきではないし、後者は生半可な理論化を行なわず生の現場情報を研究者等に提供すべきである。

付言 「何人たりとも予測できなかった」か?

本稿を書いている最中に東日本大震災・福島第一原発事故が発生した。それらの話題には常に「想定外」という言葉が付き纏っているが、政策現場でも学徒としてもそれで済ますわけにはいかないので、一言追加することとした。

なぜなら、「想定外」とほぼ同義で、オイルショック直後に登場した言葉に「何人たりとも予測できなかった」があるが、実は事前に通産省内には一部で「資源備蓄論」が提唱されていたからである。今回も、一部研究者は事前に「東海より高い東北沖巨大地震発生確率」「数十メートルに達する津波発生の可能性」「福島第一原発に潜む欠陥」等を指摘しており、いずれも「予測・想定」はあった。

一方、環境庁が過去に出した「四大公害の被害額は事前防止費用の5倍から100倍」という報告同様、今次原発事故でも放射能汚染による直接的悪影響だけで数兆円、停電が産業に与えた間接的損害、日本の国際的信頼失墜など幅広く含めた総損害額は10兆円単位に上ると推定され、最優先の人命等を別として経済的側面に限ってみてもリスク事前防止策の重要性は高い。

とはいえ、予測・想定すべてに予め対応しておくというのは、「飛行機事故を無くす最良の方法は、飛行機を飛ばさないこと」という話からも分かるように現実的解たりえない。

また、仮に危機管理に成功して危機が発生しなかった場合、たとえば備蓄によってオイルショックが起こらなかった場合、どんな大津波にも耐えうる巨大堤防を用意したが大津波が発生しなかった場合、世間は「莫大な国費の無駄使い」と非難するにちがいない。現にオイルショック直後は高く評価されていた石油公団も、再度のオイルショック発生の危機が遠退くと解体されている。

これらの妥協として、現実のリスク対策は、費用対便益(リスク防止では想定損害×発生確率で便益に代替)比較をもって策定される。すなわち、人為システム上の想定リスクは真のリスクを表すものではないから、当然、システム(非工学的な制度等を含む)に組み込まれた(想定された)以外のリスクが存在する。なお、ここで想定リスクの発生確率それ自体、かなり人為的に操作されていることにも注意を要する。それが、事後的に、先に述べた「正規分布」「ベキ分布」議論を誘発しているともいえよう。

したがって、政策現場や企業の管理部門では、組み込まれたリスクの範囲を超えるなどシステムが自律機能を喪失した(リスク)時の対応マニュアルの整備が欠かせない。なお、その際、教科書的既存理論体系ないし自らが設定した標準形そのものも、自律機能を喪失したシステムの1つであることに留意されたい。逆から言えば、学徒の側では、それを謙虚に認め理屈倒れ発言は控えるべきである。

ところで、経済リスク発生のメカニズムは「定常状態」からの逸脱である。なお、この経済学で多用している「定常状態」は、元は物理学用語から借用したものであり、「動態的な平衡(近代経済学の「均衡」とは異次元概念)」を意味する。この平衡状態が何らかの要因で破れると、それまでの法則や公理が成り立たないカオス状態ないし散逸構造に陥る。

また、この「破れ」は、今次震災のような外的要因のみならず内的要因によっても起こる。たとえば、変動が「閾値」(臨界点)を超えた場合である。筆者の見解では、バブルとかパニックは、その結果現われる現象であり、循環的景気変動とは違うから、現行理論体系の枠からはみ出すことは自明である。

また、閾値は、カオス次元下でも後付的には計量可能であるから事後的には算出しうるが、予め予測することはほとんど不可能である。なぜなら、その種の過去のサンプルが少ない一方で、閾値として考慮すべき要因は無数に存在するからである。

結論を言えば、現行理論や計量分析は、先例なき成熟社会に向けての新政策体系組立てや今次震災のような非常事態対策という命題の前では全く無力である。また、政策実務者の立場からすれば、人命とか国際的信頼などを経済価値より優先すべきも当然であろう。

2011年4月28日

2011年4月28日掲載

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