Special Report

日本の政治改革論者、団結せよ!

CURTIS, Gerald
ファカルティフェロー

日本の政界における昨今の流行語は「マニフェスト」である。日本語では大文字は使わないが、もし使えるとしたら、これこそが日本の政治の諸問題を解決すると信じる人々の重々しい発音が伝わるように、頭文字をMにしてManifestoと書くはずだ。その理由はじつに簡潔明瞭である。政党と党首候補がマニフェストを出すなり、政治の中心は人物から政党へ移り、選挙区へのサービスや日和見的妥協ではなく課題と原則が政治的議論を支配する。マニフェストが策定されると、それに賛同できない政治家には、離党して新党を結成するほか道はない。かくして政党制度が再編成され、政治が活性化されるわけだ、という。

このマニフェストの全体像で一番問題があるのは、そこに政治が存在しないことだ。マニフェストが喚起するガバナンスのイメージとは、言って見れば、理想的な官僚国家のごときものである。この理想的なシステムにおいては、各政党は具体的な政治公約のリストを提示する。これらの公約がマニフェストとよばれる。それを「選挙公約」と書けば、新鮮味はないが、カタカナで書くと、なにか新しいもの、未知にして奥深いものが暗示される。有権者は、マニフェストに記された具体的な政治公約をもとに投票する政党を決め、当選した政治家は一連の公約をはたす。次の選挙が近づくと、有権者は、与党がそのマニフェストにどれだけ忠実であったかを判断できる。言い換えれば、首相がみずからのマニフェストを掲げて就任した時点で、政治は終わるのである。その後のガバナンスは、マニフェストにある公約の実行にすぎない。

このように機能する民主主義は、アメリカやイギリスも含めて、世界のどこにも存在しない。民主党にしろ共和党にしろ、全米党大会で大統領候補を指名する際には、党の政治課題を策定する綱領委員会も召集される。綱領はつねに妥協の産物である。党の急進派は極端な要求を綱領に盛り込もうとする。大統領候補者の側近は、無党派層にアピールすべく、より中道的な文言を使おうとする。もしくは、政策として採択される可能性が皆無に等しくとも、有権者に受ける抜本的改革の要求を強調してみせる。大統領候補者が党の綱領をどうするか決め、連邦議会に選出された党員はそれを実行するだけでよい、そういう考え方は現実の政治では根拠をもたない。

どうやら、アメリカ大統領の権限を大きくゆがめたものが、日本に根を下ろしたようである。大統領職に関するリチャード・ノイシュタット(Richard Neustadt)の古典的研究「大統領の権力と現代の大統領:ルーズベルトからレーガンに至るまでのリーダーシップの政治(Presidential Power and the Modern Presidents:The Politics of Leadership from Roosevelt to Reagan)」によれば、大統領の権力とは「説得力」である。民主主義の指導者は、自身の党、議会、国民に対して、みずからが提唱する政治の必要性を説得しなくてはならない。力ずく、立法上の妥協、日本式の合意形成手段である「根回し」、マスコミの効果的活用、意に従わない閣僚の解任など、説得のしかたはさまざまだ。綱領あるいはマニフェストを出すのは、そうした説得プロセスの一貫であって、終点ではない(1952年、ハリー・トルーマン大統領は退任に際し、軍出身の次期大統領ドワイト・D. アイゼンハワーの行く末を次のように話している。「彼はここに座り(トルーマンはもったいぶって執務机を叩いてみせる)、『これをしろ!あれをしろ!』と命令する。そして何も起こらない。アイクが気の毒だよ。軍隊のようにはいかんのだ。さぞイライラするだろう」)。

現代の政治を取り仕切るのは、多種多様な選挙民を満足させ、最大限の支持を得ようとする「包括型」の政党である。現代民主主義における主要な政党は、基本的な政治課題については意見を異にするどころか一致しており、したがって過半数の支持を得ようとするなら、複数の利益、ある意味では相反する利益を汲もうとするのは必至である。これら現代の政党は、日本でもどこででも(かれこれ半世紀前にアンソニー・ダウンズ(Anthony Downs)が提示した定義をわかりやすく言い換えれば)、個々の政治起業家が政治権力を追求するために結集したチームである。党の候補者は、さまざまな選挙区、さまざまな年齢、さまざまな所得水準、等々の有権者によって選出される。有権者が国政選挙の投票所に足を運ぶとき、彼らは政策の国民投票に参加するわけではない。自分の最善の利益にかなうチームを選びにいくのである。その選択には多くの要因が絡む。政党が掲げる政策を知ることもそのひとつだが、候補者の人格、党首のイメージ、現政府の実績、信頼に足る他党の存在あるいは不在も重要なファクターだ。

当然ながら、政党、そして党を率いようとする政治家には、いかなる政治を行おうとするのか有権者に説明する義務がある。マニフェスト運動は、それが政治課題の明確化を政党に促すという点で、有権者にとって選挙時の判断材料にはなるだろう。だが、それ以上のものになりえると考えるのは非現実的である。

政治家と政党は確実なものを追求しなくてはならない。ベテラン政治家の米上院議員、イリノイ州選出のエヴェリット・ダークセン(Everitt Dirksen)はもう何年も前に、政治家にとって絶対的に必要なのは原則をもつことだとし、こう語った。「わたしの第一の原則は、柔軟性である」。小泉首相は赤字国債発行枠を30兆円にするとの選挙公約をした。その公約を破ったとの批判に対して、大したことではない、あれは選挙公約にすぎないと言い放った彼は、当を得ていた。指導者は、選挙公約に忠実かどうかではなく、いかに統治したかで判断されるべきなのである。

民主政治というのは、多くの異論を抱合する厄介な仕事である。そこには妥協がつきものだ。国庫へアクセスしようとする利益集団間、何が国益かをわきまえているつもりの官僚と何が再選に利するかを知っている政治家の攻防、与野党のもみ合いが絡んでいる。

しかし日本においては、そうした行動は「後ろ向き」で「不道徳」と一蹴されることが多い。日本にはいわば「反政治」の長い歴史があり、その結果として改革派は、無菌の理想的な現代政治モデルを提起し、日本人の能力を測る物差しにしようとしているわけだが、当然ながら、それではいつまでたっても目的は達成されない。国政よりも選挙区、政策よりも人物頼みの党、等々を重視する政治家を体制から排除するためには、劇的にして抜本的な改革が必要である。

1970年代、日本の政治を浄化する手段として、改革派は派閥の解体を求めた。1990年代初めには、選挙制度を改革すれば日本の政治の諸問題は取り除かれるとして小選挙区制が導入されたが、これは紛れもなく、日本の現代政治史上もっとも見当違いの改革のひとつだった。そしていま、マニフェスト運動である。

おそらくだれかがそのうち、あらゆるマニフェストの生みの親「共産党宣言(Communist Manifesto)」の言い回しを存分に拝借したマニフェストを発することだろう。冒頭はさしずめこんなところか―日本の政治改革論者、団結せよ!反政治の空言を放逐せよ!日本の歴史的、制度的現実に取り組み、具体的、付加的、現実的なる改革に注力せよ! 君たちには幻想以外に失うものは何もない!

2003年8月7日
脚注

#本原稿はジェラルド・カーティスファカルティフェローがMiyakodayoriに執筆した"Political reformers of Japan unite!"を翻訳したものです

2003年8月7日掲載

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