中島厚志のフェローに聞く

第17回「所得格差と所得再分配という切り口―経済の諸問題を議論するために」

本シリーズは、RIETI理事長中島厚志が研究内容や成果、今後の課題などについてRIETIフェローにたずねます。

シリーズ第17回目は井上誠一郎上席研究員をお迎えし、所得格差および所得再分配についてお話を伺いました。

これまでの経歴について

中島厚志理事長 写真中島 厚志 (理事長):
井上さんは2019年7月にRIETIに着任されましたが、それまでの経歴についてお聞かせいただけますか。

井上誠一郎研究員 写真井上 誠一郎 (上席研究員):
1995年に通商産業省に入省して以来、中小企業政策など様々な業務に携わってきましたが、その中で比較的に長く、調査・分析の仕事に携わってきました。前職は、経済産業省の経済産業政策局調査課長を務めていました。在任期間は2015年4月から2019年7月までの4年3カ月で、戦後の歴代の調査課長の中で最も長い在任期間となりました。

中島:
それほど長い期間、調査課長を務められるということは、まさに適任だったのでしょう。具体的には、どんな分析をしていたのですか。

井上:
調査課では、景気動向の分析や経済財政諮問会議の審議への対応をしていました。経済財政諮問会議は、総理大臣が議長を務め、経済産業大臣も参画しており、平均すると月1~2回程度、開催されています。会議の事務局は内閣府が担っているのですが、経済産業大臣が会議での議論に臨むのに当たり、会議の議題に関係する経済産業省の取組などについて大臣に御説明する必要があります。そのための資料の作成などに携わっていました。

中島:
アベノミクスを事務方として支えてきたのですね。そういう意味では、今回のRIETI着任は問題意識と分析をさらに深める場を得るともいえるのではないでしょうか。

井上:
経済財政諮問会議では、社会保障、社会資本整備、地方財政、財政の健全化など、さまざまな議題が取り扱われます。幅広い分野に対応する必要があるため、一つひとつの分野を深く追求することは時間の制約からできませんでした。このため、RIETIでは、調査課時代に経験した様々な分野のうち特に関心のある分野について、より深く掘り下げていきたいと思っています。

これから研究していきたい分野

中島:
現在は、どんな分野に関心を持っていますか。

井上:
目下の関心事は「所得格差」です。関心を持ったきっかけの1つは、2017年4月にIMF(国際通貨基金)が公表した世界経済見通し(World Economic Outlook)における労働分配率の分析です。IMFの分析では、先進国全体で集計した労働分配率が1980年代以降、低下してきており、その主な要因は技術革新であることが示されました。例えば、スマートフォンなどの情報機器は、性能がどんどん向上する一方、価格はそれほど上がっていません。つまり、実質的には価格が下がっていることになります。このように価格が下がった資本財が労働を一部代替し、より資本集約的な生産が行われるようになったことで、労働分配率を押し下げる方向に働いたのではないか、との指摘です。

労働分配率の低下の要因として、経済活動のグローバル化の影響も技術革新の影響に比べると小さいのですが、一定程度の寄与をしていることが示されています。製造業のうち、衣服の縫製など労働集約的な産業は、生産拠点を先進国から新興国に移す動きが強まり、国内には製鉄業など資本集約度の高い産業が残ることにより、労働分配率を下げる効果があったと考えられます。

IMFの分析では、労働者を高技能、中技能、低技能に分けて、特に中技能の労働者への分配が減少していることが示されました。戦後の経済成長を牽引してきた中間層が厳しい状況にあるということです。さらに、様々な国をクロス・セクションでみると、労働分配率が低い国ほど、国全体の所得格差を示すジニ係数が高い傾向にあるという相関関係が一定程度あることが示されています。

所得格差に関心をもったきっかけとして、もう一つ、世界の政治情勢の大きな変化があります。2016年6月に英国の国民投票で決まったBrexit(英国のEU離脱)は、その背景の一つとして所得格差の拡大に対する労働者の不満があったと指摘されています。また、同年11月の米国の大統領選でトランプ政権の誕生が決まった背景も、白人のブルーカラー層の生活が厳しくなってきた不満がトランプ大統領への支持につながったと考えられています。これらの動きを踏まえれば、世界的に所得格差の拡大にどのように対応していけばよいのか、という問題がとても重要になっています。

日本における所得格差

中島:
確かに、米国と英国では所得格差の問題が深刻化してきています。日本における所得格差についても、ご意見をお聞かせください。

井上:
日本では、厚生労働省が「所得再分配調査」を行い、所得格差の程度を示すジニ係数を公表しています。社会保障制度や税制の所得再分配が機能しているおかげで、所得再分配後のジニ係数はこれまでのところ安定的に推移しています。しかしながら、日本はバブル経済の崩壊後に「失われた20年」といわれる経済低迷に陥り、いわゆる就職氷河期世代は正社員の職を得ることが難しく、非正規労働者の割合が大きく増えてしまいました。このため、今後は社会保障や税制による再分配後でも所得格差が広がってくる可能性が高いのではないかと懸念されています。「所得再分配調査」以外にも、所得格差の程度を示す統計にはさまざまなものがあるため、そうした統計やそれらに基づく分析を収集・整理しているところです。それらを総合的にみることで、日本の所得格差の現状をどう評価すればよいかを検討してみたいと思っています。

例えば、トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、各国の所得や資産の格差を各国の税務統計から推計していますが、米国と英国で所得格差が急速に拡大しているとする一方で、日本はそうでもないことを示しています。しかし、世代別の所得格差をみた場合は、全世代でみた所得格差と異なる動きがみられることが指摘されています。

RIETIのディスカッションペーパーでは、RIETIファカルティフェローである東京大学の北尾早霧教授と明治大学の山田知明教授が、2019年5月に、1984年から2014年までの総務省「全国消費実態調査」の調査票情報を用いて、世帯間の労働所得・総所得・金融資産の格差動向を分析しています。この分析によると、若年層における所得格差が若干高まってきている一方、高齢者の所得格差は縮小してきています。おそらく、前者は非正規労働者の増大が関係していて、後者は社会保障制度が機能しているため、と考えられます。このように、すでに様々な分析が試みられているので、収集・整理をしているところです。

中島:
先ほど、欧米では中間層の生活が苦しくなっている、二極化が進んでいるという話がありました。日本では、若年層の所得格差が広がりつつあるとのことですが、今後は全世代に広がっていく可能性があると思います。これからの対応は、社会保障、税制、正規・非正規雇用の問題など、経済だけではなく社会政策も含めた、とても幅広い分野に及ぶのではないでしょうか。

井上:
これまでのところ、全体としては所得格差が拡大していませんが、果たして今後どうなるのか。社会保障、税制、正規・非正規雇用の問題などを議論する上でも重要なポイントになると思います。広範な分野が関係しますが、これまで政策当局にいた経験から、様々な調査や先行研究を収集し、所得格差の実態についてすでに分かっていることと分かっていないことを整理し、政策当局においてそれぞれの政策の議論がなされていく上で参考になるようなポリシー・ディスカッション・ペーパーを書きたいと思っています。

所得格差に関わるさまざまな課題

中島厚志理事長 写真中島:
分野が広いので、焦点を絞らなければいけないということですね。同時に、日本より欧米諸国の方が事態は深刻なので、欧米主要国でもさまざまな研究や対応が出てきています。そういう事例も踏まえなければならないとなると、なおさら大変ではないでしょうか。

井上誠一郎研究員 写真井上:
米国や英国は、すでに所得格差が拡大してきており、どう対応していくのかが重要となっています。残念ながら、米国は所得格差などを巡る労働者層の不満を踏まえ、保護主義的な貿易政策で対応してしまっています。先述したIMFの分析でも、労働分配率の低下に最も寄与している要因は技術革新であるものの、経済活動のグローバル化も一定程度、寄与したとしています。米国は生産拠点の海外移転を抑制し、国内回帰によって国内に雇用を生み出そうとしていますが、結果、貿易戦争に突入してしまいました。しかし、「貿易戦争に勝者はいない」と言われるように、貿易戦争そのものは富を作り出すわけではなく、むしろ経済成長を犠牲にする可能性があります。所得格差の拡大を防ぐためには、関税の引き上げではなく、社会保障や税制の所得再分配を強化するなど国内政策を進めるべきです。格差の固定化を避けるために教育制度を再構築し、低所得の家庭に生まれた子どもでも質の高い教育を受けることができるようにし、高い所得の仕事に就くことができる環境を整えるという方法もあります。よく言われていることですが、インクルーシブな成長、すなわち経済成長と分配のバランスの取れた政策を進めることが本来は望ましいです。こうした面でも冷静に議論を整理することが必要だと思います。

中島:
通商問題や教育問題など、さらにテーマが広がりそうですね。所得格差は、現在の分断された社会、保護主義、反グローバル、ポピュリズムなどさまざまな問題の一端になっています。全てを解明することは難しいですが、整理して論点を絞り、その一端がクリアになれば、これからの混沌とした世界を乗り越えられるように思えます。

井上:
そうですね。それぞれのテーマごとに、格差拡大を防止するためにどうあるべきか、ということを各論に落とし込んで示すのは、私の能力の限界を超えると思います。もちろん各論を詰めていくことは大事ですが、全体を俯瞰する見方をすることも大事です。例えば、社会保障制度の給付と負担の見直しについて、制度の各論の議論に注目が行きがちです。もちろん各論を議論し、制度改革を具体化しないと意味がないのも確かですが、そもそも社会保障制度は、リスクが顕在化してしまった家庭が貧困層に陥ってしまわないようにするためのもの、つまり、所得格差の拡大を防ぐ機能も担っています。ですから、所得格差という切り口で、各政策の位置付けを議論し、整理していくことはできるのでは、と思っています。

経済成長との関わり

中島:
これからの研究の成果が期待されます。しかし、社会の安定という観点は分かるのですが、少子高齢化の日本では、どちらかというと医療や介護分野にますます多くの人材が必要になってきています。全体の産業構造、あるいは所得構造から見ると、それがすでに歪な形を形成しつつあるという声もあります。経済活性化のためにも、日本の産業競争力を高めなければいけないという観点もあるでしょう。さらに所得を制度で支えるだけではなく、むしろ産業構造の面から、所得を上げられるような価値を自ら体現していくことも必要になります。その辺りについては、何か問題意識をお持ちですか。

井上:
はい。所得再分配と経済成長は、車の両輪だと思っています。所得を再分配するためには、経済を成長させて富を増やし、再分配するための原資を稼がなければなりません。経済成長をしながら、公正に所得を再分配していくことが大切です。それを前提に、必然的に高まっていく医療や介護のニーズに対し、いかに効率的にサービスを供給していくか。さらに、そこからどうイノベーションを生み出していくか、ということが大事です。

この分野でも重要なのは、第四次産業革命を日本の中でどう実現するか、ということです。医療や介護の提供を効率化していくことや、新しい付加価値を創出することが求められます。その際、私が特に重要だと考えているのは、価格を下げる方向のイノベーションの実現です。

自動車産業の歴史を例に挙げてみたいと思います。かつて自動車というものが誕生した当初は、一般の人々には手が出せないほど高価で、富裕層のものでした。しかし、20世紀の初頭、ベルトコンベアを用いた流れ作業による大量生産方式が開発され、効率化と低価格化が実現しました。一般の人々でも購入できる価格になったことで自動車は爆発的に普及し、今日の自動車産業の隆盛につながりましたし、経済全体の成長にも寄与しました。

現在の医療産業でも、医療技術が高度化し、高価な製品やサービスが登場しています。例えば、がんの免疫療法薬「オプジーボ」や、早期のがんを照射で直す「重粒子線治療」はその典型で、画期的な医薬品や治療法で素晴らしい技術なのですが、とても高額なものとなっています。このような新たな医薬品や治療法は当初は高額でも、コストを下げるイノベーションによって、より安く供給できるようにすることが大事だと思っています。例えば、がんかどうかを血液1滴で検査できる技術が生まれ、安価に提供できれば、日本の医療財政も助かりますし、発展途上国など海外にも市場が広がり、日本経済の成長にも貢献するでしょう。

第四次産業革命の流れを利用して新しいビジネスを起こし、高齢化など世界各国に共通する問題を解決していくことで日本の経済成長の原動力とすることが理想でしょう。ただし、こうした技術革新による資本財の価格の低下は、さらに労働を代替し、労働分配率を下げる可能性があります。イノベーションによって安価になったロボットが労働を代替する分、労働者の方は新たな技術を使いこなし、ロボットではできない、より創造的な仕事をするようになることが必要です。このため、学校教育の充実も必要ですが、第四次産業革命で変化する産業構造にあわせたリカレント教育の整備が不可欠です。

リカレント教育については、様々な形がありうると思いますが、私自身、2009年に東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(東大EMP)という社会人向けのプログラムを受講し、リカレント教育の重要性を強く認識するようになりました。東大EMPは、受講生が民間企業や官庁から派遣された者、中小企業経営者などから成り、課題設定能力の育成を目的に、半年間、最先端の科学技術から宗教、哲学などの講義を受け、議論をします。このプログラムのおかげで、私も視野が大きく広がり、人脈も広がって、経済産業省で仕事をしていく上で、とても役に立っています。技術革新のスピードが速く、既存の知識がすぐに陳腐化するようになった今、リカレント教育は、経済成長のためにも、所得格差の拡大を防ぐためにも重要だと思います。

今後の抱負

中島:
さまざまな課題がつながっているだけに、ポイントをいかに絞って、どのような政策的な視点を導き出すか期待しています。最後に、今後の抱負を教えてください。

井上:
「所得格差」と「所得再分配」という切り口で、経済成長、社会保障、税制など多岐にわたる分野について横串を刺した議論をしていくことができればと思っています。これらの分野はそれぞれ個別に議論することも重要ですが、全体を俯瞰するような議論も重要です。「所得格差」と「所得再分配」という観点から議論の材料を提供できるようなポリシー・ディスカッション・ペーパーを書きたいと思っています。

中島:
大変期待しております。どうもありがとうございました。

井上:
ありがとうございました。

中島・井上2ショット写真
2019年12月6日開催

2020年1月21日掲載