最近、新聞などで、企業の社会的責任(corporate social responsibility、略してCSR)や社会的責任投資(socially responsible investment、略してSRI)といった言葉を目にすることが多くなってきた。「大手スーパーマーケットチェーンがCSR推進のための担当役員を置いた」とか、「大手信託銀行がSRI型年金投資案件を受託」といったように、企業の関心も高まっている。これらの言葉は、どのような背景から生まれてきたのだろうか。
2003年1~3月 | 4~6月 | 7~9月 | 10月~直近 | |
CSR | 12 | 39 | 57 | 110 |
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SRI | 16 | 37 | 53 | 82 |
米国とヨーロッパとで異なるCSR、SRIへの取り組み
まずは、CSR、SRIという言葉の意味から始めたい。漠然とした定義ではあるが、CSRは、「企業が法律遵守にとどまらず、市民、地域および社会を利するような形で、経済、環境、社会問題においてバランスの取れたアプローチを行うことにより事業を成功させること」、SRIは、「そうした社会的責任を果たす企業 (*1)に対して、株式投資、融資などの形で資金を供給すること」とすることができる。
横文字言葉であることからも分かるように、いずれも欧米が起源だが、CSRやSRIがどう進められてきたかという点で、米国とヨーロッパは大きく異なっている。民間発のSRI的な株式投資をてこにCSRが進んできた米国と、政府が道筋を付けてCSR、SRIを進めてきたヨーロッパというように、発展プロセスにおける政府の関与の度合いが違っている。
米国では、NPOなどの市民社会組織が主体となって、企業活動を監視し社会的責任を問う動きが盛んになってきた。その動きは、CSRを果たしている企業を株式投資先に選定するといった、資金の流れを通じて促進されている。
一方、ヨーロッパでは、市民社会組織のプレゼンスが米国以上に大きいが、CSRを促進しようとする報告書がEUレベルでまとめられるなど、政策的な取り組みも進んでいる。昨年6月にフランスのエビアンで開かれたG8サミットでも、CSR、SRIの重要性が強調されたが、こうした動きは、米国の株主重視の企業経営に対するアンチテーゼだと指摘する向きも多い。
欧米に比べて遅れが目立つ日本
ひるがえって日本ではどうだろうか。現在は、民間部門、政府部門いずれについても、欧米よりそれぞれ遅れが目立っているといえる (*2)。民間部門での端的な例が、SRIと位置づけられる株式投資額の小ささである。米国の230兆円、ヨーロッパの47兆円と比較しても、日本でSRIや環境といった基準を銘柄選びに使っている株式投信の総額900億円は、桁違いに小さい。
一方、政府部門を見ると、標準化への対応については取り組みが進んでいる。ISO(国際標準化機構)でCSRを国際標準にどのように組み込むかという議論には、日本から専門家を派遣している。加えて、日本国内でのCSRを踏まえた規格作りに向けて、日本経団連は、経済産業省と協力して去年の10月から議論を始めた。これには、ISOでの発言権を確保するという狙いもある。また、SRIへの個人投資家の関心度合いに関する国際比較を行うなど、CSRを果たしている企業のパフォーマンスを測定するといった試みも進んでいる。しかし、それ以外、たとえば、省庁横断的なCSRへの対応(英国ではCSR担当大臣、フランスでは持続可能性担当大臣を設置)、企業の社会や環境に影響する活動や、それを評価する年金基金が投資を行うに際しての情報開示基準の設定(英国、ドイツでは年金法を改正。フランスでは上場企業に対して企業活動の社会的・環境的影響に関する報告書の作成・公開を義務化)といった面では、日本での政府セクターの取り組みはヨーロッパより大きく遅れている。
日本が抱える問題とは?
このように日本が遅れているのは、日本でCSRに取り組む切迫さの度合いが薄いからではないだろうか。現在、日本の企業経営者がCSRに注目するのも、外国で進んでいるから、皆が関心を持っているからという理由が多く、CSRを進めないと企業の存続が危ういからという切実な動機では必ずしもない (*3)。マスコミでCSR、SRIが頻繁に取り上げられても、長続きしないと見る識者もいる。
政府内の議論を仄聞する限りでも、CSR、SRIへの取組については逡巡が見られる。ここ数年間、日本企業は見劣りする収益力を上げるために、極力新規投資を手控え、コストを切りつめてきた。にもかかわらず、社会的責任を果たすためには、目先低収益でも許されるというのはどういうことかという思いである。
この背景にあるものを突き詰めていくと、政府セクターに対する国民の信頼が揺らいでいる中で、それに代わって民間部門がどこまで役割を果たせるかという問題に行き当たる。たとえば、欧米でNPOが果たしている企業を監視する役割を、日本の市民社会が担えるのか、その結果として、企業は社会的責任をきちんと果たしてくれるのかという問題である。言い換えれば、そうした企業監視の圧力がないから、日本企業は、CSRを果たす切迫感を感じないということでもある。企業に対する有力な圧力団体であった労働組合の弱体化も、こうした状況を際立たせているようだ。
日本では、市民による企業への監視機能は生まれないのだろうか。また、利潤を追求する企業に、社会的責任を果たすことを求めるのは筋違いなのだろうか。
「企業の社会的責任と新たな資金の流れに関する研究会」について
これらの問題を考えるためにも、昨年4月から、私たちは、「企業の社会的責任と新たな資金の流れに関する研究会」を開き、大学、シンクタンク、金融機関、NPO、政府セクターなどさまざまな立場の方々からの話を題材に議論してきた。この研究会の問題意識の大本には、「社会的責任を果たす意識が突破口となり、国債などを通じて政府セクターに集中している個人の保有資産が、民間へのリスクマネーとして円滑に供給されるようにならないか」、という思いがある。そこで遅ればせながら知ったのは、企業、更には政府の行動をきちんと評価しようとする主体の存在である。
研究会では、午後5時まで地方公務員、5時からいわゆる「市民バンク」の理事長として、貸金業法の登録をした上で組合員から出資を募ってNPOへのつなぎ融資などを行い、94年の設立以来、貸倒れを1件も出していない方の話も伺った。貸倒れゼロは、融資先の事業体を正確に評価できて初めて実現するものといえよう。また、研究会と並行して行ったヒアリングでは、利潤追求と地域への貢献とを両立させる例があることを知った。既存のドラッグストアチェーンの店舗網を生かし、入浴介護事業を手始めに、首都圏などの人口密集地でなくとも、介護事業の黒字化を達成するビジネスモデルを作っている茨城地盤の企業がそれである。
もちろん、これらの事例を滅多にない能力を持った人がいてこその話と片付けるのは簡単だ。しかし、どちらの事業も最近生まれたこと、後者のケースでは、民間部門の力を活用する目的で始まった介護保険の導入が契機となったことは注目に値する。政策的な工夫次第では、民間部門が、企業、政府セクターに対する監視役、ステークホルダーとしての地位を高めることは大いに可能だということだ。
私たちの研究会では、CSR、SRIの意義を認め、それを推進するためにはどのような政策の方向性があり得るかを論点メモ [PDF:36KB]の形にまとめた。そこで示した政策メニューには、実現可能性に差があるものが並んでいる感はあるが、これが政策担当者も含めた議論に活用されることを期待したい。
※この文章はRIETIコラムより転載されたものです