Research & Review (2004年7月号)

財政と国民意識

中林 美恵子
研究員

はじめに

これまで財政問題は、政治や行政を司る政府が解決すべきものという視点で論じられることが多かった。もちろん今も財政にかかわる政府の専門的な役割とその重要性に変わりはない。しかし近年の財政改革はこれに加え、納税者および投票者である国民の支持や理解が重要な位置を占めるようになってきている。たとえば年金改革問題や増税問題といった、多くの国民に便益の減少や負担増を強いる改革が避けられない時代に入った今、有権者の意識は改革の方向性を握る鍵にならざるを得ない。

そうは言っても、政治家が国民に必要な財政改革や負担増および便益削減を提唱することは難しいことである。常に選挙で選ばれる必要のある政治家は、如何にして選挙に勝つかを政策選択の決定要因にせざるを得ない。巨額の財政赤字を抱える国家の財政再建という課題について、もし今増税をせねばいつかの時点で大きな歳出カットを余儀なくされると予測できても、長期的なそして世代を超えた国家政策の検討を棚に上げ、目先の必要性や利益追求に突き動かされる政治家が後を絶たない。それは、彼らが選挙に勝たねばならないからであり、財政改革の国民意識がそこに反映されているからである。また長期的視野で地道かつ堅実な改革を提唱できる政治家が、国民から理解され難いというジレンマの存在も、国民意識の反映である。

専門家の存在

一般国民が自国政府の抱える財政状況と長期的見通しについて認識を高めることは、容易なことではない。ましてや政府の意思決定プロセスが不透明であれば、財政改革を断行しようにも国民の意識がついてこない。さらに責任の所在が曖昧であれば、政治・行政のリーダーが十分なリーダーシップを発揮することもできない。これでは、仮に財政赤字削減という国家目標が達成されても、国民はそれを実現するために必要な認識事項を政府と共有できない可能性がある。

実際に日本の政策決定においては、立法府である国会の審議が始まる以前に大方の政策調整や利害調整が済まされることが多く、国民には極めて不透明なプロセスになっている。部門間の裁定は閉ざされた政治と政府内交渉にゆだねられ、全体像をコントロールする機能と責任の所在を明確にしていない。一般国民に見えないプロセスであるだけでなく、政府部門間においても仕切りが存在し、現場の当事者にとっても全体の調整は困難である。そこへ既得権益層や利益団体が加わり、総論賛成・各論反対の膠着状態が続く。そんな枠組みの中で、数字が実態を示してしまう財政情報をより多くの人々に開示し、財政に関する国民認識を高めていこうとする動機は存在し難くなる。また仕切られた多元主義に組み込まれた関係者は、個別歳出の必要性やロジックを優先させるあまり、財政の全体像を検討し調整するという政府の機軸機能さえ喪失させている。

そうした状況で一般国民の財政意識を向上させるには、政府と国民自身の努力のみならず、この両者を結びつける専門家たちの活動が欠かせない。専門知識は国民1人1人が努力しても簡単に得られるものばかりではないので、財政の専門家として知識や技術を備えた人間たちが、さまざまな貢献の方法を模索する必要がある。日本では専門家たちが政府機関にたいして協力・貢献する場合が多いが、NPO活動など市民に直接働きかける試みをはじめ、マスメディアを通しての公論、シンクタンクでの研究と国民への解説、政府部門の専門的機関で行う分析や成果の普及、そして選挙時期における啓蒙活動など、専門性を活かしながら国民にアピールする方法は数多くある。
つまり財政改革における国民意識は、政府と国民、そしてそれを結ぶ専門家という大きく分けて3種類のアクターが全て揃い、それぞれが十分に活動してこそ高まっていくと考えられる。

相互不信

国家運営の費用を負担しているのは、国民である。しかし日本人は自分がいくら納税し政府活動を担っているのか意識しない傾向にあるといわれる。所得税などについては納税対象者が非常に限られているので、費用負担意識を低下させているという見方もある。平成14年税制調査会の統計(2002)によると、所得税を納めている市民の数は、失業者を除いた実際の就業者数(約6446万人)の4分の3程度(約4773万人)であり、残りの4分の1程度(約1511万人)の勤労者は税を納めていない。さらに、日本の納税者の内訳は殆どが給与所得者(4346万人)であり、申告所得者数は僅か727万人に止まる。すなわち納税者の大部分は、給与から源泉徴収をされている層であり、勤労者の4人に1人は税金を納めていないことになる。これは所得税の課税最低限が高く設定されていることや、多くの種類の所得控除が課税ベースを狭めていることにも起因している。国家経営の費用について自分がどれ程の負担をしているのかを把握することなくして、納税者であるという意識が目覚めるのは容易ではない。さらに不透明な財政政策決定過程と国民の知識のギャップの存在は、深刻な相互不信を招いている。

政府には衆愚政治を避けたいとの意識が少なからずあるし、国民は政府の国家運営に満足はしていない。政府に対する国民の不信は、これまで日本にそれほど顕著なものではなかったが、昨今では国民年金問題や道路公団改革、地方と中央の費用分担など、政府のさまざまな政策案件に厳しい目が向けられている。とくに、大事な意思決定そのものが国会審議前に調整される日本の現状では、有権者の漠然とした不信感が消えることはない。財務省による国民意識調査(財務省(2002)によれば、57%の国民が財政赤字の現状について知っており、36%が「ある程度知っていた」と答えている。それは「余り知らなかった」(6%)および「全く知らなかった」(1%)という回答を大きく引き離した。そして財政状況に将来不安を感じるかどうかについては、「とても感じる」(77%)と「少し感じる」(19%)を合計すると、96%の人が政府の財政運営に不安を感じていた。また、「今の公共事業は役に立っていると思いますか」という問いに対して「役に立っている」と回答したのは15%に止まり、「一部の人に役立っている」(76%)と「全く役立っていない」(9%)とした回答が圧倒的多数を占めた。

こうして国民が抱き始めた問題意識を、いかにして深い理解へと進展させ投票行動に結びつけるかは、財政改革の方向性を決める鍵となる。もし政治・行政側の人間および専門家たちが、国民への不信感または衆愚政治への警戒感を根拠に、情報開示や政策の提示などを控えるなら、国民の選択としての財政改革は成立しないであろう。

国民の選択

多種多様な課題をかかえる現代において、国民の選択が何なのかを見つけることは簡単ではない。代表制民主制度においては、議員が国民意識を反映したフォーカルポイントを定める役割を負うが、人間は常に完璧ではない。国家財政においても、過去の我々の経験を見ればいかに政府や国民が失敗し易いものかは明らかである。そこで政策を決定する過程において、トレードオフが何なのかを政策現場のリーダーや財政の専門家が分かり易く示すことが、国民にとっては貴重な判断材料になる。ただし現実には専門家がトレードオフを示しても、政策決定に十分反映されずに、政治プロセスの中で抹消されてしまうことがある。こうした失敗は繰り返させないことが肝要であり、専門家の側も、情報の公開や政治プロセスの中で抹消されないだけの説明能力や分析の信憑性を確保する必要がある。

財政情報は、数字でトレードオフを提示しフォーカルポイントを探るための道具になる。国家の目標や、理想、経済的発展などを数字という形で示し、さまざまな行政活動を管理したり、有権者たちの要求に応えたりするのに便利である。また過去における政府活動を評価し、将来のプランを立てる道具にもなる。したがって財政改革においては、政府がそうした説明責任を果たし、国民の選択を可能にする機能を向上させる視点を忘れてはならない。実際に政策立案は、数限りない失敗と成功の連続である。そこで進歩を重ねるためには、過去の政策について何が成功で何が失敗だったかを検証し、より効率良く成功へ導くための政策研究が必要になる。ただし財政の最終評価は行政官僚が紙の上で下すのではなく、価値判断の主体であるべき有権者が下すものと認識する必要がある。

当然ながら財政政策においては、限られた資源の中で全国民に満足のいく行政サービスを提供することは不可能である。国民は、コストと享受できる便益の関係を理解し納得することが必要だが、全員の納得は難しい。そこで政策を提言した政治責任の明確化を測り、プロセスそのものに正当性をもたせることが重要となる。プロセスの正当性は国民にとって難しい案件の納得を迫ることができる。また責任の所在の明確化は、政策現場のリーダーたちが失敗から学び、より充実した政策を練ることへの動機付けとなる。コストと責任が明確になることで、真に能力ある政策決定者が評価され易くなり、そうした人材の政界進出が増えるであろう。民主政治は、試行錯誤を繰り返しながら成長し、国民の価値判断を問い続ける作業そのものである。政治が価値判断を使命とするものであるなら、財政政策はその価値判断を示すのにふさわしい道具である。

また国民の価値判断を問うための試行錯誤には、政権交代も欠かせない。予算編成には少なからず仕切られた多元主義が存在するものであり、時間が経つにつれて政治家・官僚・利益団体などの間に切っても切れない縁や連帯意識が育つ。これを断ち切るのが政権政党交代の本来の役割であり、それが政策転換および人材一新を実現する手段となる。安定した権力が保証されてしまえば、腐敗を防ぐ圧力も動機も事実上存在しなくなる。また政治から競争が消えれば、国民の貴重な学習チャンスが奪われる。

衆愚政治と国民

それでも行政や政治の現場では、衆愚政治に対する警戒感が根強い。国民に情報を出し判断を仰いだところで、質が高くしかも効率良い政策立案につながるはずがなく、国家はかえって迷走する危険性があるというわけである。もし一般国民が易きに流れ利己的な判断しかできない存在なら、そうした国民を巻き込むのは出来るだけ避けるのが賢明ということになる。それでは国民に判断を託す根拠として、一般国民にも長期的かつ公益的な判断ができる可能性は皆無なのだろうか。

国民は国家運営の費用を負担する納税者であり債権者である。それにもかかわらず、国家の問題となると単位が余りにも大きいがために、家計につながる経済観念を生かすことなく、自己利益追求に走る傾向があるのは、たしかに否めない。とはいえ、大衆という言葉が示すように数多くの有権者が存在するので、1人1人の利害対立は政治と行政の現場での対立ほど明確でない。そして何より人々は、良質の情報を得ることによって、家族のために家計を司るのと同じようなバランス感覚を発揮し、目先の利益を後回しにする選択をする可能性を秘めているとも考えられる。ホープ(2003)によれば、人間には道徳的情緒というものがあり、人は徳を見たり行ったりすることで大きな喜びを感じるという。悪徳を見たり行ったりすると憤りを感じるとともに自分の情緒を損ねられるように、道徳的諸情緒は善行の認識に依拠しているのであり、人々が善行によって大きな喜びを感じるときには、正義と慈善を認知しているという。人々の哲学や見識の中には、公正または公平であるという価値判断が少なからず存在する。利己的であるという人間行動の解釈以外に、徳性を示すということによって情緒的利益を得る場合もあり、徳性というものが財政に対する国民意識の中にも存在する可能性は否定できない。財政情報が十分に開示され理解された状態においては、自己利益の主張と追求だけが人間としての価値のよりどころになるとは言い切れないのである。高齢者福祉や年金、教育といった多くの政府支出に対して、義務だからという理由だけでなく、徳のある市民として財政負担の分担を望む国民心理が、潜在的であれ存在している可能性はある。

そうした徳性や正義感を市民が発揮するための基礎になるのが、可能な限り正確で信頼できる情報と分析の存在である。これは国民が自分から求めることも必要であるが、知らぬ間にある程度の正確な知識が入ってくる環境整備は行政側の課題でもある。また国民への正しい情報提供や教育は、知識豊富な専門家たちが実践すべき社会貢献であり財政改革の国民意識を高めるうえで不可欠なものである。

おわりに

国民は便益を享受するだけの存在では決してない。それを如何に認識するかは、巨額の財政赤字をかかえたまま高齢化社会に突入していく日本にとって、将来の改革の方向性を決定することになる。もちろん、国民意識の高まりだけでは財政改革を推進できるわけではないし、政治・行政の現場の制度やルールが整備されるわけでもない。実際には、政治家やスタッフが具体的な行動を起こさぬ限り財政改革はあり得ない。しかしながら、それだからといって国民意識を過小評価し、衆愚政治を避けるために国民への情報提供を避けるというメンタリティーを政策立案現場の人間や財政の専門家たちがもつなら、日本がこれから直面するタイプの財政改革を推進するのは非常に困難であろう。反対に、質の高い国民意識が育ってこそ、財政改革を推進する政策現場の人間たちは、強力な支持を広く得られるようになると考えるべきである。遠回りなようだが国民意識の向上は、優秀な政治家を高く評価する能力へとつながり、優秀な政治家が育つ基盤となる。

そのためにも、信頼できる経験と実績のある専門家たちの分析と端的な解説などが果たす役割は大きく、またその専門性はクレディビリティーつまり信憑性を勝ち得て初めて効果を発揮できる。財政改革は、こうした政府・国民・専門家たちの知の共有を基盤とした日本社会全体の力を試すものといえよう。

(本稿は、中林美恵子が独立行政法人経済産業研究所研究員として、2002年12月から開始した財政改革研究プロジェクトの成果の一部を要約したものである。本稿の内容や意見は、筆者個人に属し、経済産業研究所の公式見解を示すものではない)

文献
  • 青木昌彦(2001)、『比較制度分析に向けて』NTT出版
  • 財務省(2002)平成14年「財政についての意識調査アンケート」集計結果
  • 税制調査会(2002)第25回総会(平成14年3月5日)資料一覧
  • ホープ・ヴィンセント(2003)、「道徳哲学にたいするスコットランド人の貢献」、北爪真佐夫・内田司編『生活の公共性化と地域社会再生』の第三章

2004年7月13日掲載

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