企業の研究は参入障壁が低い研究分野の一つなのかもしれない。経営者や元サラリーマンが自分の会社での経験を雄弁に語ったもの、マクロ経済を論じていたエコノミストが書く企業論、経営コンサルタントの経験に基づく分析、綿密な取材に裏打ちされた企業小説など。それぞれ読んでみるとおもしろいし、参考になる観察や主張があったりもする。
その中で大学の研究者が企業を研究することの貢献はどこにあるのだろうか。それはある程度の抽象化が行われる点にあると思う。抽象化というと難しく聞こえるが、多くの企業を分析するために適用可能な分析枠組み、すなわちものの見方のようなものを提示するということである。
最近私が編者となって、『日本企業 変革期の選択』というタイトルの本を出版した。この本は、経済産業研究所がまだ通商産業研究所だった1999年4月にはじまった二年間の主要研究プロジェクト「日本企業研究プロジェクト」の成果である。執筆者の大部分は、経済学、経営学、法学など多様な学問領域で活躍する気鋭の研究者および研究者の卵たちである。1980年代を通してさまざまな分野で日本企業の競争力が注目されたが、日本企業に対する一般的評価は1990年代以降低空飛行を続けている。「日本企業の復活のためには英米の仕組みを導入しなければならない」などといった通説が広まったかと思うと、米国での不祥事等に対応して最近は「米国方式はダメ」という論調も案の定、出始めている。雑誌の記事や書物のタイトルをみると移り変わりの激しさがよくわかる。
私が編者の役割を担った本もタイトルだけみると巷にあふれるビジネス本と変わらないようにみえるかもしれない。しかし通勤電車の中で読もうと思わない方がよい。この本は経済産業研究所(RIETI)の「経済政策分析シリーズ」第一号として刊行されたもので、本格的な研究書である。どの章でも新たに実施された質問票や聞き取り調査、理論モデルの構築、新しいデータ・セットを用いた実証などに基づいた緻密な分析が行われている。どのようなユーザーを想定した政策研究・提言活動であれ、その裏に厳密な理論的・実証的研究が基礎としてなければならない。政策提言が重要なミッションであることは厳密な分析手法や精緻な学術成果を捨て去ることを意味しないのである。むしろそのような分析手法や学術成果を活用することに本書の存在する価値がある。
以下内容を簡単に紹介しよう。本書の焦点は日本企業自身の戦略、組織、マネジメントにある。すなわち企業の外的環境であるマクロ経済や政府の政策も重要な要因であるが、ここでは対象としない。本書は大きく分けて四つのパートから構成されている。第I部では「日本企業」とは何かを問い直す。1980年代以降に青木昌彦RIETI所長の先駆的な研究をはじめとして、日本企業を特徴づけ、日本企業が競争力を獲得するロジックを明らかにしようとするアカデミックな分析が世界規模で進展し、その成果は学界をはじめ一部政財界や一般の人々の理解も深めていった。しかし1990年代以降に日本企業への評価が極端に変化しても、1980年代の評価との関係、変化の源泉、進むべき方向などに関する厳密な検討が行われずに、上記のような主張だけが横行している。そのギャップを埋めるためには、1980年代の日本企業の競争力を説明するモデルを再検討する必要があろう。本書もそのような試みから始まっている。その上で1990年代以降の日本企業が直面する問題を整理する試みが行われている。また、いわゆる「シリコンバレー・モデル」に焦点を当て、伝統的な日本企業モデルおよび米国企業モデルとの比較も行われている。そこでは米国企業モデルと比べてシリコンバレー・モデルと日本企業モデルとの類似性が指摘され、成熟経済を前提とした米国企業モデルに単純に接近するのではなく、日本企業モデルの人的資本拠出者への動機づけに優れた部分を残すか、シリコンバレー・モデルを取り入れる必要性を説いている。
第II部では企業統治(コーポレート・ガバナンス)のメカニズムを考察する。「コーポレート・ガバナンスの空洞化」論というのをご存じだろうか。今日の日本企業には経営者をモニターする当事者が不在であるという主張である。本書ではこの主張を聞き取り調査および日本企業の経営者の選任と交代のパターンの詳細な分析によって検討する。そして外部からの介入なしにパフォーマンスに反応して経営者が交代するパターンや、経営者が従業員のやる気を引き出すために自ら行われる経営努力があること、いわば「自律的ガバナンス」が機能する可能性が主張される。もちろんそのような自律的ガバナンスが万能というわけではない。理論的分析によって自律的ガバナンスを株主によるガバナンスと比較し、長期効用の程度が低い産業、労働市場が流動的な産業、規制産業、衰退産業などでは自律的ガバナンスが機能不全に陥ると主張している。またデータの詳細な分析によって、事業リスクが大きいか事業再編の必要性が高い企業で、そのような自律的ガバナンスがより明確に観察されるが、経営環境が安定的な企業において年功ルールへの依存という負の効果が強まっており、そのような企業に対するコーポレート・ガバナンスの整備が課題となることを指摘している。
外部コントロールはどうか。日本企業のコーポレート・ガバナンスはメインバンク主導の状態依存型ガバナンスと特徴づけられてきた。企業のパフォーマンスが好調ならば、経営者および従業員集団が経営権を掌握し、メインバンクは派遣役員や決済口座等を通してモニタリングするのみである。しかし企業が財務危機に陥れば経営権はメインバンクに移り破綻処理が行われる。さらに株式持合によって資本市場からの規律づけが制限されるという特徴が、補完的に機能したといわれている。本書ではメインバンク関係、株式持合関係、そして資金調達パターンがどのような要因によって決まるのかを展望するとともに、日本企業の外部コントロール・メカニズムが今後どのように変化していくかを検討している。
第III部では、日本企業の戦略的決定に関する分析が行われている。「日本企業には戦略がない」とは、とりわけ最近よく聞かれる主張である。戦略といっても全社的な決定もあれば事業戦略もある。企業グループ経営の戦略もある。全社的戦略について本書は、アンケート調査を利用して戦略的意思決定を遂行するトップ・マネジメントの組織能力を測り、事業や技術の不確実性の高い企業にとって戦略的意思決定能力がパフォーマンスに重要な影響を与えることを示している。そして執行役員制などの改革を導入しても、それ以外のトップ・マネジメントの特性に変化がなければ戦略的意思決定能力の向上に貢献していないと主張している。事業戦略については、聞き取り調査とアンケート調査に基づいて、ある日本の大企業の事業経営責任者のプロファイルとキャリアが明らかされている。事業経営責任者の経営能力およびそれに起因する戦略性の欠如が、日本企業モデルの大きな欠点であると主張している。そして日本企業モデルと適合した事業経営責任者の育成・選抜の方式について検討している。
日本の大企業は子会社・関連会社等と親子型の企業グループを形成している。グループ企業のガバナンスは親会社にとって重要な戦略的決定である。本書ではアンケート調査に基づいて、グループ内の権限・責任関係および親会社による子会社・関連会社のモニタリングの影響を分析している。分析によると、小さな権限と大きな責任の組み合わせ、または大きな権限と小さな責任の組み合わせは、かえって企業のパフォーマンスを低くしてしまう可能性がある。またモニタリングは責任を与えることのコストを低減させて、権限委譲を促進する効果があると論じている。
最後に第IV部は三つの産業に焦点を当てて、イノベーションを生み出す組織、企業間関係、技能を考察している。焦点を当てる産業は、日本企業が1990年代にさらなる発展を遂げた工作機械産業、1990年代後半に入って日本企業の競争力が急速に低下した半導体露光装置産業、そして日本企業の競争力が強い家庭用テレビゲーム産業である。まず工作機械産業については、日米独での聞き取り調査とアンケート調査に基づいて、日本の生産現場にみられる、もの造り方式と新製品開発とがどのような状況で良循環を生み出すのかを分析している。本書の結論は次の通りである。日本の工作機械産業が1990年代にさらなる発展を遂げたのは、もの造り現場の能力以上に部門間での同時並行的な情報共有の仕組みが決定的に重要な役割を果たしたからで、現場の役割が突出してもなかなかイノベーションにはつながらない。一方半導体露光装置産業での日本企業の国際競争力の弱化については、一過性のものではなく構造的要因に起因すると主張する。具体的には、製造業の主体がエンジニアリングから科学ベースに移行する中で、半導体メーカーの側のニーズを効果的に捉え生産性向上を可能にするソフトウェア提供が不十分であったこと、および物理・化学的限界に近づきつつある装置の研究開発フェーズにおいて、従来の垂直統合型研究開発の境界を超えてより広範囲なコラボレーションを実行するための「出会いの場」が十分に確保されていなかったことを指摘する。家庭用テレビゲーム産業の分析では特にソフトウェア・メーカーに焦点を当て、イノベーションが生み出される構造を考察する。とりわけ本書では、専門的知識を持ったゲーム開発責任者のリーダーシップが強調される。日本企業の意思決定プロセスは情報共有および集団的合意形成によって特徴づけられることが多いが、このような組織では現状維持が選択されやすい。本書は理論分析によって、新規ビジネスが発展する可能性が高い状況では、リーダーシップ型組織の方が望ましいことを主張する。
本書全体のメッセージを、誤解を恐れずにまとめてみよう。「日本企業の競争力は低下した」「日本企業の復活のためには英米企業の特徴を導入しなければならない」といった主張の背景には、日本企業や英米企業の理念型が存在している。しかし本書は、理念型としての日本企業の理解がまだまだ不十分なものであったことを明らかにしたといえよう。内部コントロール・メカニズム、戦略的意思決定能力、事業経営責任者、子会社のガバナンス、もの造り能力とイノベーションのリンク、リーダーシップの役割など、本書の各章はそれまでの理念型が明確にしてこなかった側面に焦点を当てるか、理念型が扱った側面をいっそう精緻化する性格を持っている。今日の日本企業を評価し、変化の方向性への示唆を与えるためには、日本企業の理念型をより豊かなものにすることが不可欠である。裏を返せば、これまでの理念型に基づいて英米企業の特徴を導入せよという単純な主張に対しては、慎重な検討が必要だというメッセージになろう。
アカデミックな研究者による書物には、明確な提言が出せないという問題点がある。本書では論理的厳密性をなるべく犠牲にしないことを前提にしながらも、現状認識から一歩踏み込み、日本企業が選択すべき方向について幅広い読者層に提言してもらうことを各著者に要請した。その試みがどのくらい成功しているかは読者の判断に委ねなければならないが、現時点では類書のない本として、日本企業の分析に新たな貢献ができたのではないかと編者は考えている。
注 本稿の大部分は、本文で紹介した伊藤秀史(編)『日本企業 変革期の選択』東洋経済新報社(2002年9月)の「はじめに」から抜粋して再構成したものである。