政策シンポジウム他

グローバル都市の盛衰-東京圏、日本、そしてアジアにとっての含意

イベント概要

  • 日時:2005年3月18日(金) 9:00-18:00
  • 会場:国際連合大学ウ・タント国際会議場(東京都渋谷区)
  • 開催言語:英語⇔日本語(同時通訳あり)
  • 経済産業研究所(RIETI)は、2005 年3月18日、国際連合大学ウ・タント国際会議場(東京都渋谷区) において政策シンポジウム「グローバル都市の盛衰-東京圏、日本、そしてアジアにとっての含意-」を開催した。議事概要は以下のとおりである。

    ※文章内の図表へのリンクは配布資料へリンクしています。

    セッション4:パネルディスカッション「東京圏、日本、及びアジアにとっての含意」

    青山やすし氏、金本良嗣氏、サスキア・サッセン氏、アレン・J・スコット氏をパネリストに迎え、「東京圏、日本、及びアジアにとっての含意」というテーマについて、久武昌人上席研究員の司会で討議が行なわれた。主な内容は以下のとおり。

    スコット:米国では、「多様性」はキーワードで、ひとことで言えば「異質なグループを一緒にする」こと、基本的に「いいこと」ととらえられているが、やや機械的に解釈する傾向もあり、積極的差別(アファマティブアクション)というかたちで場所の分配や割当を決めるシステムとなっている。

    ただ、個人的には多様性という概念そのものもこれに対する米国のコミットメントも不十分だと思う。本来、我々が都市に見出すべきものは多様性そのものではなく、コンビビアリティ(共愉)とか仲間意識である。すべての個人やグループが市民権を持ち、政治的に受け入れられ、個人的な豊かさや発展を実現することのできる都市社会をつくることが重要である。

    サッセン:ニューヨーク、ヨーロッパの諸都市、東京等、ほとんどの大都市において、外国人エリート集団といわゆる移民労働者が存在し、上層部と下層部で国籍の多様化が見られるが、一方で、大多数のミドルクラスは標準的で、外国人の存在のインパクトはあまり受けていない。多様性を確保するということは、単に外国生まれの人々や異なる人種の人々が存在するということではなく、コミットメントが重要である。まず、都市にとって多様性が必要であることを認識する必要があり、それによってようやく民族区分が表面化する。それでもなおミドルクラスが支配する標準化された巨大なミドルセクターが存在し、この部分に多様性をもたらすのは大変難しい。ただ、他国の都市で過ごすことに興味を持つ若者たちが真の多様性の根源となり得るのではないか。上海、台北、東京等、アジアの諸都市でそういう動きがあり、ミドルクラスにおける多様性の兆しを見出すことができる。

    金本:多様性(人の多様性)があるということは、言語も多様になるということで、その意味において、英語もろくに話せない日本人にとって多様性は必ずしも望ましいわけではない。大事なのは、多様性そのものを求めるのではなく、アジア諸国はどんどん近くなっており、20 年後くらいにはEU のようになる可能性があることを認識することである。この観点からすれば、多様性を許容する文化や都市を持つことが重要である。

    青山:「多様性の問題は多様性を受容する文化の問題だ」という点は非常に本質をついている。ハード面(都市構造)については、東京は非常に多様な都市で、都心もあれば近隣商業地域、木造密集地域、戸建の良好な住宅街もあり、東京の大都市圏はいろいろなまちの複合体となっているが、ソフト面では、かなり排他的な意識が人々にあり、多様なものを許容する文化があるとは言えない。世界の人々が暮らしやすいまちにしていかなければならない。日本社会は職業、身分、学歴の固定化が進んでおり、このままでは活力が失われる。多様性の問題を考えることは、日本社会の有様や日本人の意識の問題に根源的な問いかけをすることでもあり、それが東京の活力になるし、日本の活力にもなる。

    久武:「多様性の受容」についての話があった。また、東京で再開発をする場合、10 年、20 年、30 年という長い年月がかかる一方、産業の足の動きはもっと速く、数年単位で動いていくという問題があるという指摘があった。多様性を受容する市民社会という概念と駅前の再開発、まちの再開発という非常に現実的な問題は全く離れた問題であるが、敢えて多様性を受容するという観点から再開発の問題をどう考えるか。

    青山:東京で再開発を行う場合、まず、基準容積率が低いため都市計画制限でどういうものがあるか、地権者の協力が得られるかという問題を考えなければならず、収益性の計算ができないくらい不確定リスクが多い。都心部等の再開発を必要とする部分に限って、既得権を絶対的に保護するという現在の法制度とは別の法制度を考えていくべきと思う。その場合、都心部ではある程度の収益性が見込めるので民間事業者による取組みが可能と思うが、地方都市の駅前開発のような場合、収益性はそれほど期待できないので、ある程度、資金面も含め行政の関与が必要だと思う。一方、特に住宅地の場合は、PPP(パブリックプライベートパートナーシップ)を含めた多様な参加形態が考えられるべきである。高度成長時代にできた老朽マンションの建て替えが問題になってくるが、建て替えを促進するようなインセンティブや制度面の多様なシステムを用意することが必要である。さまざまな目的に応じて、今の全国一律容積率・建蔽率規制というものを見なおし、新しい合目的的なシステムをつくりなおす必要がある。

    金本:日本は農地解放以降、土地所有がきわめて細分化されており、ちょっとした再開発でも地権者の数が1000とか5000とかの単位になり、合意を取り付けるのが非常に難しい。そのため何をやっても目立った進歩はないと諦めるべきだと基本的に思う。再開発は少しずつやっていかなければならず、まずは現状のものをどうやってうまく有効利用するかということを考えるべきだと思う。とはいってもいろいろなことをやる余地はある。日本の再開発は、もともとの土地所有者が集まり、建物を取り壊して道路をつくったり、広げたり、公園をつくったり、いろいろ整備した後、それぞれが持っていた土地の比率に応じていろいろな場所の土地を配分する区画整理という手法で行うため、再開発前の土地から再開発後の土地への配分を細かくやらなければいけないが、これを証券化すればもっと楽にできる。開発事業に関する証券をつくって地権者に配分する。地権者は開発後それを売り払って別の場所に行くことも可能だし、その証券を使って再開発された地域に新しい土地を買うことも可能になる。土地から土地への転換ならキャピタルゲインはないのに対して証券を売ったときには値上がり益に対して税金がかかる等、税制面の問題があるが、そのへんをクリアすることによってもう少しフレキシブルな仕組みができると思う。

    サッセン:西欧諸国でいくつか注目すべき動きがある。まず、「居住されるインフラストラクチャー(人々のために存在するインフラをどううまく利用するか)」という概念から、インフラを単なる実用性や機能を超えた目に見える建築物としてとらえる動きが建築家の間で出てきた。2つめは、ビル建設で避けられない時間枠の問題に対処すべく、理想的な高層ビルの量、具体的には、建物の高さと土地専有面積はどの程度か考えようという試みがロンドンで行われたが、その結果、1)高ければ高いほど収益性がいいというわけではないこと、2)建物の土地専有面積は大きすぎると、窓のない建物の芯の部分が大きくなり、老朽化したとき転用するのが難しいので、なるべく細い建物の方が好ましい、ということがわかった。高ければ高いほどいいというわけでなく、大きさについてもオフィス空間から居住空間への転用が簡単な「扱いやすい大きさ」というものがあるということである。3つめは、開発しきれていない空間の存在にそこに住む人々が郷愁を感じている、実用性を超えた何かがあるということである。その意味において、都市計画が困難であるという事実に乗じて、すべてを開発しきることはしないというのも悪い考えではないと思う。

    久武:東京をよく見ると、大手町は金融とかサービス関係の中心地になっているが、渋谷や池袋はIT産業やアニメコンテンツがいっぱいで、クリエイティビティを生かせるようなまちになっていて、その意味では多様性を受容している。ただ、こうした産業を担う「オタク」の文化が多様性を受容するプロセスは近代化の市民社会が想定しているものと異なり、お互いに相手に関与せず相手の自由を最大限に認める、自分と気の合う人たちだけで集まる結果、多様性が受容されている。お互いにいい意味で無関心でいることによって多様性のある社会になっていくということについてどう思うか。

    サッセン:「近代性」「クリエイティビティ」「オタク」という3つのキーワードがあったが、平均的な市民に提供するインフラという点で、東京はきわめて近代的なので、近代性は問題ではない。クリエイティビティについては、文化産業が経済の成長セクターとなり、都市において重要な場を占めるようになっている。そして、自分たちにしか興味のないオタクたちは、都市という空間で芸術やコンテンツを生み出し、日本はある種のコンテンツ、特にアニメ映画では世界でナンバーワンの存在となっている。純粋にクリエイティブなコミュニティがあって、そのコミュニティに属する人々が自分のことにしか興味がないとすれば、それはそれで構わない。ただ、そういうコミュニティがたくさん出てきたなら、それを受け入れなければならないということである。日本はコンテンツ以外にもデジタルでも建築でもすぐれたものを持っているし、すばらしい文化セクターを有し、その多くが東京にある。東京がニューヨークやパリに比べてクリエイティビティに欠ける印象があるとすれば、近代性の問題ではなく、官僚制度の存在のせいではないかと思う。

    久武:最後に、東京以外の日本の地域は今後どうしていけばいいかをお伺いしたい。

    金本:地方と一言でいってもイメージするものはさまざまだが、過疎地について言えば、かなりのものについて維持するコストが高く、中央政府からの巨額の援助で維持されているのが現状で、20 万人とか10万人規模の小都市は、第3次産業を引き寄せるだけの都市アメニティがなく、全体的に人口が減っているところが多い。日本の政策はこうした小さい都市の衰退を防ぐことに力点を置いているが、これはやっても意味がない。ある程度の都市アメニティがある100万人規模の都市(福岡等)を伸ばしていく政策が必要である。

    サッセン:特定地域へ集中は多くの先進諸国で見られる傾向であり、先進的なサービス経済が成立するためにはある程度の都市規模が必要である。ただし、たとえば製造業の本社機能のすべてを第1 の都市に集中させるという概念は徐々に薄れており、広報や財務等、特定の機能のみニューヨークに置くという動きが見られる。このことは東京以外の地域に経済活動を引き寄せる処方となり得る。

    また、ドイツのルール地方では、政府資金によって、老朽化し、本来の役割を終えた製鉄施設が原型をとどめるかたちで博物館のようなものに改築され、廃虚化していたはずの場所が多くの人々の訪れる観光スポットに生まれ変わった。これはかつて重工業等、非サービス産業で栄えた地方都市が採り得る選択肢である。ただし、費用は必要である。高収益の経済活動がほんの一握りの地域に集中し、その他の地域が衰退するという現象は、日本のみならず多くの国々が直面している問題であり、それは、きわめて強力な流れである。ある程度、防御することも必要である。

    スコット:東京と東京以外の地域の問題についての日本のアプローチは、パリとパリ以外の地域に対するフランスのアプローチに似ている。フランスでは何か変化が起こるとすれば、その変化は必ず中央政府から始まるという考え方があるが、そういう考え方はやめた方がいい。中央政府に頼るのではなく、各地域は自らの政治制度、政治的意識、社会的独自性を構築し、それぞれの地域のニーズに応じた制度をつくっていかなければならない。小さな都市や国内で取り残された地域が直面する課題は、これまで以上に主要な大都市圏と連携していかなければならないということである。グローバリゼーションの時代において、地域の将来は都市ネットワークにかかっている。必ずしも大都市圏との連携に限られず、小さい都市同士の連携もあり得る。

    青山:戦後60年間、日本の政策は、政府が地方都市のあり方について何らかのメニューを示し、それに陳情合戦を繰り広げて、当選するとそのメニューにリストアップされるということを繰り返してきた。新産業都市、リゾート等々、選ばれた30とか40の都市がそのメニューに合ったような形で地方の開発を試みては、失敗を繰り返してきた。地域の特性に合ったやり方をしていないためである。中央からメニューを示すのではなくて、地方からその地方の独自性を生かしていくということを追求していくべきだと思う。

    コンパクトシティという概念は、1)こじんまりしたまち、2)外縁的にスプロールせず郊外のグリーンベルトを守ること、という段階を経て、今は、3)高密度に複合的な機能を備えていることを意味するようになった。まさに100年前にイギリスのエベネザー・ハワードが唱えた「ガーデンシティ(田園都市)」の思想に基づく3万人都市の中で高級品から買回り品まですべてそろい、雇用機会もそこにあるという考えである。その地域に住む人たちの生活の質という点では、地方都市は決して捨てたものではないと思う。東京ではこれから景観を強く意識していく必要があるが、地方都市の場合、それなりに町並みに余裕があってそろっているところが多いので、観光という面での資源もいろいろ持っている。世界都市の考え方についても、昔は金融や経済が重視されたが、今はそれだけでなく、そこに暮らす市民の生活の質や文化が議論されるようになった。持続可能な社会という概念についても、環境的に持続可能というだけでなく、経済的にも、生活の質についても持続可能な社会をどうつくっていくかというふうに議論の傾向が世界的に変わってきている。そういう意味で、日本の地方都市は悲観的になるのではなく、自信を持って自らの特性を生かしていく方法を考えるべきだと思う。