コラム:RIETIフェローが見る瀋陽総領事館事件

瀋陽事件について

添谷 芳秀
ファカルティフェロー

最近の日中関係に関する議論を聞いていると、とてもいたたまれない気持ちになることが多い。日中双方とも、声の大きい議論の多くは一面的だといわざるを得ない。瀋陽事件をめぐって中国による国際条約違反や主権侵害の非を叫ぶだけの日本人の議論も、一面では真理をついた日本での議論を中国への無理解の表われだとする中国からの反論も、まったく同類だと思う。それぞれある意味では正しいことをいっているのだが、いずれも、近年の日中関係の感情的悪循環に嵌ってしまったケースに過ぎないのではないか。

日中関係は、日中両国にとって、より長期的でよりマクロな戦略論の観点から決定的に重要な意味を持っているはずである。その意味では、そしてその意味においてこそ、瀋陽事件をめぐる中国政府(あくまでも政府)の対応は、日本政府の対応よりも長期的な戦略に根差していたようにみえる。たとえば、瀋陽事件をとりたてて大きな問題にしようとしなかった中国政府の対応と、その政府の方針に敏感な中国の主要マスコミの抑制の効いた取り扱いは、国際社会との相互依存を深める中国の全般的な対外配慮、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との関係および朝鮮半島政策への配慮、中国経済の重みを拠り所とした地域戦略、そうした全体像の中での対日政策の基本方針を、重層的に反映した対応であったと見るべきであろう。それを中国政府の「好意」であるとか、中国の方にこそ国際法上の大義があるというのは、戦術的なスローガンにしか過ぎない。

しかし、中国側の議論の多くが中国政府の戦術的スローガンを信じてしまっていることの原因の一端に、日本側の対応があまりに戦略性を欠いていることがあることは否定できないだろう。たとえば、一般的政策として難民の受け入れに消極的である日本政府の方針は、何も今に始まったことではない。そのことと、瀋陽事件に関して日本が中国の国際法違反に抗議することは、本来関係のないことであり、日本への反論にその種の混同を許してしまったのは、日本国内での日本政府批判が脈絡を見失っていることも関連している。現地での日本大使館の後ろ向きの対応を批判するのであれば、日本の対中政策とは切り離し、難民政策全般の見直しの論理との関連において論ずるべきである。国際法違反に関しても、中国であろうとどこであろうと通用する論理で抗議すればよい。

瀋陽事件に限らず、日本の対中政策を論ずる視点は、日中二国間関係の次元を超えた所に据える必要がある。事を必要以上に荒立てたくないとする中国政府の方針は、経済中心主義に立脚する地域戦略、国際戦略に根差しているのである。ミサイル防衛や台湾政策を含めたブッシュ政権のさまざまな政策に対して、中国は以前であればアメリカによる「挑発」と受け止めて強く反発していたであろう。それを我慢しているのも、同様の文脈での中国の戦略的対応の一環である。ついでにいえば、歴史問題に関する中国政府の抑制された対日政策も、同様の構図のなかでの対日方針を反映している。

こうした中国をめぐるマクロな議論には、もう1つどうしても付け加えざるを得ない重要な問題がある。それは、共産党政権下の中国といえども、アメリカを源流とする民主主義グローバリズムの荒波から自由ではいられないことである。事実、中国社会は急速に多元化しつつある(その結果、戦略的であるとはいえ、抑制された対日政策は、日々一般民衆の厳しい反日感情による監視にさらされている)。多元化する中国社会をどう受け止めるかは、共産党政権の国内的な最重要課題となりつつある。

そして、中国の経済中心主義戦略に後押しされて、中国社会の多元化はもはや後戻り不能である。日本の対中戦略は、そうした時代潮流を踏まえて、アメリカとの同盟関係を基礎とした安全保障戦略、中国経済との相互補完性に基づく経済戦略、中国社会の多元化を見据えた市民社会戦略という3つの次元を組み込む必要があるだろう。

2002年6月20日掲載

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