Beyond GDP 指標:ウェルビーイング
近年、「ウェルビーイング」という言葉が、個人の幸福感や充足感を超え、社会全体の持続可能性や企業の新たな価値創造の鍵として注目されている(ここで議論は、主観的ウェルビーイングを想定しており、「ウェルビーイング」の考え方や測定の整理は、熊谷, 馬奈木(2024)を参照)。日本政府の骨太の方針にも掲げられ、経済界・産業界においても関心が高まっている。
GDP(国内総生産)は、長らく経済成長の主要な指標とされてきたが、財やサービスの生産額を示すものであり、人々の健康、心の豊かさ、社会的なつながり、環境の質といった真の豊かさを十分に測ることはできない。経済成長が必ずしも人々のウェルビーイング向上に直結しないという認識が広まる中で、GDPを補完する指標が求められている(Managi, 2019)。
このような背景から、経済活動の基盤となる「資本」を多角的に評価する視点が重要だ。従来の経済学で扱われてきた物的資本(工場、インフラなど)に加え、人的資本(人々の知識やスキル)、自然資本(自然環境がもたらす恵み)の重要性が認識されている。これらの資本を総合的に評価することで、社会全体の持続可能性とウェルビーイングへの注目が高まっている(Inclusive Wealth Project: https://www.managi-lab.com/iwp/iwp_home.html / 馬奈木, 2021)。ここでの考え方の物的資本、人的資本、自然資本の考え方は、ノーベル経済学賞受賞者のケネス・アロー、ジェームス・トービン、ウィリアム・ノードハウスからの生産ベースでの資本の考え方に基づく(Polasky et al., 2019)。
産業界が担う役割とアプローチ
人々の住まいや働く環境、都市空間の質が、心身の健康や社会的なつながりといったウェルビーイングに直接的な影響を与えることは明らかだ(Ida et al., 2024)。例えば、不動産や都市開発といった分野は、人々の生活基盤を形成する役割を担っており、ウェルビーイングとの関わりが強い産業だ。三井不動産・日鉄興和不動産といったリーディングカンパニーは、物的資本、人的資本、自然資本への取り組みを模索しており、九州大学と共同で「持続可能性に資する未来型の高度産業集積に関する共同研究」を行っている。
では、企業はどのようにウェルビーイング向上に貢献できるのか。また、どのように貢献できていると評価できるのか。その第一歩は、ウェルビーイングを客観的に「数値化」し、現状を把握することから始まる。どの要素が人々のウェルビーイングに影響を与えているのか、そして、自社の事業活動がそれにどのように関わっているのかを定量的に分析することで、より効果的な戦略を立てることが可能になる。
ウェルビーイングの数値化は、単にアンケート調査の結果を集約するだけでは不十分だ。例えば、都市開発においては、緑地の面積(Tsurumi & Managi, 2015)、公共交通機関の利便性(Li & Managi, 2023)、文化施設の充実度などを指標化し、それらが地域住民のウェルビーイング(Li & Managi, 2024)に与える影響を分析する。都市における環境汚染が住民の主観的なウェルビーイングに負の影響を与える可能性も指摘されており(Li & Managi, 2022)、人的・環境の質の維持・改善も重要な要素となる。就労環境においては、従業員のエンゲージメントスコア、ストレスレベル(Piao & Managi, 2022)、健康診断のデータ(Piao & Managi, 2022)などを統合的に分析することで、生産性向上や離職率低下といった具体的な経営効果との関連性を見いだすことができるだろう。
産業界がこうしたアプローチの一番の主体となるのは言うまでもないが、自らをどう評価すべきか、どこへ向かうべきかを判断するための指標の開発には、産学官の連携が不可欠だ。すでに産学官連携は進んでおり、例えば、われわれはサーキュラーエコノミーの指標開発に関連し、経済産業省や企業との連携をしており、人的資本の向上、環境負荷の低減と人々のウェルビーイング向上を両立させる新たな経済システムの構築を目指す取り組みを加速させている。今後、ウェルビーイングの数値化が一般化する社会への基盤となることだろう。
物的資本、人的資本、自然資本の評価指標
ウェルビーイングを多角的にとらえるためには、物的資本、人的資本、自然資本それぞれの評価指標を考慮に入れる必要がある。
- 物的資本(人工資本):建物、インフラ、機械設備などの物理的な資産であり、その量や質、効率性が経済活動の基盤となる。評価指標としては、インフラの整備状況、設備の老朽化度、技術革新の度合いなどが考えられる。
- 人的資本:人々の知識、スキル、健康状態など、生産性を高める能力の総体だ。教育水準、平均寿命、健康寿命、技能習得度などが評価指標として用いられる。近年では、従業員のエンゲージメントや創造性といった要素も重要視されている。
- 自然資本:森林、水、土壌、大気、生物多様性など、人間社会に恵みをもたらす自然環境だ。資源の量、生態系の健全性、環境汚染の度合いなどが評価指標となる。自然資本の劣化は、人々の健康や生活基盤に直接的な影響を与えるため、ウェルビーイングの重要な要素だ(Managi, 2019)。
企業が持続的な成長とウェルビーイング向上に貢献するためには、これらの資本をバランスよく維持・向上させる必要がある。将来人口は予測がしやすいものであり、地域ごとに詳細にAIで分かるようになっている(Li & Managi, 2023)。この中で、企業の新たな戦略を生かした地域での活用が求められる。
社会貢献を超えた企業価値向上へ
企業がウェルビーイングへの貢献を明確にすることで、単なる社会貢献活動にとどまらず、企業価値の向上にもつながる。投資家や消費者は、企業の社会的責任に対する意識を高めており、ウェルビーイングへの積極的な取り組みは、企業のブランドイメージ向上や競争力強化に貢献するだろう。将来的には、ウェルビーイングへの貢献度合いが、企業の評価を左右する重要な指標となる時代が到来するかもしれない。
社会全体でウェルビーイング指標が普及していく中で、企業は社会課題解決という視点からも新たなビジネスチャンスを創出することができる。このようなウェルビーイング経営として、優れた企業をウェルビーイング企業優良法人と認定制度とするものもできるであろう。
例えば、高齢化が進む地域における移動支援サービスの提供や、子育て世代のワークライフバランスを支援する製品・サービスの開発など、人々のウェルビーイング向上に貢献する事業は、社会的なニーズに応えるとともに、新たな市場を切り拓く可能性を秘めている。
ウェルビーイングの数値分析は、GDPだけではとらえきれない人々と社会の真の豊かさに焦点を当て、多角的な視点から企業が社会の一員として持続的に成長していくための指針となる。客観的なデータに基づいた戦略的な取り組みを通じて、企業は人々のより良い暮らしに貢献し、自らの価値を高めていくことができる。