分断に転じた世界貿易
世界貿易の近年の趨勢を見ると、今世紀初頭の急速な拡大は終焉し停滞期に入ったようである。こうした潮目の変化をもたらした要因については慎重に特定を進めるべきではあるが、1980年代の改革開放の方針以来グローバル経済に大量の低賃金労働力を供給してきた中国における賃金高騰に加え、市場経済や国際秩序に関する中国の基本的な方針の変更が影響していることは否定できないだろう。
米中対立は厳しさを増し、トランプ政権で急に引き上げられた米国の対中関税の多くがバイデン政権でも維持されただけでなく、先端技術に関連した貿易管理も強化され、国際通貨基金(IMF)のチーフ・エコノミストであるゴピナート氏がCold War IIと表現しているように(Gopinath 2023)、われわれは米ソ冷戦終結後続いたグローバリゼーションがひたすら深まる時代から第二次世界冷戦とでも呼ぶべき時代に入ったと言ってよいだろう。
実際に米中間の貿易は昨年には減少に転じ、中国に対する海外直接投資(FDI)は急減した。輸入した中間財を組み込んで輸出する精緻な国際分業に支えられたグローバル・バリューチェーンも、その寸断の脆弱性に注目が集まり、反転・停滞の局面に転じた。米中対立は、かつての日米貿易摩擦のような経済的利害を巡る対立の次元を超えて、軍民両用技術を含む安全保障面での国家対立となり、さらには、法の支配に基づく制度が整備された市場経済諸国と、国家が経済社会活動に広く深く関与・介入している国々のブロックに世界を分断する様相を強めている。
こうした情勢の中で経済分析を行う上での課題などについて述べてみたい。
経済安全保障を巡る経済分析
「経済安全保障」について確立した定義は見当たらないようであるが、経済「の」安全保障(国家として守るべき対象としての経済)との解釈もある一方で、経済「によって」(経済上の措置を用いて)国家の安全保障を確保することを指すという理解が経済的威圧など最近の動きを論じる上で有益であろう。その際に講じられる経済上の措置は多岐にわたるとはいえ、その中心は貿易の制限で、輸出や輸入を制限する国が大国の場合には、交易条件効果も加わって影響は増幅される。
こうした経済安全保障についての経済分析の主なトピックスは、安全保障を目的とした措置が経済にどの程度、また、どのように影響を与えるかを明らかにすることである。ある国によるある財の供給制限や輸入規制がグローバル・サプライチェーンの投入産出連鎖を通じて他国の生産に与える影響の分析が典型例である。今年の通商白書(経済産業省 2024)でも報告されているように、国全体の貿易が特定国にどれだけ依存しているかだけでなく、詳細な品目分類に分割したり、あるいは投入産出関係を遡ったりして依存度を計測することが重要である。
また、直接に規制された貿易だけでなく、迂回や代替によって生じた効率性の低下やコストの上昇、すなわち、安全保障上の要請という制約が強まったために企業の利潤極大化・最適化行動で選択できる範囲が狭まる影響を広く考慮に入れる必要がある。備蓄積み増しなどリスク軽減のための対応によるコスト負担も加わる。また、消費者にとっては、世界から多様なバラエティーの品々を廉価で輸入できるメリットが制限されることとなり、その負担も忘れてはならない。
世界の分断がウクライナのような実際の戦闘に至らずに冷戦として管理される前提だが、規制の範囲は極力狭く設定して(small yard, high fence)、先端技術との関わりが弱い広範な財の生産は今後とも比較優位の原則に基づいて国際分業・国際貿易が続けられることが経済安全保障の負担を緩和するためにも大切である。
ただ、冷戦による世界の分断が経済に与える影響は、今述べた貿易にとどまらない。前世紀末からのグローバル化を特徴付けた現象の1つにFDIの著増があったが、FDIは中国向けなど大幅な減少を見せ始めており、またわが国を含む先進国の多国籍企業は多くの生産活動を母国の外で行っていることから、FDIへの影響も貿易と並んで重要なテーマとなる。
貿易についても、伝統的な通関データで把握される財(モノ)だけでなく、知的財産を含むサービスの貿易に与える影響も看過できない。世界の財貿易が停滞期に入った一方で、サービス貿易が高い成長を続けていることから、国際経済に占めるサービスの重要性は高まっている。モノ、資金、技術・情報の流通、さらには人の往来も影響を受ける事態になれば、短期的な生産縮小にとどまらない長期的な生産性の低下がボディーブローのように効いてくることも懸念される。
なお、先端半導体を巡っては、以上に述べてきた輸出管理の対象としての議論に加え、自国に生産を誘致するための国際的な補助金競争が激しさを増している。広範な国内産業政策は経済安全保障に間接的に関連する側面があるため、経済安全保障を議論する場合には対象が余りに広がり過ぎないよう注意する必要がある。国内生産支援策については、同志国からの調達でも残るリスクの安全保障上の検討に加え、自国生産によるコスト増の負担、産業政策的介入の必要性・有効性等に関する経済的検討を深めていく必要がある。
RIETIの研究活動
RIETIでは、これまでも広い意味での経済安全保障に関わる研究が行われてきた。特に、グローバル・サプライチェーンは前世紀末からのグローバリゼーションを特徴付けてきたところで、RIETIの貿易・投資プログラム担当PDとなられた戸堂康之早稲田大学教授らは、日本の産業連関表等のデータを用いて、途絶する輸入中間投入の額を大きく超える国内生産減少がわが国で生じる可能性を指摘している。実際には価格や技術も変化し途絶した供給を他の供給源で代替する動きも出てくることから、今後は、代替的な仮定の下でさまざまなシナリオについての試算を積み重ねていくことが有益である。
また、産業連関表は産業間の投入産出に関する詳細なデータをまとめたものではあるが、あくまで集計された産業レベルの数値であり、同じ産業に属する異質な企業の平均値を示したものであることにも留意が必要である。この点で、企業レベルでの取引ネットワークに関するミクロデータの活用が期待されている。この他、安全保障輸出管理が貿易の流れに与えた影響の分析も経済安全保障に直結するトピックである。RIETIでも、張紅詠上席研究員、ソーベック上席研究員らが関連した研究に取り組んでいる。
経済安全保障については経済学の分析に元来なじみにくいテーマが多いため、経済分析を中心に研究を行っているRIETIにおいても、狭義の経済分析にとどまらず通商ルールに関する法学的な研究に関して川瀬剛志ファカルティフェロー(上智大学教授)を中心に取り組んでいる。安全保障を理由に掲げる貿易制限措置が多発するに至り、また、機能不全に陥っているWTOにおける紛争解決メカニズムの再構築が求められる中で、ルールに基づく国際秩序の維持に向け精緻な議論を積み重ねていく必要がある。
同志国シンクタンクとの連携
世界でハイレベルの研究を目指すRIETIは、これまでも世界のシンクタンクと研究交流を行ってきたが、最近はテーマが経済安全保障に集中する傾向が顕著である。このところ開催された国際シンポジウム・国際ワークショップはほぼ全て経済安全保障に関連したものと言えるほどである。法の支配が貫徹し成熟した市場経済の国にあって似たような安全保障環境に直面する「同志国」のシンクタンクとは、分析すべきテーマや対応が求められる課題等に共通点が多いこともありレベルの高い意見交換が期待できるため、今後さらに連携を深めていくことが重要であると認識している。
関連研究成果の「見える化」
このようなことから、RIETIとしてもわが国経済産業にとっての重要な課題として経済安全保障の研究を重視して進めていく方針である。ただ、本格的な研究ほど時間がかかることが避けられないため、RIETIのホームページに「経済安全保障特集」と題した特設サイトをまずは設け、これまでRIETIが蓄積してきた研究成果の中から関連したものを取り出して「見える化」したところである。経済安全保障にご関心のある方が関連情報を検索する際にお役に立てれば幸甚である。
ベルリンの壁ができてから崩壊するまでと、その後のグローバル化が進んだ期間は、いずれもおよそ30年ぐらいであったが、今般の米中新冷戦も長期にわたると覚悟すべき要素は多い。他方で、安全保障情勢は刻々と変化するものでもあり、想定外の事態に備えることも求められる。RIETIとしては、政策当局との緊密な意見交換により政策貢献につながる機動性を保ちつつも将来の学術的批判に耐えるよう腰を据えて経済安全保障に関する研究を推進していく考えである。