岸田政権の「新しい資本主義」とは
2021年10月に発足した岸田政権の経済政策のキーワードは「新しい資本主義」だ。例えば、2022年1月の総理施政方針演説を見ると、これまでの資本主義が生んできた「様々な弊害」(「格差と貧困の拡大」、「中長期的投資の不足」、「気候変動問題」など)を是正する「経済社会改革に挑戦」することで、「成長と分配の好循環」を実現し、「資本主義がもたらす便益の最大化」を目指すと記されている。
特に、政権が「新しい」という言葉に込めているのは「分配戦略」の重視である。当初、「分配するためには成長が必要」という批判を受けて、政権は「成長戦略」と「分配戦略」の両輪を強調するスタンスに変更しているが、後者により軸足があることは変わってはいない。「分配戦略」として具体的に挙げられている課題としては、施政方針演説では、「賃上げ」、「人への投資」、「中間層の維持」、であり、安倍・菅政権でも、課題として取り組んできたテーマであり、特に目新しさがあるわけではない。
的外れな過去政権への批判
筆者が、むしろ目新しいと感じたのは、上記、「様々な弊害」の背景に対する認識である。施政方針演説では、「市場や競争の効率性を重視し過ぎた」、「市場に任せれば全てがうまくいくという、新自由主義的な考え方が生んだ様々な弊害」と指摘されている。これは、過去の政権の経済政策を暗に批判することを意図しているのだろうが、的外れと言わざるを得ない。なぜなら、米国の場合であればともかく、日本がそうした弊害を生むほど市場や競争の効率性が高まったとの査証はないためだ。
確かに、バブル崩壊以後、90年代末に金融危機を迎える中で、日本経済が行き詰まり、政府の規制・関与を徹底的に見直し、規制・構造改革を進めるという機運が高まり、それが 2000年代の小泉政権に継承されていった。しかし、小泉政権で目指されたものは「市場主義」、「新自由主義」というよりも族議員の既得権益破壊や政府支出規模を引き下げる「小さな政府」に主眼があったと筆者はみている。一方、安倍政権は第一次、第二次も含め組織の論理や常識にしがみつくエリート官僚・日銀マンの徹底否定が根本にあると考える。当然、霞が関・日銀との対立があったわけだが、それが「市場主義」、「新自由主義」を意味していたわけではない。むしろ、その本質は、為政者が経済を好転させることができるという一種の「パターナリズム」だ。株価を意識した経済運営、政府が経済成長を高めることができることを前提とした「成長戦略」がその良い例である。「市場主義」、「新自由主義」を徹底すれば「成長戦略」という発想が出てくる余地はないはずだ。
「分配戦略」を強調する理由
それでは、岸田政権はなぜ「新自由主義」をやり玉に挙げ、「分配戦略」を強調する「新しい資本主義」を提言したのか。これも筆者の想像の域を出ないが、かなりの部分が選挙対策と考えて良いのではないか。中位投票者定理やホテリングの立地論を挙げるまでもなく、二大政党の場合を考えると、両党がより多く支持を集め、得票しようと考えればその主張の差はなくなることが知られている。このため、自民党からすれば、野党があたかも主張しそうなことを主張し、争点をなくしてしまうことがある意味最善の選択となり得るのだ。また、コロナ下での2回目の給付金、大型の補正予算を正当化するレトリックも必要であったろう。
このように政権が選挙目当てに行う政策は当然、問題視する向きもあろう。一方、政権が長期運営を目指すのであれば、国民経済的に考えても正当化される余地はあるかもしれない。なぜなら、政権が安定し、長期運営が見通せなければ、国民に多少不人気でかつ、成果が出るまでに時間がかかるが日本経済にとって必要となる改革を断行することはできないからだ。
しかし、今の「新しい資本主義」の概念・ロジック、特に、「分配」というキーワードにこだわり続けていると、行き詰まることは目に見えている。なぜなら、政府の所得再分配政策がどうしてもイメージされてしまうからだ。長期政権を目指すのであれば、「新しい資本主義」の「部品」は生かしつつも、その位置付け、組み立て方、ロジックなどは再考する必要がありそうだ。
「新しい資本主主義」は「ステークホルダー資本主義」?
筆者が「新しい資本主義」の「部品」として特に重要と考えるのは「賃上げ」、「人への投資」、「気候変動問題への対応」である。最初の2つは、要は、労働者としての「ヒト」への手厚い配慮ということでまとめられるし、3つめは広く言えば、SDGsに当たるような地球的・社会的課題への対応ということになる。このように整理すると、要は「ヒト」が大事ということだから、「新しい資本主義」は80年代に脚光を浴びた「人本主義」と考えればよい、また、社会的課題の対応も含めて、要は、「ステークホルダー資本主義」と考えれば良いのではと思う向きも多いかもしれない。折しも米大手運用会社のブラックロックのCEOが「ステークホルダー資本主義」の重要性を表明するといった報道もなされている。これらの対立概念である株主の利益を最優先する「株主資本主義」は「市場主義」と同じ文脈で批判されることも多い。
筆者は、「新しい資本主義」を「人本主義」や「ステークホルダー資本主義」とすり替えてしまうことには反対だ。いずれも従来型の日本経済システム(雇用システムなどのサブシステム)を追認することしかならないという意味で新味はない。また、後者は「株主資本主義」を否定するということであれば、それは資本主義の根幹を揺るがすことになるからである。企業が利潤最大化、ひいては、企業価値の最大化を怠れば、必ず、市場で淘汰(とうた)されることになる。コーポレートガバナンスは、必ずしも企業価値最大化に向かわない経営者に規律を与える仕組みと考えるべきだ。
それでは、従業員を含めた他のステークホルダー(利害関係者)に配慮したり、さらに、それを進めて社会貢献を考えることは企業の利潤最大化行動と必ず矛盾するのであろうか。この問いに答える1つのカギは企業経営の視野の長さである。例えば、従業員への投資はその時点では企業のコストになるが、ある程度の期間が経過し、従業員のスキルやパフォーマンスに反映され、企業の利潤に結び付くことになる。社会貢献といわれるものも従業員のケースよりも企業が恩恵を受けるのはもっと先になるかもしれない。しかし、十分な期間をとれば、企業への信頼・評判を高める効果があることで企業の利潤最大化と両立し得ると考えられる。
以上を踏まえれば、「ステークホルダー資本主義」はかなり長期的な視野からの利潤最大化、「株主資本主義」はかなり短期的な視野からの利潤最大化に対応すると整理できよう。日本が高度成長期から80年代までの経済システムは安定的な経済成長の下、ゲーム理論でいうところの(無限回)繰り返しゲームに擬される長期・相対的取引をベースとしたものであったが、それがまさに長期的視野を可能にしたといえる。また、こうした見方は80年代の米国の株主至上主義の企業経営が、“short termism”と批判されたこととも符合する。
従業員のウェルビーイングの向上、社会的課題への貢献、企業価値向上が両立する「ステークホルダー資本主義2.0」を目指して
このように考えれば、岸田政権の「ヒト」重視、気候変動問題といった社会課題対応も資本主義の根本である企業の利潤最大化行動と矛盾することなく考えることができる。しかし、日本企業にとっての問題点は経済の低成長や増大する不確実性でかつてに比べて長期的視野が持ちにくくなっていることだ。日本企業で人への投資が減少していることと視野の短期化は関係がありそうだ。従って、今の日本では、長期的視野を前提とした「ステークホルダー資本主義」は憧憬(しょうけい)の対象であっても「新しい資本主義」にはなり得ない。
一方、大きな時代の変化の中で、経営視野の長さに依存しない「ステークホルダー資本主義2.0」が生まれつつあるのではという予感もある。例えば、今、日本のエクセレント・カンパニーと呼ばれる企業では、働き方改革をさらに進化させ、従業員のウェルビーイング(肉体的、精神的、社会的に良好な状態)を高めることで、企業業績を高めようとする取り組みが広まっている。ウェルビーイングは仕事のやりがいやワークエンゲイジメント(熱意、活力、没頭)といった要素も含む広い概念だ。実際、健康経営の取り組みも実際に企業業績を高めるという分析結果も出ている。むしろ、従来型の「人への投資」よりも企業にとってのメリットの回収期間が短くなっているのだ。
資本主義の根幹には、長らく、「資本家と労働者の対立」があった。労働者にとってのメリットは企業にとってコストでしかなく、いかにそれを最小化することが求められてきたが、そうした対立や常識が急速に陳腐化してきているように感じる。企業の生産性向上の源泉が物的資産から無形資産を含む広い意味での人に付随・生み出す資産に移り変わっていることもその背景の1つであろう。
社会的課題への取り組みについても従来よりも早く効果がでてきている可能性がある。例えば、ESG投資に代表されるように、投資家によるこうした取り組みへの明示的な評価は企業価値への直接的な影響を与えるようになっている。また、需要者(消費者)に対しても環境問題などの社会的な課題への取り組みはより大きなアピールを生むようになってきており、これも直接、売り上げを高める効果が期待できる。さらに、最近、企業の存在意義を明確化する「パーパス経営」が注目されているか、企業は優秀な人材を集めるためには、利潤最大化を超えてどのような社会貢献を行いたいかを示し、彼らから共感を得ることが以前にも増して重要になっている。
今、日本が目指すべき「新しい資本主義」があるとすれば、それは、何か。従業員のウェルビーイングの向上、社会的課題への貢献、企業価値向上という3つが両立し、相乗効果を生むような「ステークホルダー資本主義2.0」が1つの答えであろう。